抱き締められたその腕は、炎のように熱かった。








熱と理性と










「……あ〜、眠ぃ〜」

 隣で歩くラッシュが、欠伸混じりでそう呻いた。

「夜中に見張りなんてツイてねぇな〜……」
「そんなに腐るな、ラッシュ」
 そう苦笑して、ビュウは言葉を続ける。
「寝てないわけじゃないだろ?」
「そりゃ仮眠はしてたけどよ〜」
 ボヤくように、ラッシュ。渋い顔でこちらを見ているのが、暗い艦内にポツリ、ポツリと灯る明かりに、微かに照らされている。
「せっかくいい気分で寝てたところを起こされてみろよ。気分悪ぃし眠ぃし体ダリぃし眠ぃし……――」
「それがどうした、ってんだ? ラッシュ」

 あっはっは、と乾いた笑い声をビュウは立てる。誰もいない暗い廊下に、その笑いはひどく寒々しく響いていった。

「俺なんか、ここのところ帳簿付けと領収書のチェックでずっと徹夜だぞ?」

「……………………」
「ん? 俺の顔に何か付いてるか?」
「いや、何て言うか、確かに目が充血して……――いや、何でもねぇ。忘れてくれよ」
 視線を合わせた途端、ラッシュはそっぽを向いてしまった。自分は今、どんな顔をしているのだ?
 ……などと思ってはみるものの、ここに鏡はない。そしてこれから見張りの時間。見ている時間そのものがない。
 何はともあれ、眠気がろくにないのは幸いな事だった。例えそれが、寝不足の行き過ぎで脳がおかしな事になっているせいであっても。

「――で、どっちがどっちに着く?」

 ラッシュが急にそんな事を言ってきた。
 艦橋へと上がる階段の途中である。定まりきった事のように喋っているラッシュに対し、ビュウは首を傾げる。

「…………どっちがどっち?」
「あぁ?」
 尋ね返すと、隣の彼はひどくおかしな顔をした。何言ってんだこいつは、とそんな顔である。
「何言ってんだ、ビュウ?」
 次に放ってきた言葉が不審げな表情とマッチして、おかしさが倍増される。それにしても、今何かそんなにおかしな事を言ったのだろうか。そちらの方が、ビュウには疑問だった。
「見張り台の前と後ろ、どっちに着くか、って話だろ」
「――――…………ああ」
 ポン、と手を打つと、ラッシュはますます不審げな――そしてどこかこちらを案じる表情をした。
「……大丈夫か?」
「まぁ、何とか」
「見張り、俺一人でやるから、ビュウは寝たらどうだよ」
「ンなわけにいくか。見張りは二人一組、って決まってるだろうが」
「そんな状態で、敵の夜襲を見落とした、って事になる方が俺は怖ぇよ」
「安心しろ。グランベロスの夜襲ぐらい、キッチリ見つけて報せられる」
 と言ってから、一言、付け加える。

「マテライトのオッサンの横領工作も見破った俺の眼力を甘く見るな」

「……ってか、あのオッサンのやる事為す事全部が全部穴だらけだったような……」
「んー? 何か言ったかー?」
「いや、何でも」
 一体どうしたわけか、疲れたようにかぶりを振るラッシュ。ビュウは再び首を傾げる。
「何だ、どうした? 何か疲れてるぞ?」
「……あんたに言われたくねぇよ」
「俺はまだ平気だぞ?」
「嘘吐けっ!」
「怒鳴るな。他の連中が目ぇ覚ますだろ」
「――でっ!? ビュウはどっちやるんだよ!」
「だから怒鳴るな、って。――じゃあ、後ろで」

 ファーレンハイトには、艦橋正面と背面に、それぞれ見張り台がある。
 艦橋前部、操舵席の脇にある前方警戒のための見張り台が正面――ラッシュが言った「前」であり、艦橋後部から行ける、扉と狭く短い通路を隔てて外部に突き出た後方警戒のための見張り台が背面――今、ビュウが選んだ「後ろ」である。

 艦橋に出る。
「――ビュウさん、ラッシュさん」
 操舵席を照らす弱い光の中で、航空士補のクルーが操舵輪を握ったままこちらを振り向き、軽く頭を下げた。

 現在、ファーレンハイトはゴドランド領空内にいる。目的地は、この近空に浮かぶ小ラグーンに築かれた少し大きめの街。物資を補給するために立ち寄るつもりだ。
 通常巡航時、ファーレンハイトの操舵輪を握るのは、何も航空士のホーネットだけではない。航空士補として彼をサポートするクルーもまた、その役を担う。深夜の操舵も当直制になっているから、操舵席にいるのがホーネットでなくても、不思議はなかった。

「交代ですか? ご苦労様です」
「おぅ。じゃあビュウ、そっち頑張れよ」
「お前もな」
 そう返して、ビュウは踵を返してラッシュに背を向けた。ラッシュが操舵席の方に向かうのとは逆に、ビュウは艦長室――の横手にある背面の見張り台に続く扉に足を向けた。

(そういえば)

 そのドアノブに手を掛け、ふと思う事。

(今日の見張りは、確か――)

「あー、やっと交代? ――何? 次あんただったの? まぁいいけど、居眠りなんかするんじゃないわよ」
「誰がするかっ! いいから退けよっ!」
「それが目上の者に対する口の聞き方かしら、まったく」
「うるせぇな、いいだろ別に!」

(……ディアナと、あと一人は……)

 ともすれば耳障りと思いかねない喧騒を背後に、戸を閉める。すると、かしましさの代わりに、低いエンジン音がビュウの耳に届きだした。機関室はここからかなり離れているが、これだけ静かだと、エンジンの低い駆動音が壁を伝って鼓膜を震わせる。
 数歩で歩ききる通路の先には、開けっ放しの扉。開けっ放しなのは、別に敵を発見した時すぐに艦内に駆け込めるように、という配慮からではなく――伝声管があるから、そのテの配慮はそもそも無用だ――、単に蝶番の調子がおかしくて上手く閉まらないだけだ。
 その、キィキィ軋んだ音を立てる木戸の向こうに誰かいた。
 この通路よりも尚明るい、月明かりに照らし出されたその小さな背中は。


「フレデリカ?」










 肩を震わせ、かじかむ手に息を吐きかけていると、低くよく通る声に呼ばれた。
 白い息を吐きながら振り返ると、いつの間にかそこにビュウが立っている。
「……ビュウ? どう、したの?」
 問う声が震える。真夜中の、そして如何にもゴドランドらしい突き刺すような冷気で、歯がカチカチと鳴るせいだった。

 一年を通して、ゴドランドは他の国よりも気温が低い。その理由は、オレルスにおけるゴドランドの位置に関係している。
 オレルス最下層。六大ラグーンの中で、最も低い位置にゴドランド・ラグーンは浮かんでいる。そのため、朝方はマハールの、夕方近くにはキャンベルの影に、それぞれ入ってしまう。
 結果、ゴドランドは他国に比べ圧倒的に日照時間が少ない。日照時間が少なければ、気温も余り上がらない。ろくに上がらなかった気温は、夜には更に下がっていく。
 だから、ようやく秋に差し掛かったばかりのこの時期でも、この国は寒いのだ。

「どうしたの、って、見張り」
「え?」
「もう交代の時間だぞ」
「あ……もう、そんな」
 時間だったのか。
 呟く声は白い吐息に紛れて夜気に掻き消えた。喉まで寒さでかじかんでいるようだ。
「大丈夫か?」
「……え?」
「上着もなしに見張りなんて、寒かっただろ」
 フレデリカは反射的に薄く笑んだ。
「別に、そんな事」
「何言ってるんだ」
 と。

 口元に当てていた手が、不意に引っ張られた。

「ほら。こんなに冷たくなって」

 為された事にビックリして、反射的に息を止める。

 ビュウの大きな二つの掌が、フレデリカの冷えて血の気の失せた手を包み込んでいた。

「この時季のゴドランドってのは、カーナの秋の終わりくらいに寒くなるんだ。気を付けてくれよ」
「う……うん」
 と、何とか頷く。だが、表に出た動揺が動作をひどくぎこちないものにした。
 心臓が早鐘を打っている。それを自覚して、静まれ静まれ、と胸中で念じる彼女。
 だが、一度速まった心臓の鼓動は、中々収まってくれない。少し顔を伏せ、深呼吸を数度し、それでも尚早いそれに、ほとんど無意識の内に胸を押さえる。
「――フレデリカ?」
 気遣わしげなビュウの声。はたと我に返り、顔を上げる。
 彼の蒼い双眸が、心配そうな色を交えてこちらの顔を覗いている。

 いや、それだけではない。
 心配と……焦燥?

「大丈夫か? また発作か?」
「ううん……そうじゃ、ないんだけど」
 苦笑と共にかぶりを振った。
 貴方のせいだ――などとは、口が裂けても言えない。
「大丈夫。気に、しないで。平気だから――」

 フレデリカの言葉はそこで途切れた。


 頭が真っ白になる。

 まず感じたのは、熱。
 この冷気の中にあっても衰える事を知らない、激しくも穏やかな。

 次に感じたのは、吐息。
 耳朶のすぐ傍、首筋をくすぐる、どこか切ないその感触。

 最後に感じたのは、力。
 肩に回され、窒息しない程度に顔を胸元に埋めさせる、強くて優しいそれ。


 抱きすくめられている、と断じたのは、それらを感じてから。
 我ながら鈍いものだ――苦笑も浮かぶが、それより先に。

「――……ビュウ……?」

 体が緊張で強張り、何を聞けばいいのかも解らないまま、彼を呼び掛けるのが早かった。
 けれど、ビュウは応えない。
 ただ――背中に回された手が、熱い。

 手だけではない。
 包み込む腕も。
 受け止める胸も。
 首筋に微かに掛かる吐息すら。

 何もかもが熱く、体の奥を疼かせる。

 あぁ――

 その腕の中で、フレデリカは静かに溜め息を吐いた。

 何も怖がる事はない。
 優しい手と、優しい腕と、優しい胸と、優しい熱。
 たったそれだけの事。
 それだけの事だ――

 戸惑いは安らぎに変わり、緊張した体から力がだんだんと抜けていく。


 その瞬間に、抱き締められた時と同様何の脈絡もなく、背中から肩に置かれたビュウの手がフレデリカの体を懐から引き剥がした。

「……ビュウ?」
「――体は」
 一気に舞い戻ってきた戸惑いを微かに込めて囁き掛けると、いくらか顔を伏せたビュウは、少しつっかえながら応える。
「体は……大事に、してくれ」
「……………………」
「……おやすみ」
「おやすみ……なさい……」
 肩に置かれた手が離れる。フイッとこちらから体を背けたビュウに、フレデリカもまた、背を向けた。艦内へと戻る。

(……何が)
 何故抱き締めたのか。
 何故離したのか。
(何が、おやすみ、よ……)
 安らぎを覚えた瞬間引き離された。まるで――大げさな言い方だが――裏切られた気分だ。

 ふと歩みを止めて、フレデリカは背中を丸めて両肩を抱き締めた。

「眠れないじゃない……」


 熱はまだ残っている。
 体の外にも、――内にも。










 フレデリカの小さな足音がだんだんと遠ざかっていき――

「……何やってるんだ、俺は」

 ビュウは脱力して、ヘナヘナと見張り台の手すりにもたれかかった。それまで溜めに溜めた大きな息を一気に吐き出す。
 そうすると、頭がだんだん冴えていった。少なくとも、今の自分の行動を振り返る分には。

 何をしたか。
 フレデリカを抱き締めた。
 しかも衝動的に。

「……タチが悪い」

 理由は、あるといえばある。
 例えば、寝不足で頭がおかしくなっていた、とか。
 ちょっと理性の歯止めが利かなくなっていた、とか。

 そこまででっち上げて、ビュウはそれをすぐに否定する。
 違う。そうではない。そんなものではない。
 本当の理由。それは多分、焦燥と恐怖。

 平気だ、と、そう答えた彼女が余りにも儚げで。
 捕まえないと、どこかに行ってしまいそうな気がして。

(だからって、何も抱き締めなくたっていいだろ自分)
 自分で自分に突っ込んで、無駄に大きい溜め息をもう一つ。
(悪い事しちまったなぁ……)
 去っていく時のフレデリカを思い出し、再び自己嫌悪する。戸惑いに満ちた声と視線と動作。
 悪い事、どころの問題ではない。彼がやった事はとんでもない事だ。痴漢行為にも等しい。叫ばれても仕方がない。
 それを、体調を心配している風に装って、ろくに謝りもしないで。まるで厄介払いのようにとっとと艦内に追いやるような口ぶりで「おやすみ」などとほざいて。
(……だけど)
 そこまで自分の非を認めていながら、尚も完全に受け入れようとしない己の未熟さに心底呆れ果てながら、けれど言い訳めいた事を思う。
(だけど、あのままだったらきっと)

 きっと暴走していた。

 あのまま、フレデリカの体を――ビクリと強張りながらも、徐々に徐々に緊張を解き、そして温もりを取り戻して行く彼女の体を、抱き締め続けていたら。


 それを、この理性の失せかけた寝不足の頭で押し留めた自分が凄い――などと、大して自慢にならない事を矜持に思いながら、ふと思い至る事。
「……朝、顔合わせたら、何言えばいいんだか」
 身の奥でくすぶる卑しい熱を持て余しながら、ビュウは情けない声で呟く。



 とりあえず、見張りはまともに出来そうにない。


〜おしまい〜

 

 

 

 


 ファーレンハイトの構造、だとか。
 現在位置、だとか。
 通常巡航だとか、操舵のシフトだとか、航空士補だとか。
 そんな事ばっかり書いて悦に浸っている似非ミリタリーマニアな私を許してください。

 でも一番書きたいのは、「暴走」した話ですよ。


 ちなみに今回の話は、時間的にはゲーム本編十四章直後、ゴドランドを解放してガルーダをゲットした辺りです。
『お茶の時間』とは繋がってるんだか繋がってないんだか(考えずに書くから)。


 時間軸を無視して書くと後でとんでもない事になる。
 そんな事に気付いた簾屋でした。

 

 

 

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