ビュウが、女性陣の部屋にやってきた。
ここまでは、まあいつも通りだった。
「やあ、フレデリカ」
「ビュウ、どうしたの?」
寝室の方に顔を出し、ベッドで本を読んでいたフレデリカに声を掛ける。
ここまでも、まあ、いつも通り。
「ちょっと、栄養補給に」
「栄養補給? ……あ、栄養剤? それならちょうどいいのが――」
「君の笑顔が見たいんだ」
その瞬間。
(は!?)
(何、今の!?)
(って言うか……ビュウ!?)
居合わせたディアナ、ルキア、ミストの驚愕の(心の)声が唱和した。
愕然とした彼女たちの見つめる先、ビュウは穏やかな笑顔で、ポカンとするフレデリカの両手をそっと取っていた。
恋と変は紙一重
ビュウという男について軽く説明してみよう。
カーナ王国がグランベロスに敗北し、解体されるまではカーナ戦竜隊の隊長であり、現在は反乱軍の会計役兼作戦司令。性格は、気さくなのだか気難しいのだか、明るいのだか暗いのだか掴みどころがなく、ただ判っているのはどうしようもないほどの腹黒ケチンボ。一応誠実なところもあるらしい、一応。
恋人、あるいは結婚相手として優良物件――かどうかは、人によるだろう。
さてそんなビュウだが、殊恋愛に関しては奥手と言うか臆病と言うか、自分から何かアクションを見せる事は滅多にない。恥ずかしがり屋なのかそんなところだけ不器用なのかそれとも単にその辺りの機微に著しく欠いているのか、これもまたあやふやだ。
何が言いたいのかと言えば、かの腹黒ケチンボはどこぞの自称・純情硬派なナイスガイと違って大っぴらに女性を口説くような事はしない、という事であり。
だから、
「笑ってくれないか、フレデリカ。君の笑顔を見れば、俺、頑張れる気がするんだ」
「……え、えっと……ビ、ビュウ? どう、したの?」
「どうもしないよ。ただ、何だか無性に君の笑顔が見たくなってさ」
「え、え、ええ、えが、笑顔?」
「そう、君の笑顔。見たいんだ」
そう言って優しく微笑むビュウと――
動揺して顔を真っ赤にしてどもるフレデリカと――
「……ちょっと、何、これ?」
「ビュウが、フレデリカに……言い寄って、る?」
「え、やだ、何このシチュエーション。見てみたいなー、って思ってたはずなのに、いざ目にしてみると何か凄く気持ち悪い!」
それぞれ、ミスト、ルキア、ディアナの順である。
彼女たちは顔色を変えていた。怪訝そうな表情に戸惑いと恐怖の色まで乗っている。テーブルに、ベッドにそれぞれいたはずなのにあっという間に部屋の片隅に寄ったのは、おそらく本能が脅威に対し防衛策を取らせたのだろう――つまり、仲間同士で身を寄せ合って固まって乗り切れ、と。
あり得ない状況だった。
あり得ない状況というのは、恐ろしいものだった。経験が通用しない。常識が通用しない。予測が立てられない。身を寄せ合ってヘビーアーマーのごとくディフェンスをする(出来ないけど)以外にこの難局を乗り切る手立てが見つからない!
最大級の難局だった。
危機と言っても過言ではなかった。
だって。
まさか。
そんな。
あのビュウが。
あの腹黒ケチンボで戦略馬鹿の狡猾朴念仁が――
「……そ、そんな、いきなり笑って、何て言われても……」
「すまない、困らせてしまったようだね。でも、困っている君も可愛いよ」
「可愛いよ」なんて言葉を素面で吐くなんて!(しかもフレデリカの両手を握ったまま、というオプションつき)
神竜召喚級の威力(精神攻撃)に、三人は石化。要・万能薬である。しかし他の女の子たちは隣のバーにいたりヨヨの所にいたり、唯一居合わせているフレデリカはビュウの集中攻撃(違う)にさらされていてそれどころではない。
フレデリカは気付いていた。彼女の友人たち――ディアナが、ルキアが、ミストが、別に出歯亀をしているわけでも何でもなく、この異常事態にいきなり巻き込まれ、防御する事も出来ないまま状態変化攻撃の餌食になってしまっていた事を。助けなければ、と思っていた。ちょうど万能薬ここにあるし。でもビュウがやんわりと、しかししっかりとこちらの手を握っているので行くに行けない。
熱い。
手と手が触れている。その部分がひどく熱い。熱病に冒されているようだ。顔が真っ赤になっているのだろう、頬が火照っていて、何だか頭がクラクラしてきた。
とにかく、この状態を何とかしなければ。フレデリカはブンブンとかぶりを振って熱を冷まし、強張った愛想笑いを浮かべる。
「ね、ねえビュウ、どうしちゃったの今日は? いつもの貴方らしくない――」
「……違う」
「え?」
「俺が見たい笑顔は、そんな笑顔じゃないんだよフレデリカ。そんな、引きつった作り笑いじゃないんだ。いつも君が俺に見せてくれる、温かくて、柔らかくて、陽だまりのような優しい笑顔。俺が見たいのは、それなんだ。
なのに、どうして君はそんなに強張った顔をしているんだ? 一体どうしてしまったんだ、フレデリカ?」
どうしてしまった?
(……それはこっちの台詞よ、ビュウ!)
フレデリカは声を張り上げた、つもりだった。だが心の声は内に留まって、外に放たれる事はなかった。声になっていない。遅れて気付く。しまった、私まで石化しかけてる!? いけない、万能薬を!
「ち、ちょっとごめんなさい、ビュウ、薬を飲まないと……」
「……また、薬かい? 体の調子はそんなに悪いのか?」
「えーと……調子が悪いと言うか、何と言うか……」
貴方からの状態変化攻撃が厳しいだけです!
「フレデリカ、前々から言おうと思っていたんだが……」
「はい?」
「薬の量を、少し減らしてみてはどうだろう?」
「は?」
あら、今、そんな話でしたっけ?
「どんな薬も、飲みすぎれば毒になる。俺は素人だけど、その俺の目から見ても君は薬を飲みすぎている。薬を飲みすぎて、逆に君の体が壊れてしまわないか、心配なんだ」
心配なんだ。
心配なんだ。
心配なんだ……――
その言葉が、優しい響きが耳に届き、こだました瞬間、フレデリカは幸福に包まれた。
ビュウが心配してくれている。嬉しい。どうしようもなく嬉しい。ああどうしよう、何か私、今死んでしまってもいいかも。
幸せすぎて、意識が、遠退く――
(――って、気を失ってる場合じゃないわ!)
慌てて意識をあっちの世界からこっちの世界に引き戻し、フレデリカはもう一度かぶりを振る。ブンブンと、やや強めに。
「フレデリカ? フレデリカ、どうしたんだ? 大丈夫か?」
「……え? ああ、ごめんなさい、大丈夫」
「そうか、良かった……」
と、あからさまにホッとした顔で。
ビュウは、続けてこう言い放った。
「君に何かあったら、俺はもう生きていけない」
熱っぽい口調で、
「君がいないと、駄目なんだ」
熱っぽい眼差しで、
「……君が、好きだ」
ボンッ!
どこかで何かが吹っ飛ぶ音がした。
それが、衝撃と驚愕と緊張と嬉しさとこっ恥ずかしさの余り、爆発的に顔が赤くなって熱を持った音だと気付くのに、数秒を要した。
同じ頃、ピシッ、ガラガラガラ……何かが崩れる音が聞こえてくる。部屋の隅からだ。ディアナ、ルキア、ミスト、ああ……! 嬉しいのだか恥ずかしいのだか判らない胸中でフレデリカは嘆く。彼女たちは、とうとう石化したまま崩壊してしまったのだ。恐るべし、ビュウの状態変化攻撃!
こっちも崩れてしまえれば、どれだけ良いだろう。だが駄目だ、崩れたらきっとビュウが「フレデリカ! 待っていろ、今俺が助けるから!」とか何とか言ってリタンシブルでも持ち出すだろう。それ以前に、こんなに熱い手で捕らえられてしまっていたら、石化する事さえ出来ない。
ああ、でも、でも!
好き、と言われた。
ビュウが、好き、と言ってくれた。
その言葉をどれだけ望んだ事だろう。どれだけ聞きたかった事だろう。聞きたくて聞きたくて、だがビュウはいつもそれどころではなくて、言ってくれるどころかそんな事を思ってくれている気配すらなくて、だけどついに、ついに!
感激の余り、また意識が遠退きかけ――ああ、だから駄目駄目、遠退いている場合じゃないわ! フラリと倒れかけた体を何とか持ち直し、
「あ、あのビュウ――」
「ありがとう、フレデリカ」
「え……?」
何が?
「君も、そう思っていてくれたなんて……俺、凄く嬉しいよ」
そう思って、ってどう思って?
唖然としていたら、不意に彼はグスリと鼻をすすり上げた。
「――ああ、ごめん。何だか幸せで……こんなに幸せでいいのかな、俺みたいな奴が」
いえ、知りませんよ。
「……そうだな。全部終わったら、カーナで一緒に薬屋を開こう」
何でそんな話に!?
って言うか、小さな薬屋を開くのが夢な事、どうして知ってるんですか!?
「小さくてもいいから、暖かくてホッとするような薬屋を築こう。子供は三人くらいで」
何か話が混ざってません!?
「ああ、何か凄い幸せだ……。要はアレアレアレ……アイ・アム・ア・ハッピーボーイ、のつもりだ」
ドンファンさんキター!?
「でも、何だろうな……。こんなに幸せなのに、俺、今、何だか凄く眠くて、疲れて……」
と。
急にビュウは、フラフラし始めた。
フレデリカの手を握り、ニコニコ笑ったまま、フラフラ、フラフラ、フラフラ――
ボスッ。
「――ビュウ!?」
フレデリカは声を上げていた。
まるで糸が切れた操り人形のように、ビュウはフレデリカのベッドの上に崩れ落ちた。頭がちょうどフレデリカの太腿の辺りに来て、何だか膝枕、ヤだ何か恥ずかしい――と、そんな場合ではない!
「ビュウ!? ビュウ、どうしたの!?」
彼の肩に手を掛け、揺さぶり、揺り起こそうとして、そこで初めてフレデリカは気付いた。
いや、ようやく気付いた、と言った方が正しいか。
――兆候は、あったのだ。
やけに熱かった手。
やけに熱っぽかった目。
そして、数々の言葉。
恐る恐る、フレデリカはビュウの「そこ」に手で触れ――疑念が確信に変わるのを感じた。即座に部屋の隅に顔をやる。
隅には、ディアナ、ルキア、ミストの三人。崩壊した残骸が散らばっている。ビュウの精神攻撃はそれほどに凄まじかった。だが今は、そんな事を言っている場合ではない。サイドテーブルの薬箱からリタンシブルを取り出し、投げつける。ディアナたちが復活。不思議そうな顔でノロノロと起き上がる彼女たちに、
「ディアナ、ルキア、ミスト、お願い、手伝って!」
三人は顔を見合わせ、代表でディアナがおずおずと喋りだす。
「……いや、あたしとしてはもう少し戦闘不能でいたかったような……だって、あれはさすがにキツいって。キモイって。耐えらんないわ、あたし」
「馬鹿な事言ってないで、お願いだから手伝って!」
うつ伏せになったビュウの体をずらし、ベッドから出て、フレデリカは(とっくに石化が解けているのに)まだ固まったままの三人に叫んだ。
「凄い熱なの!」
「あら、知らなかったの? ビュウって、過労が過ぎて風邪を引くと、大体錯乱しておかしな事口走るの」
というのは、事情を知ったヨヨの言葉である。
傘は雨が降った時に使うのよ。そんな誰もが知っている常識を教えるような、さも何でもないという風情の口調に、フレデリカも、ディアナも、ルキアも、ミストも、一様にグッタリした表情で肩を落とした。
錯乱。
おかしな事。
「……あれ、錯乱してたんだ……」
「全然見えなかった……」
「何て傍迷惑な習性かしら……」
相変わらず書類が散乱している部屋に彼を運び、ベッドに寝かしつけ、薬を無理矢理飲ませて。そこまでを手伝ってくれたディアナたちは、表情同様グッタリした口調でそれぞれ呻く。フレデリカも疲れた表情で苦笑いする。
「後は、私が看るわ。三人とも、ありがとう」
「どういたしまして、フレデリカ」
「大した事じゃないわ」
「じゃ、あとよろしくねー……」
ルキアも疲れたように笑い、ミスとはこちらを振り返りもせずにそう言うとさっさと部屋から出ていき、ディアナもその後を追い――
戸口で、不意に振り返った。
「フレデリカ」
「どうしたの?」
友人は、意地悪そうにニヤリと笑う。
「ちょっと、残念だった?」
「まさか」
肩を竦めて否定する。
あんなの、ビュウではない。
「意外〜。絶対に残念がると思ったのに」
ま、いっか。いつもの軽い口調でそう言って、ディアナも部屋を出ていく。
そして残されたのは、フレデリカと、額に濡れタオルを乗せて真っ赤な顔で喘ぐベッド上のビュウ。
とりあえず、看病で動くのに邪魔だからと床の上の色々な物を軽く片付け、フレデリカはポツリと呟いた。
「――……少し、残念だった……かな?」
言葉が漏れた直後にベッドの上の元凶が「うぅ……」と呻いたものだから、彼女は大仰に身じろぎして顔を真っ赤にしましたとさ。
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