状況、絶好調に絶体絶命。
 何せ――

「…………」

 眼前、テーブルの上には蛍光紫色で刺激臭を発するドロリと粘着性の高そうなシチュー(もどき)。

「ご、ごめんなさい、ビュウ。その、私……今まで、料理ってあんまりした事なくて。だから、その……」

 真横、すっかり恐縮した声で途切れがちに喋るのは、淡いピンクのフリル付きエプロンをつけたフレデリカ。うなだれ、モジモジしながら、時折こちらを上目遣いに見上げるその仕草がもう理性が吹っ飛ぶほどに可愛くて可愛くてあぁさすが俺の女房可愛すぎて鼻血が出そう――ではなくて。

「――ビュウ」

 そして問題は、真正面、テーブルの反対側。こちらと対峙する形で座っている人物。
 長い金髪を適当に一つに束ねた妙齢の美女。化粧っ気のない顔に浮かべる笑みは淡く美しくしかしどこか獰猛で、それが背中に伝う冷や汗を増量させて仕方ない。

「女に恥を掻かせるものじゃないわよ」

 やんわりを言い聞かせるその声音。諭すような体裁を取りながら、考えるまでもないほどに明らかな恫喝の言葉。
 小首を傾げて脅してくる母イズーに。



 冷や汗、大絶賛増量中。
 ビュウはただ閉口していた。



 顧みれば、それは決しておかしな話ではない。
 たまの休日。
 新妻が夫のために手料理を振る舞う。
 当たり前。
 そう。ごくごく当たり前の話だ。どこの家庭でも行なわれている、それこそどこにでもある光景だ。
 そう。どこにでもある光景。

 どこにでもある光景のはずなのに――


 誰でもいいから教えてプリーズ。
 何でそんなどこにでもある光景で、俺は蛍光紫のシチューと向き合い、母さんに優しく脅されているのですか?



「あ、あの、ビュウ!」

 ビクリ、と。
 押し黙り固まっていたビュウは、フレデリカの声に弾かれたように身じろぎする。
 その声の切羽詰まり具合にハッと見やる。彼女は申し訳なさそうに表情を曇らせ、肩を丸めて、胸元をギュッと掴んでいた。
 今にも泣き出しそうだった。
「や、やっぱり、食べられませんよね、そんなの……。ごめんなさい! 今すぐ作り直しますから――」
「あら、いいのよ、フレデリカさん」
 そこに悠然と口を出すイズー。ニコニコと、笑みを決して崩さずに、
「ビュウは昔っから酷い物を食べてもお腹を壊した事がないから。だから大丈夫。そのくらいだったらペロリと平らげられるわ」
 ねぇ? と同意を求めてくる母に――

(……どこから突っ込んで良いんだ?)

 頭を抱えたくなる衝動を、必死で抑える。

 酷い物ばかり食べていたのは母さんが究極的に料理が下手だったからだろう、とか。
 腹を壊した事がないのはそんな食生活が続いて何が何でも栄養を摂取しなければいけないと俺の体が進化したからだろう、とか。
 というか「そのくらいだったら」ってフレデリカの料理が母さんに匹敵するほど酷い、と遠回しに言っているものじゃないか――まぁ確かに蛍光紫のシチューはあり得んが、とか。

 継ぐ言葉を失くすビュウの肩を、誰かがポン、と叩く。
 見やる。

 いつの間にか、父トリスに背後を取られていた。

「どうした、馬鹿息子?」
 ニヤニヤと。
 それはそれは、とてもとても楽しそうに。
「フレデリカさんの手料理、食わんのか?」

 対俺包囲網、完了。
 マジかよ。

「中々美味そうではないか。早く食わんと冷めるぞ? そんな硬直してねぇで、ほれ、さっさとスプーンを持て」
 急かしてくるトリス。脇からこちらの前に手を伸ばし、未だ置かれたままのスプーンを持ってビュウの手に押し付けてくる。ビュウはそれを取ろうとはしないが、無理矢理に持たされてしまうのは時間の問題だった。
 最早逃げられない。そう悟って本当に言葉を失う彼の耳に、大慌てのフレデリカの声が。
「お義父(とう)様! そんな、やめてください! 無理に食べるほどのものじゃないですから――」
「何を言うか、フレデリカさん」
 語尾にかぶるように、トリスの言葉が放たれる。彼はチラリとその眼差しを嫁に向け、
「男にとって、女房の手料理以上の食い物はない。かく言うこの俺もな、うちの女房の手料理を最初に食った時には、感動の余り本気で涙を流したもんだ」
「ま、嫌だわ貴方。そんな大昔の事」
 しみじみと言うトリスに、照れたように口元に手を当てるイズー。

 ――嘘吐けクソ親父。「感動の余り本気で涙を流した」? 違うだろ。余りにも常識外のとんでもない物を出されて、恐怖の余り泣いたんだろうが。

 いや、そんな昔の事はどうでも良い。
 大切なのは今、この時、この瞬間。
 食うか、食わざるか――

 押し付けられたスプーンはいつの間にか手の中に。
 小刻みに震える手でそれを持ち直すと、ヒュッと、隣のフレデリカが小さく息を飲む。
 途端に静まる食卓。食べないでと主張していたフレデリカも、柔らかに脅していたイズーも、背後で退路を立っていたトリスも、まるで図ったかのように一斉にこちらを注視する。
 集まる視線。集まる意識。その無言に圧力に、ビュウは自分の手が意志に反してガタガタと震えるのを自覚する。
 このスプーンを、この蛍光紫の刺激臭シチューに差し入れて。

 一口、口に運んで。

 ――出来るか?

 横目でチラリとフレデリカを見る。
 不安の中に微かな期待をない交ぜにしたその表情に、ビュウはもう、後戻りできない事を今度こそ悟る。
 彼女の悲しむ顔は見たくない。理由はそれだけで十分。
 覚悟を決めて、ビュウはスプーンをシチューに突っ込む。

 そして――










幸せな光景






















































 ひび割れて煤けた天井が、視界一杯に広がっていた。
 ほんの一瞬前よりも圧倒敵に暗い視界とみすぼらしい周囲に、彼は自分がどこにいるのか分からなくなる。
 空気は冷たく、埃っぽく、そしてどこかかび臭く。背中に当たる何やら中途半端に硬い感触と、全身を包む生温さと。どこかから差し込む薄ボンヤリとした青白い光に照らし出された室内は、書き物机と小さなクローゼット以外に調度がろくになく、そしてそれ以外のスペースを紙の山で占拠されて、ひたすらに狭苦しく殺風景だった。

 あの蛍光紫のシチューも。
 白いテーブルクロスも。
 向かいの席に座っていた母も。
 後ろに立っていた父も。
 隣で恐縮していた妻も。


 どこにも、なく。


 ここは、どこだ?
 俺は今、どこにいる?
 ここは家(うち)じゃないのか? 家はどこだ? 母さんは? 親父は? フレデリカは? どうして俺は、こんな所にいる? ここは一体どこなんだ? 俺はどうして――



 そこまで考えて、やっと頭が働き出した。



「――……うわ、馬鹿みてぇ」
 声に出して呟く。その声は自分でも驚くほどにかすれていた。
 冷静になってちゃんと考えてみれば、話は簡単。

 ただ寝惚けていただけ。


 ここはファーレンハイトのビュウの部屋。今は真夜中で、今日は見張り当番もなく急ぎの事務仕事もなく、久しぶりに確保できた睡眠時間を謳歌していただけの話。
 ファーレンハイトは今、ゴドランド・ダフィラ航路間にあって。
 反乱軍はまだ、グランベロスと戦っていて。
 もちろんまだカーナを解放していなくて。
 もちろんまだ自分は反乱軍に身を置いて。
 両親には長い事会っていなくて。

 自分はまだ、独身で。


 そこまで己の身の上を振り返って、ビュウは突然頭を抱えた。
「……何で、フレデリカなんだ?」
 夢の中、自分の妻だったのは。
「――いやいやちょっと待て俺、ちょっと待て待て。うん、そりゃ確かにフレデリカは綺麗だし優しいし俺なんかもうっかり見惚れる事もあるけど、でもだからって、それはちょっとあれだろ」
 何がどう「あれ」なんだか。
 自分でもよく分からないまま、ビュウは感情の赴くまま布団の中でボソボソと独り言を続ける。
「いやいやいや、別にフレデリカが嫌いとかそういうわけじゃないぞ? でもな、向こうにも都合ってものがあるだろ俺。俺が良くてもフレデリカが嫌だったらすっげぇお寒いぞ? 承諾も得ないで何て事やってるんだ俺。未承諾は大変なんだぞ。どれくらい大変かっていうと、後で目を剥くような賠償金を請求されるくらいだぞ」
 だんだん言っている事が支離滅裂。それでもビュウは止まらない。
「大体結婚? 俺が結婚? しかもあれって親と同居? ちょっと待て、親と同居はどうなんだ? 個人的には結婚したら家を出る派だぞ俺は。っつーか普通出るだろ、軍人だし。既婚者用の兵舎もあるし。俺くらいなら公邸もあるし。それとも何だ? 軍人辞めてたのか? おいおい、それでどうやって家族を養ってくつもりだ俺。俺みたいなのが軍属以外で食ってけるのか? ――ああでもやろうと思えばそれも出来るかな。となれば軍を辞めて親と同居しても……――って、あんな親と一緒に住んだらフレデリカの心労が増すだろうが。そりゃマズいな、うん。いやでも、意外と母さんとフレデリカは上手くやってたみたいだしな……」
 意外とそういう道もあるのかもしれない――

 とか何とか思い始めてようやく、我に返る。

 いくら何でも、寝惚けをここまで引きずるのは「寒い」を通り越して「痛い」ぞ、自分。


 そう思った途端、不意に、それまでの熱が一気に冷めていった。
 興奮がスゥッと引いていく。ほんのついさっきまでの饒舌振りが嘘のように、ビュウは半眼で押し黙った。
「……阿呆らしい」
 舌を動かすのも億劫だ、とばかりにそれだけモゴモゴと呟いて、再び布団に潜り込み、硬いマットレスに沈み込む。
 結婚だと?
 親と同居だと?
 何を馬鹿な事を。今は戦争の真っ最中。そんないつ来るかもしれない不確かな未来の事になど意識を向けてはいられない。明日死ぬかもしれない事の方が、ずっと確かなのだ。

 いつ死ぬか分からない。
 いつまで生きられるか分からない。
 それが、今、ビュウの置かれている状況で。
 そして自分は、この反乱軍の中で誰よりも、その現実を直視しなければいけなくて。

 だから。
 だから。




 例え夢の中だけでも。
 あの暖かな場所に戻りたい、なんて。




 思うものか。



 それでもビュウは、その幸せな光景を夢見る事を、願わずにはいられなかった。

 

 


 フレデリカは料理が余り得意でないと良い。
 たまの休みに作ってみたりすると思い切り失敗するのが良い。
 そうして落ち込むフレデリカを、ビュウが引きつりながらも慰めて、漢前に失敗料理を平らげるのが良い。
 そして食あたりで寝込んだビュウをフレデリカが看病して泣きそうになりながら謝る彼女をビュウが優しく慰めて――(以下略)

 ……って『将軍閣下の〜』じゃフレデリカさん普通に料理してたじゃないのさ。
 良いんだよ、あれは現実でこれは夢なんだから。

 そんなわけで久しぶりのビュウフレ新作でした。
 書いてて楽しかったのは混乱するビュウでした。次点で結婚十何年目でも何だかバカップルなビュウ両親。詳細設定は長編をどうぞ。

 ちなみにいつもの簾屋のビュウフレと違ってフレデリカの口調がゲーム寄りなのは、今回の場合はそっちの方がしっくり来る、と執筆中に思ったからなのでした。恐縮するフレは可愛いね、という話(違う)。 

 

 

 

開架へ