とっくの昔に独立した息子が家に帰ってくる事自体珍しく、急に話がしたいとか言い出すのはそれに輪を掛けて珍しい事だった。こりゃ明日は雪でも降るかな。空の彼方に太陽が消えてゆく、その雲もまばらな夕焼け空は晩夏のそれである。
話をするなら酒が要るな。よし、じゃあ飲みに行くか。もちろんお前のおごりだだって話がしたいとか言い出したのお前だし父ちゃん今金ねぇし。息子にたかるんじゃねぇよクソ親父、息子はげんなりした表情で悪態を吐く。そうして二人揃って家を出る。
外は晴れ。暮れゆく群青の空に、桃色に染まった雲がプカリプカリと浮かんでいる。常にない美的感覚で綺麗だな、と思っていた彼の隣で、黙々と歩いていた息子がポツリと話を切り出した。
なぁ、親父。
あんたさ。
俺が息子になった時、どう思った?
それは、遠い遠い昔の話。
父というもの
「……何かあったのか、お前?」
問うが息子は首を振る。合理的と意固地とを行ったり来たりするその難儀な性格は、現在、意固地の方に針が振れているらしい。表情は何だか硬くて、視線は決してこちらに向かず、唇はギュッと引き結ばれていた。少し覗き込んでみれば、眉間にしわまで寄っている。
人を寄せ付けようとしない頑なな表情。これまで何度か、息子のそういう表情を見てきた。最初の内はこのクソガキと歯軋りしたものだが、今となってはそんな態度も微笑ましく思える。それは、二十年近くにも及ぶこれまでの年月でこちらが大人になって、許容範囲が広がったという事なのだろう。こいつみたいな難物と付き合ってれば許容範囲も広がるわな、と彼は内心で微苦笑する。
「おいコラ馬鹿息子、人に何かものを尋ねる時はな、最低でも話してやりたいって気にさせねぇといけねぇぜ?」
すると息子は視線だけをこちらに向けた。
「手羽先つける」
「ってお前、それはちょっと違うぞ手法が」
「何だよ、俺としては結構奮発してるんだぞ?」
「奮発して手羽先たぁ、随分みみっちぃなぁおい」
「じゃあ何だ、枝豆つけるか?」
「だから手法が違うっつってんだろうが」
と、傍から見れば馬鹿なやり取りをしているが――
彼は知っている。
この息子は、とんでもなく頭が切れる。それこそ『魔人』などという二つ名を戴くほどに。家族の中で一番の切れ者と言えばこの息子だし、おそらくこのカーナという国でもその切れっぷりは指折りだろう。
(ま、一番の切れ者はこの馬鹿息子を傍に置いて平然と笑ってる女王様、ってとこか)
切れすぎる刃は危険だ。身を守り、身を傷つける、文字通りの諸刃の剣。先だって即位した女王は、しかし、そういうのがいるのも一興、とばかりにこの息子を重用している。そしてこの息子もそんな女王に二心なく仕えている。
息子が切れすぎる刃なら、女王は嫣然とそれを包んで隠す鞘か。
(いや違うな。あのお姫さんはそんなタマじゃねぇ)
彼は印象を訂正する。鞘ではない。彼女は使い手だ。切れすぎる刃を平然と握って平然と振るう、馬鹿と紙一重の一流の使い手。更に恐ろしい事に、周囲には「扱えない」という素振りをしているのだ。油断させておいて、一刀両断。そんな感じで、宮廷内ではゴミくずのような腐った文官武官たちの粛清が現在進行形で大絶賛実施中だそうだ。まぁ、警邏隊には余り関係のない話だ。
「じゃあしょうがない。さらに奮発してピクルスもつける」
「おいコラ馬鹿息子、だんだんグレードダウンしてねぇか?」
「息子にたかってるくせして贅沢言うんじゃねぇよ」
「……ちっ、妥協してやるとするか」
舌打ちをする。手羽先に枝豆にピクルス。酒のつまみとしては、まぁ、悪くはないが――安上がりな感も否めない。まったく、高給取りのくせして。
ブツブツと口の中でボヤいていたら、隣の息子が不意に笑った。
「何だ、馬鹿息子」
「食いついたな、クソ親父」
食いついた。
その意味を察して彼は息子の顔を見やる。息子は得意げににんまりと笑っていた。どうだクソ親父これが戦術ってもんだ、僅かに細められた碧眼がそう語っている。
悔しかったので、脳天に拳骨を落としてやった。
「――ってぇ……って何しやがるクソ親父!」
「黙れ馬鹿息子! 父ちゃんの純真な心を弄びやがって!」
「はぁ!? 誰の心が純真だって!? 息子にたかる父親のどこが純真だって!?」
「やかましい! 独立した息子たる者、父親に気前よくおごるくらいせんか! それでも天下の戦竜隊隊長か!?」
「でけぇ声で言うんじゃねぇ近所迷惑だぞ! 大体俺の給料今下げられてんだよ財政難で!」
それこそでかい声で言うな近所迷惑どころか王への不安感を煽るぞ、と言ってやろうかと思ったが――やめた。
この息子のやる事は、何でもないように見える事であっても、重要な意味を持っている場合が多い。
精緻なタペストリーを織るように、息子は権謀術数を繰り広げる。その中に不釣り合いな色合いを織り込んでも、後で全体を見渡せばその色合いは驚くほどの精彩を絵柄の中で放つ――この息子のやる事はそんな事ばかりで、頭の中がどうなっているのか、考えるよりも動いた方が速い、を信条とする彼にはまるで見当もつかない。
思うのはただ一つ。
「……お前も難儀だな」
息子は変な顔をした。歯磨き粉と間違えて得体の知れない物体を口に入れてしまったかのような、居心地の悪さと怪訝さと戸惑いと混乱がない混ぜになった、非常に奇妙な表情だ。
「……親父、大丈夫か?」
「お前言うに事欠いてそれか」
「いやだって、親父が俺の心配なんて」
阿呆め。
思わず彼は、息子の頭をグワシッ、と掴んでいた。
そしてそのまま、有無を言わさずグシャグシャと髪の毛を掻き混ぜる。
「って親父何しやがる! やめろこら!」
「やかましい馬鹿息子」
口をへの字に曲げながら、それでも彼は手を止めない。
「父ちゃんが息子の心配をするのは当たり前だろう」
喚くのをやめ、息子はこちらを見上げる。
その視線を受け、何となく視線を逸らしながら、彼は言った。
「まったく、お前はいつまで経っても生意気なクソガキだな。昔っからちっとも変わりゃしねぇ」
「悪かったな」
「俺がイズーと結婚した時もそうだったな。一丁前に俺の事目の敵にしやがって。散々煮え湯を飲まされたぞ、馬鹿息子」
「あー、そうだったっけ? 覚えてねぇよ、そんな昔の事」
「生意気で、ムカついて、おまけにちっとも可愛くなくて」
息子の頭を、押さえる手でポン、と路面に叩きつけるように押しやって。
抗議をすべく顔を上げて睨む息子に、彼は言う。
「それでもお前は俺の息子だと思うようになっちまったんだから、馴れってのは恐ろしいもんだ」
血は繋がっていない。
生まれた時から一緒にいたわけではない。
最初から慕い合っていたはずもない。
けれど、親子で、家族なのだ。
そうなった経緯が、どれほど不本意であったとしても。
「――なぁ、親父」
「何だ、馬鹿息子」
「俺……あんたみたいになれるか?」
「俺みたい?」
「あんたみたいな……父親に、なれるかな」
「なれるだろ。何たってお前は、父ちゃんの息子だ」
血の繋がりを軽視するわけではないけれど。
そんなの意外とどうとでもなる。
押された頭を撫でる息子を見て、彼はニヤリと笑う。で? フレデリカさんの予定日、いつだ?
問われた息子は急に顔を赤くして、いやまだ別に決まったわけじゃ、とらしくない言い訳を始める。
そんな二人の言い合いは、黄昏の闇が濃くなっても尚響いていた。
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