ふとした時に見る。
それは、悪夢。
天気のいい日には
『ビュウってば、甲板で本読んでる、って。今ならチャンスよ!』
一体何が「チャンス」なのか、よく判らないが――
ディアナにそう送り出されては、甲板に出ざるを得ない。
フレデリカは、艦内と甲板とを区切る扉を、ゆっくりと押し開けた。
目を射る苛烈な光。
それを手で遮り、開けた扉の隙間に、体を滑り込ませる。
フワリ、と穏やかな微風がローブの裾をはためかせた。
目が光に慣れてくる。フレデリカはようやく、目を守っていた手を、下ろす。
「……いい天気」
空を見上げ、彼女は、ふと微笑んだ。
雲一つない青空。
詩にも讃えられるオレルスの遥かに高い蒼穹が、上にも下にも広がっている。
彼方へと続く永遠の青に、しばし魅入られ――
ふと、身震いした。
フレデリカは、自分の体を不意に抱き締めた。それで震えは収まったが、それでも、尚。
何故だろう。何故か、急に怖くなった。
(ビュウは……)
空から視線を緑の甲板にやると、目当ての人物は、すぐに見つかった。
というか、それしかいなかった。
艦内へと続く扉のすぐ側に、緋色のドラゴンが寝そべっている。
その体を枕にして、開いた本で顔を覆い仰向けに寝転がっている男が、一人。
本を読んでいて眠くなってしまったのだろうか――そう考えると、自然と笑みが立ち戻ってきた。起こさないように、慎重に、一歩、歩みだして。
ガバッ。
「きゃっ」
急に彼が勢いよく上体を起こしたので、フレデリカは、思わず声を上げてしまっていた。突然の事に、ドキドキと心臓が高鳴っている。
一方の彼は、顔にかぶせていた本がボトリと膝に落ちたのも構わず、何故かキョロキョロと小動物のごとき素早さで周囲を見回して、
「……何だ。夢か」
「……ビュウ?」
「うぉっ!」
恐る恐る声を掛けると、ビュウは、驚きに肩を跳ね上がらせた。実際、こちらに向き直って身構え、僅かに後ろに退いている。
驚愕と焦りに彩られた碧眼が、徐々に落ち着きを取り戻して、
「あ……何だ。フレデリカ」
「ええ、私、だけど……」
向こうも歯切れが悪く、こちらも歯切れが悪い。
珍しい事が。フレデリカが――ではなく、あのビュウが。
「あの……どうか、したの?」
「あー、いや、別に……」
と、乱れた髪の毛を更に掻き乱すようにガリガリと後ろ頭を掻きながら、落ちた本を拾い上げるビュウ。本のタイトルは『正しいマネー・ロンダリング』。一体何の本なのだろう。
少し言葉を濁してから、ビュウは、ポツリと、言った。
「ちょっと……嫌な夢を、見てな」
「え?」
「昔の夢で……人が」
「……ビュウ?」
「人が……どんどん、死んでくんだ。仲間も、敵も、無関係な人も、皆。辺りは一面真っ赤で――あれは……どの戦役だったかな……」
取り繕うような笑顔が、ひどく虚ろで、ひどく哀しげで。
パンッ。
思わず彼の前に回り込み、その眼前で、両手を打ち鳴らした。
「……フレデリカ?」
先程とは違った色合いで目を丸くしているビュウ。その表情に、空虚も悲哀も、とりあえずはない。
――だが、彼の心の奥底には、ある。
ひたすらに底知れない、まるで、この空の青のような。
内心の感情を圧して、フレデリカは、ビュウを見つめ返した。
「大丈夫?」
「…………」
彼は、少しの間黙考していたが、ふと目を緩ませると、
「……あぁ。何とか、な」
そう、頷いた。
良かった。
彼を、つなぎ止める事が、出来た。
青の空漠ではなく、この、ささやかな緑の場に。
「それでフレデリカ、どうしたんだ?」
「え?」
「いや、だからさ。甲板に来て。珍しいじゃないか」
「え……あ、えっと、その……」
しどろもどろに口をパクパクさせる。
そういえば、ディアナに押されるように出てきたけれど、これと言った用事を頭の中ででっち上げるのを忘れていた。
あぁ、いいのが思いつかない。まさか、本音――「貴方が居るって聞いたから、傍に居たくて」――をストレートになんて言えないし。
「えっと、あの、えと……ほら、その、天気が、いいから」
自然と口を突いて出た言葉は、そんな陳腐なものだった。ビュウは空を見上げ、
「あー、確かに。今日は雲一つなくて、風も気持ちいいな」
「そう、そうでしょ? だから、ちょっと、風に当たりたくなって」
あははははは、と取り繕う。それを聞いてビュウは、
「でも大丈夫か? 余り当たってると、熱が出るんじゃ?」
「え、あ、うん、大丈夫。ちょっとなら、平気だから」
パタパタと手を振って誤魔化すフレデリカ。ビュウはそんなこちらの様子に首を傾げたが、すぐに気を取り直したようだった。
「ならフレデリカ、その……ちょっと、悪いんだけど」
どこかはっきりしない、しかし真面目な言葉に、彼女も誤魔化し笑いを消す。
そして、ビュウのまっすぐな眼差しが、フレデリカを捕らえた。
「ごめん。少しの間でいいから、ここに居てくれ」
「……ビュウ?」
「悪い、急にこんな事言って。ただ……ちょっと、今は」
一人になるのが、怖くて。
そんなビュウのささやかな囁きが、風に紛れながらも、耳に届く。
「ここにはサラたちがいるけど……でも、サラたちだけだと、駄目なんだ。色々考えてしまうから……。今は、余り、考えたくない」
伏目がちの目が捉えているのは、甲板に生える緑の雑草か、サラマンダーの緋色の鱗か、それとも――青の空漠の向こうにある、過去か。
それを何となく察して、フレデリカは、一つ頷いた。
「……ええ。私で、いいなら」
すると、ビュウも顔を上げた。そこに、少し弱々しくも、確かな笑みが浮かぶ。
「ありがとう……助かる」
フレデリカは少し位置をずらし、ビュウの隣に腰を下ろす。
ビュウは再び、サラマンダーの腹を枕にして寝そべる。
二人は、特に示し合わせたわけでもないけれど、同時に空を見上げた。
抜けるように高く澄んだ青い空。
こんな日は、誰かと一緒に、確かめ合うのが一番だ。
自分は一人ではない、と。
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