血。
血の、臭い。
彼からは、血と死の臭いがする。
生と死の均衡点
ザシュッ――――
肉の断たれる音。
傾ぐ体。
吹き出る血。
むせ返るような鉄臭さ。
「………………っ!?」
フレデリカは、悲鳴にならない悲鳴を上げた。
足元には、首を半ばほどまで切断され、虚ろに見開く濁った目をこちらに向けたまま絶命した、グランベロス兵の死体。
飛び散った血が、ローブを汚した。
「……フレデリカ?」
ひっ――――
呼ばれ、彼女は小さく叫んでいた。もっとも、喚声と絶叫と剣戟の音で満ちたこの戦場で、そんな悲鳴など自分の耳にすら届かないけれど。
「フレデリカ、何でこんな所に一人で? ここは前線に近いんだぞ? 何で君が」
声の主は、青ざめるこちらの様子になどまるで気付かないという風に、無造作に歩み寄ってきた。そうしつつも、左右一振りずつ握った長剣を、それぞれ一回ずつ虚空で振って血糊を落としている。
その、余りにもリラックスした自然な動作が、余計に、フレデリカの中の戦慄を掻き立てる。
動作だけではない。
世間話でもしているかのような穏やかな表情。
こちらを気遣う、いくらか訝しさを込めた、しかし優しい声。
周囲を警戒していない、悠然とした足取り。
その全てが、この血で血を洗う戦場には似つかわしくない。
何より。
彼の背後にある、殺戮の跡には。
無数のグランベロス兵の死体は全て、剣による一閃で事切れている。
つまりは、この青年がやった。
ビュウが。
頬には返り血。
剣には血糊。
手も腕も鎧もマントも、全てが全て、おそらくは己のものとは異なる血に染まっている。
それでも彼が浮かべるその表情は、この戦場の光景と解離してひどく穏やかだった。
それが余計に凄惨で――
フラリ、と。
「……フレデリカ?」
一歩、退く。
ここはどこだろう。
夢だろうか。
夢であってくれるといい。
戦場の悪夢なんて、今更恐れるものではない。
彼が無表情で殺戮を繰り広げる、なんて、自分が人を殺す夢よりもタチが悪い。
これは、悪夢。
今まで見てきた中で、最悪の。
「や……――」
何でこんな所に迷い込んでしまった?
前線に立つ部隊を後方から支援していたら、側面から敵の部隊に襲われ、気が付けば彼女は一人で走っていた。
その最中で、自分は気絶して夢を見ているのだろうか?
それともこれは……死の直前に見る、最後の悪夢?
「嫌……」
逃げたい。
帰りたい。
ここではないどこかへ。自分のよく知る場所へ。
「嫌――!」
「フレデリカっ!」
と。
不意にビュウが叫んだ。不自然なほどに穏やかな表情から、一転して烈火のような激しさに険しく顔を歪める。
その激しさで以て伸ばされた彼の血まみれの手が、こちらの手をグイッと痛いほどに強く引く。
「――――っ!」
声にならない悲鳴が喉で弾ける。恐怖に身を強張らせ、為すがままにされる。
……血の臭い。
――死の臭い。
ドシュッ!
「がっ――!」
肉を貫く音。くぐもる絶叫。ドサリッ、と何かが地に倒れ伏す。
ビュウの胸に抱き寄せられたまま、フレデリカは、しばし呼吸を止めていた。
血の臭いが鼻につく。彼の胸甲に付着していたまだヌルリとぬめる返り血が、彼女の白い顔を汚す。
肩を抱かれたまま、ゆっくりと背後を肩越しに振り返る。
案の定、倒れているのはグランベロスの兵士だった。首を、突き出されたビュウの剣に貫かれ、そこから鮮血を撒き散らしている。
その手には剣。
事態を把握して、急に背筋を恐怖が襲う。緊張が解け、止めていた息を緩やかに吐く。
「大丈夫か?」
「…………うん」
フレデリカは、視線を絶息した敵兵からビュウへと戻す。
間一髪のところで自分を救ってくれたビュウからはもう、先程までのどこか現実と解離した穏やかさは微塵も感じられない。
ホッとした。
忙しく警戒の視線を周囲に向け、それからようやく、彼はこちらの肩を解放した。
「行こう。早くここから離れて、皆と合流だ」
「――ええ」
警戒の表情はそのままに、ビュウはフレデリカをかばいながら歩き出す。その歩調に合わせて、彼女もまた足を前へと踏み出す。
その時になって、フレデリカはやっと頬に着いたままだった血を手の甲で拭った。
赤く汚れた手の甲を見下ろし、ふと、抱き寄せられたあの瞬間を思い出す。
血の臭い。
死の臭い。
そして、これでもかというほどの生の臭い。
他者を殺してまで求められる、卑しく汚らわしく未練がましい、しかし何よりも尊い生への執着。
(あぁ……そうか)
ふと悟る。先程まで感じた、不自然に穏やかな彼への恐怖の所以。
彼からは、血と死の臭いしかしなかった。
生の臭いが、しなかった。
(ビュウ)
「フレデリカ! 早く!」
「はい!」
(貴方は……――誰なの?)
疑問を胸に、走り出す。
そこには今、確かに、生の臭いがあった。
そこは、生と死の均衡点。
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