「ねぇ、ビュウ?」
「んー?」
「もし、私が死んだら」
「…………?」
「貴方、泣いてくれる?」
夢から覚めて、ビュウは、自分の胸中がひどく冷めているのを自覚した
例えばそれは、冬の青空のような。ひどく透き通り、ひどく冷たい、それ。
それを抱えたまま、ただ上掛け布団を見下ろす。
「………………」
虚無感とも違う。落胆とも違う。失望とも、絶望とも違った。
この感情を言い表す言葉を見つけられず、仕方なく、ビュウはベッドから出た。
朝には、まだ程遠かった。
残酷な問い
白い錠剤を一つ口に運び、コップになみなみと注いだ水を一口飲み下す。
ゴクリ、と喉が鳴った。その狭い空間を固形物が流れていく異物感は、慣れはしたものの、覚えて楽しいものでもない。顔をしかめる。
だが、そんな事でやめるわけにはいかない。まだ五錠しか飲んでいない。もっと飲まないと。
手の中にある錠剤を、もう一つ口に運び、水を一口飲み、更に一つ口に入れて、水を…………――――――――
「フレデリカ?」
唐突な声が、フレデリカを現実に引き戻した。けれどタイミングが悪く、驚いて口に含んだ水を吹き出してしまった。錠剤と共に。そのまましばらくむせる。
「あ、わ、悪い! 大丈夫か!? 何もそんな驚かなくても……」
「……ビ、ビュウ……? こんな、夜、遅くに、ど、どうした、の?」
咳が混じって、問う声がおかしい。しかしそんな事は気にしないらしく、厨房の入り口からすっ飛んできたビュウは、咳き込むフレデリカの丸めた背中を手でさすりながら、
「いや、何か目が覚めて――って、それは俺の台詞だ。
フレデリカこそ、こんな夜中に何やってるんだ?」
「私は――」
ようやく咳も収まった。しかし、彼女はそこで言葉を止める。
ビュウが、厨房の流し台に目を留めていた。
ちょうど、たった今フレデリカが水を吹き出したところを。
無造作にビュウはそこへと手を伸ばした。
「ビュウ――」
しかし彼は答えずに、「それ」を親指と人差し指でつまむ。
水に濡れて、表面が微かに溶け出している「それ」。
明かりもない厨房。その暗闇に沈む碧眼が、一切の感情を消して、細められた。
「……フレデリカ」
呼び掛けの声すら、ろくに感情が感じられない。まるで叱責される時のように、フレデリカは身を竦ませた。
「この薬は?」
「……………………」
フレデリカは答えない。言えない。言えるものか。唇を噛み締め、うつむき、両の拳を握り締めてただ押し黙る。
そんな彼女に痺れを切らした――というわけではないだろう。ビュウは、つと視線を外すと、流し台のへりに置いてある小瓶に気付いた。それを手に取ったのが、フレデリカの狭くなった視界に飛び込んでくる。
「これは……」
「ビュウ、それは――」
咄嗟に奪おうと、手を伸ばして。
開いた掌から、握り締めていた錠剤が床にこぼれ落ちた。
パラパラ、と軽い音を立てて、白い錠剤が床の上に転がる。
ビュウは、小瓶を手にしたまま、それに目を落とした。それから、改めて手の中の小瓶を検分する。
「……一回の服用量にしては、多いな」
「……………………」
「睡眠薬なんて……いつから飲んでるんだ?」
「………………………………」
まるで答えないこちらに呆れたのか、フゥ、とわざとらしい大げさな溜め息を吐くビュウ。コトリ、と瓶を元あった所に置き、
「確か、胸の薬も飲んでたよな」
「……………………」
「昼間ディアナに聞いたけど、随分強いのを飲んでるらしいな。だんだん劇薬紛いのを飲み始めてる、って、心配してたぞ」
「……………………………………」
「そっちも飲んでて、睡眠薬を定量以上服用……」
「……………………………………」
「フレデリカ」
とうとう、本当に痺れを切らしたらしかった。ビュウの語気が強くなる。
うつむいたまま、しかし彼女は観念した。
もう、隠し通せない。
「――……副作用」
「え?」
「副作用なの。胸の薬の。よく効くけど、その代わりに、夜眠れなくて……」
「……それで、か」
コクリ、とフレデリカは頷いた。しかし、ビュウの呆れた声は続く。
「だからって、何もこんなに飲まなくても」
「だって……それくらい、飲まないと……眠れなくて」
すると、彼はしばし押し黙った。今どんな表情をしているのか、床に視線を落としたままのフレデリカには分からない。
……そんな時間が、どれくらい過ぎていったか。
「死ぬぞ」
「……………………」
「劇薬紛いのを一緒くたに飲んでると。その内に」
そう言ったビュウの声は、随分と鋭かった。
怒りを抑え、その代わりに不機嫌さを露にした、低く良く通るビュウの声。フレデリカは唇をギュッと引き結ぶ。
そんな事――そんな事、解っている。
経口薬の併用は危険だ。単体ではどうという事のない成分が、もう一方の薬の成分と合わさって、人体に思いも寄らない悪影響を及ぼす可能性が高い。だから、専門医の処方でない限り、異なる薬を同時に飲むのは、控えた方が良い。
そんな事は、解っている。
だが――
だが。
「なら……どうすれば、いいの?」
問う声が震えているのは、別に意識した事ではなかった。が、ビュウは微かに身じろぎしたようだった。
動揺か? 何を動揺する必要があるのだろうか。
「必要だから飲んでいるのに、その薬のせいで夜全然眠れなくて、その内に何だか心細くなって、薬に頼ってばかりいる自分に嫌気が刺して、嫌な事ばかり考えて……――そうしてる内に朝が来て、ああ今日も眠れなかった、って自己嫌悪。
そんな事になるのが嫌だから、薬を飲んで無理矢理眠って、でもだんだん定量じゃ効かなくなって、飲む量を増やして……仕方ないじゃない!」
不意に声を張り上げ、伏せていた顔をパッと正面に戻す。
ビュウはまるで、面白半分でやった悪戯が予想外の結果をもたらして驚く子供のような、そんな、どうしていいか判らない、軽く目を見開いた表情で、フレデリカを見ていた。
「仕方ないじゃない……他に、方法がないんだもの! 私はもう、薬に頼らないと駄目な身体なんだもの!」
「そんな事――」
「あるわよ! 子供の頃から薬漬けで、それが普通になってしまってるのよ! 薬を飲まないと、私はもう駄目なの! それで眠れなくなったのなら、睡眠薬を飲むしかないじゃない! それとも!」
フレデリカは一旦そこで言葉を切った。たじろぐビュウを見据えながら、呼吸を整える。それでも激情は収まらない。
「それとも、貴方がどうにかしてくれるの!? 私の身体を、貴方、どうにかしてくれるの!?
出来ないでしょう、貴方には!」
ピクリ、と彼の体が身じろぎする。
だが、フレデリカはそれに気付かなかった。
「口だけなら何とでも言えるわよ……。私の周りにいる人は、皆そうだもの。でも、実際何かしてくれる人は、誰もいない。貴方だってそうでしょう!?」
「……なら――」
と――
唇を重く開いた彼は、そのまま、その手をこちらに伸ばした。フレデリカはあっと声を上げかける。
しかしそうする間もなく、ビュウの手が、彼女の肩を掴んでいた。
いつの間に、こんな追い詰められた苛烈な表情をしていたのだろうか。
肩を掴まれた事で間近になった彼の顔を、フレデリカは、この一瞬で冷静になった頭で、そう感じていた。
「君が、俺に望む事は何だ?」
「え――」
「君が俺に望む事は何だ? 何でも言ってみろ。叶えてやる」
「それは……」
「眠れないから夜通しお喋りに付き合え、って言うなら、いくらでも、毎晩でも付き合ってやる。もしどこか静かな所で療養したい、って言うなら、今の情勢下じゃ難しいけど、そう出来るよう手配してやる。
言ってくれ。君は俺に、何を望むんだ? 俺は」
肩を掴む手から、力がいくらか抜けた。つと、顔を伏せる。
「俺は……言ってくれなきゃ、分からない」
それまでの感情のない、激情を必死で押さえ込んだ故の無感情で力ばかりがこもった口調から、一転して、どこか弱々しい、困惑と悲嘆がない交ぜになった口調に変化していた。
それを聞いた途端、フレデリカの頭も、スッと熱が引いていった。
私が、彼に望む事。
望む事。
「――……私が」
ポツリと唇からこぼれた声は、随分と感情が抜けていた。ひどく静かに、台所に微かにこだまする。
「私が、死んだら」
ビュウの肩が、何故かピクリと震えた。
「泣いてくれる?」
フレデリカは見た。
ビュウが。
「――……当たり前、だろ」
今にも怒鳴りだしそうな、泣き出しそうな、そんな感情の錯綜した表情をしているのを。
「でも、出来れば……そんな事、口にしないでくれ」
彼はそう言ってクルリと踵を返し、厨房を去っていく。
残されたフレデリカは、ビュウの苦しげな呻きに困惑するばかりだった。
どうして。
どうして、俺の周りの女は皆こうなんだろう。
自室へ戻りながら、ビュウは歯噛みしていた。
胸に、どうしようもないほどの怒りがあった。苛立ちがあった。悲しみが、嘆きが、苦しさが、苦さがあった。
『私が死んだら、泣いてくれる?』
「当たり前だろ……!」
今投げ掛けられた問いと、過去に投げ掛けられた問いが、頭の中で交錯する。
悲しげな声が。楽しげな声が。
そして、堂々巡りの問いを繰り返す。
どうして。
どうして、俺の周りの女は皆、自分の死で他者に対する己の価値を見出そうとするんだ?
そんな事をしなければ、俺が向こうをどれだけ大切に思っているのか、分からないのか?
どうして。
どうして。
どうして俺は、彼女たちにそんな事を言わせてしまうんだ?
この胸を支配するひどく冷めた感情。
それは、無力感。
無力感に打ちひしがれて、ビュウは部屋に入ってベッドに倒れ込んだ。
無力感と自己嫌悪は等価で、それだけに、彼は鬱々とした思考の袋小路にはまり、結局そのまま朝を迎えた。
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