剣戟の喧騒はやみ。
断末魔は途絶え。
場違いなほど穏やかな涼風に、ふと顔を上げる。
空が、赤い。
雲も。
大地も。
この髪も、顔も、マントも鎧も手も剣も、全てを赤く染め上げる。
(……血の色だな)
夕日の赤に染まって、最早何色だかよく判らない色に染まった剣を一振りして、鞘に戻す。
やたらと静かだった。どこか遠くで誰かの喚き声が聞こえる気もするが、それがあっても、そこは静かだった。
その静寂の中に佇んで、吐息。
「――ビュウ!」
今、一番聞きたくもあり、聞きたくなかった声が、ビュウの耳朶を打った。
この静謐な紅の中
「フレデリカ」
振り返ったビュウは、彼女の名を呼んだ。その声はひどく無感動で、自分の声のはずなのに、まるで一枚壁を隔てて聞こえてくる他人の声のような、そんな違和感をビュウは覚えた。
「ビュウ……貴方」
フレデリカは走ってきたようだった。肩で息をして、ギュッと固めた手を胸に当てている。顔が真っ赤なのは、何も、この夕日のせいだけではなさそうだった。
「まだ、怪我の手当ても……」
途切れ途切れの言葉には、こちらへの抗議の調子に満ちている。それも仕方のない事だ、とビュウは苦笑いしたいような心境で認めた。
グランベロスの偵察部隊とこの小さなラグーンで衝突して、半日。予想外に長引いた戦闘はつい先程終結したばかりで、周辺の状況確認に腐心していたビュウは、まだプリースト隊の治療を受けていない。
まだ何か言いたそうなフレデリカに、かぶりを振る彼。
「大丈夫だ。すぐに手当てしてもらわないといけない深手はないし――」
「そういう、問題じゃ、ないわ」
大きく息を吸って、吐いて。
呼吸をやっと整えて、彼女は反論する。
「いくら深手でないからって、治療しなくていい、って事にはならないでしょう」
「俺より先に手当てしなきゃいけない奴なんてまだいるだろう?」
「そういう人は、もう大体手当てし終わったわ。とにかく」
と言い切って、更に一歩詰め寄るフレデリカ。その語調も表情も、まるでビュウに噛み付こうとするかのように、強い。
「私は貴方の手当てに来たの。さぁ、見せて」
懐にはあっさりと入ってきた。こちらが抵抗する暇もなく、彼女はビュウの体を上から下まで一瞥した。明らかな返り血――例えば、鎧や手甲に付着している血とか――には目もくれず、特に戦闘服ににじんだ血の辺りを医師の目で険しく検分する。
その目が、顔の辺りで止まった。
右頬。そこに据えられた視線を感じた途端、ヒリッとした痛みを覚えた。
「ビュウ……頬を、切って」
「いや、大した事ない」
彼女の言葉を遮って、かぶりを振る。それから痛む箇所を左手の甲で拭った。
ヌルリとした感触と共に、生ぬるい何かが頬に広がる。頬から左手を離して見てみれば、黒々とした赤に染まっていた。そうしている内に、頬には再び熱く濡れた感じが広がる。
さっきの戦闘でついた傷か――多分、敵の剣閃を最小の動きでかわして、結局かすってしまったのだろう。出血は派手だが、傷はそれほど深くはなさそうだ。
しかし、
「駄目よ、ビュウ」
フレデリカはローブの隠しから何かを取り出した。それがビュウの頬に当てられる。
ハンカチだった。
「ちゃんと止血して、消毒しないと……」
「いや、だから大丈夫――」
そこで彼は絶句した。
少し爪先立ちになって、頬にハンカチを当ててくるフレデリカ。その彼女の顔と向き合って、今更ながらに気付いた。思えば、何と間の抜けた話か――
フレデリカの右頬にも、ささやかながら、血が流れていた。
それを認めた瞬間、ビュウは、突然大地がひび割れ砕けていくような、そんな足元の危うさを感じた。
脱力感だった。
「フレデリカ……」
呼びかける声からも力が抜けていた。かすれた小さな声に、彼女はえ、と僅かに首を傾げる。
「その頬――」
「え? ――あ」
開いている方の手で、彼女は自分の両頬に触れた。そして指を見下ろし、そこに血が微かにこびりついているのを確認して、
「……やだ。私もさっきの戦闘で切ったのかしら」
「戦闘、で……?」
では。
では、後方にいたプリースト隊にも、敵が接近した、という事か?
――ゾッとした。
自分が調子に乗って前線に飛び出していた頃、彼女のすぐ近くにまで敵が迫っていた、というのか。
いや。
自分が調子に乗って考えなしに前線に掛かりっきりだったからこそ、敵に彼女への接近を許してしまった――
ビュウは、血にまみれた手でフレデリカの頬にソッと触れた。
「ごめん……」
「ビュウ?」
「ごめん……俺――」
指で血を拭った。
だが血は、彼女の白く柔らかな頬の上を滑り、逆にその肌を汚してしまう。
再びジワリと血が滲む中、ビュウは傷を見定めた。
それほど深くはない。ビュウのものよりもずっと浅い、ただのかすり傷だ。多分、二日もあれば跡形もなく消えてしまう。
だがそれでも、フレデリカの顔に、傷が付いてしまったのだ。
戦いはいつもギリギリの際どい状況で、いつからか、ビュウは感情を完全に殺し、冷静な計算と打算とで戦場を駆けるようになっていた。
その計算と打算が、今回、彼を前線に向かわせた。背後も顧みないで。
「ごめん」
戦いで得たその「知恵」が、仇となった。
大切な人を傷付けた。その遠因となった。
それが、ただショックだった。
「ごめん」
謝りながら、ビュウはフレデリカを抱き締めていた。
「ちょっ……ビュウ?」
突然の事に、フレデリカはうろたえた。だが、ビュウにただならないものを感じたか、問う声には僅かに気遣いの調子があった。
しばらく抱き締めてから、腕の力を緩めるビュウ。フレデリカはこれ幸いとばかりに、気恥ずかしげに身を離す。
鼻先と鼻先が触れ合うような顔の距離。
彼がフレデリカの右頬に口元を寄せたのは、ほとんど無意識の内の事だった。
口から伸びた舌先が、傷をなぞるようにして、フレデリカの頬を這う。
腕の中のフレデリカが、その感触にビクンッ、と身を竦ませる。
「ごめん」
その耳に囁く。
守りきれなかった事か、今した事か。一体何に謝ったのか、自分でも判らない。
鉄錆の味が口の中に広がる中、彼女が身じろぎした。反射的に、背中に回した手の力を緩める。
するとその隙を縫うようにして、フレデリカは少し背伸びした。彼女の顔が、ビュウの顔のすぐ近くに来る。
ちょうど右頬。
少しザラリとした弾力のある濡れた感触が、傷の上を這った。
その、何とも言えない感覚。背筋がゾワリと粟立つような、居ても立ってもいられなくなるような。
それがもたらす恍惚とした甘さに陶酔しながらも、切り離された理性が冷ややかに告げる。
(まったく……戦場で、何やってんだ俺たちは?)
だから、今はフレデリカと会いたくなかったのだ。
戦闘が終わった直後の昂ぶった神経は、彼女に何をしでかすか分かったものではないから。
でもだからこそ、フレデリカの顔を見たかったわけであって――
あぁ、駄目だ、混乱している。
(夕日が……)
理性と感情が衝突したその原因。
(血みたいな色だから、悪いんだ)
それを、子供じみた論理で適当なものに押し付けて。
とりあえずビュウは、理性と感情の妥協点を探した。
つまり、今日の夜、彼女を誘うかどうか。
考えてみれば、彼を酔わせるあの甘い恍惚感とは、ここのところ随分とご無沙汰だったのだ。
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