暗い夜道を、ビュウは疲れた足取りでノロノロと進んでいた。
その胸中では、
(あのアホ娘……!)
と、敬愛すべき主君を呪いながら。
毎年のごとく、年末年始は休日返上。少々超過労働気味の昨今、年始の繁忙期が過ぎ去ったから休暇を取って、自宅――下町にある両親の住む実家ではなく、将軍任命時に特典として下賜された公邸――でのんびりまったりと過ごすつもりだった。
そのための布石として、一ヶ月以上前に休暇願いを提出した。期間は七日。何とか受理された。それから、何があっても呼び出しを受けないよう、事務仕事から年始の視察まで、全てハードスケジュールでこなし、片付けた。
全ては、ささやかな休暇のため。
それなのに――それなのに!
ビュウの思考は、昨日の昼過ぎまで遡る。
王宮からの使者がやってきた、あの悪夢の始まりと言える瞬間に。
王宮からの急使に、ビュウは本気で憤りながらも、仕方なく女王の元に駆けつけた。
そして、慌てて駆けつけたビュウに、彼女は真顔で、本気で、真面目に、こう言ってくれたのだ。
『実は秘書が過労で倒れちゃって……――で、私のペースを熟知してるの貴方しかいないから、休暇返上でちょっと私の仕事を手伝って』
相手がヨヨでなければ、クーデターを考えるところだった。
しかしそこはそれ、ビュウの扱いを心得ている彼女である。特別給与をちらつかされ、情けなくも彼女の秘書代理を務めてしまったビュウ。今思えば――何を考えている、自分。普通に暮らしていれば使いきれないほどの蓄えぐらいあるだろう。
だがビュウはそれに負けてしまった。そして休暇返上で、ほぼ一日半、ろくに眠りもしないでヨヨの仕事に付き合ってしまった。それこそ、通常業務の事務仕事から特別業務の議会演説の草稿作りまで。おかげで、使いすぎた頭が痛い。
(あぁ……)
その痛む頭で、ビュウは尚も嘆く。金に目が眩む己の浅はかさが、本当に、本当にどうしようもなく恨めしい。
(怒ってるよなぁ……怒るよなぁ、普通……。何のために七日も休暇取ったんだ、って感じだよなぁ……)
王宮から現在の住まいまでは、泣きたくなるぐらいに近い。女王の御前を辞して僅か十分、我が家はもう目の前だ。
しかし、昨日の昼過ぎにはあんなにも恋しかった我が家は、今は何だかとっても避けたい気分だ。理由は、脳裏に浮かぶある顔。
(臨時収入で、プレゼントの一つも買っていった方がいいかな……。いや、ここはおとなしく帰って噛み付かれた方がいいかな……。親父ならこういう時、どうするんだろうなぁ……)
そしてすぐに答えは思いついた。あの父なら、花を買う。色とりどりの豪勢な花束。顔を合わせた瞬間それを差し出し、相手が面食らっている間に、向こうを持ち上げその怒りをうやむやにしてしまう。昔何度かそんな光景を見た。
(……って、こんな日のこんな時間に花屋がやってるかよ。貴金属店もやってないはずだしなぁ……)
と、深々と溜め息を吐いて。
ビュウはピタリと足を止めた。
そこは、既に我が家の玄関前。
見上げる度にいまいち実感が湧かない、今の住まい――カーナ軍の将軍に下賜される公邸。将軍ともなれば当然国家の要人、その居宅はビュウの常識からするととんでもない大きさである。
地上三階、地下二階、部屋数確か三十前後。庭の広さは庶民の家が一件か二件は軽く建てられるほど。屋内・屋外パーティなんて出来て当たり前。そのための広いホールまであったりする。
唯一の救いは、「軍人の家」らしく質実剛健を地で行っているため、貴族の館みたいに無駄に派手でない事。
そんな我が家の――ビュウの目から見た――中古買取価格は、少なく見積もっても、一千万ピロー。業者との交渉次第では、その五倍は見込めるかもしれない。
もちろん維持費もとんでもない。持って生まれた金銭感覚を駆使しなければ、ビュウの月給なんて公邸の維持費だけで飛んでいってしまう。
ともあれ。
ビュウは、男らしく覚悟を決めて、ドアノッカーを叩いた。
それほど待たずして、玄関扉の向こうからパタパタパタ、という忙しい足音が聞こえてくる。
扉が、開かれた。
「お帰りなさい、貴方」
「……ただいま、フレデリカ」
素朴な木の扉の向こうから現われた妻の顔は、どこか安堵を含む微笑で、ビュウは正直予想が外れて肩透かしを喰らったような気がした。
将軍閣下の幸せな食卓
「ごめんな。予想外に仕事が長引いて……――ったく、ヨヨの奴もいつまでも俺に頼るのをいい加減やめてほしいんだがな」
「あら、それだけヨヨ様は貴方を信頼してらっしゃる、という事でしょう? 貴方以上に信頼されている人はいないのだから、少しくらい誇りに思ったらどう?」
ビュウから受け取ったマントをコート掛けに掛けて、フレデリカはそう宥めた。クスクスと、面白がるような笑い含みの声で。
軍服の上着を脱ぎ、襟元を緩めたビュウは、顔をいくらかげんなりと歪めて、
「だからってなぁ……やっと取れた休暇を返上させられたんだぞ? おかげで休みはあと一日だぞ? あと一日で何しろ、って言うんだ? やりたい事は山ほどあったんだ――溜まった手紙の返事とかお前とデートとか買い込んだ本の読破とかお前とデートとか知り合い連中への挨拶回りとかお前とデートとか」
「はいはい。分かったから、そんなに拗ねないの」
「……拗ねてねぇよ」
「はいはい」
ニコニコニコニコ。フレデリカは笑っている。さも楽しそうに。
上機嫌だ。
「――なぁ、フレデリカ」
「はい?」
こちらを向く彼女。
その笑顔を見ながら、しかしビュウは勇気を持って、尋ねた。――これが、結婚以来数えるほどしかしていない夫婦喧嘩の引き金になるかもしれない、と覚悟して。
「怒ってないのか?」
「何が?」
「だから……俺が、お前を、放ったらかしにしてあの阿呆と一緒にいた事」
「……それのどこが、怒る事なの?」
と、小首を傾げられ、逆に問われ。
ビュウは口ごもった。
確かに――付き合い出した頃の彼女ならいざ知らず、今のフレデリカは、夫と女王がどういう関係なのか、真に理解している。一緒にいた事については、嫉妬も何も今更あったものではない。
……というのが男の理論だと解っている。少なくとも、女の心は計り知れない、という事は理解している。だからビュウは続けて問うた。
「いや、だって……せっかくの休みだってのに、俺、お前をほぼ丸一日一人にさせちまったし……」
「そんな事で怒らないわよ。
それよりほら、食事、まだでしょ?」
「え? あ、あぁ」
「なら、食事にしましょ。今日はね、少し張り切ったんだから」
そう言って、フレデリカは夫を今から食堂に促す。その様子は、妙に上機嫌で、どこか興奮している。彼女に伴われて食堂へと向かいながら、ビュウは思案に暮れていた。
おかしい。
普通、いきなり仕事だとか言って自分を放り出す夫を、妻はそんなに簡単に許せるものだろうか。確か友人のバルクレイさんちは、この前似たようなシチュエーションで家一軒を半壊させるような盛大な夫婦喧嘩をしていた。
バルクレイ氏の奥方に比べて、己が妻のこの機嫌の良さは何だろう。
まさか、これは爆発する前兆、一種の嵐の前の静けさなのでは――
(……それはさすがに考えすぎか。フレデリカの性格からして、バルクレイんとこみたいな喧嘩をふっ掛けてくるとは思えないし……)
などとかぶりを振ろうものなら、不意にもたげてくる生来の警戒心。待て待て自分、それはお前がまだ女房の性格を把握しきれていないだけじゃあないのか? おとなしい女ほど爆発したら恐ろしい、っていう法則があるだろうが。
(いや、だって、フレデリカだぞ? 俺の可愛い奥さんがそんな凶暴な女に変貌するなんて――)
すると、今度は猜疑心がムクリと起き上がる。女を甘く見るな。彼女たちは生来の役者だ。確かにお前の目は確かで演技なんてあっさり見抜けるだろうが、奥方相手じゃその目も曇りがちだろ。何せ新婚ホヤホヤだしな。
(……もうとっくに一年経ったけど、それでもまだ「ホヤホヤ」なのか?)
自分の心の声におかしな疑いを持つのは、さておき。
鼻腔をくすぐるクリームシチューの匂いに我に返った。はたと眼前に意識を向ければ、そこは既に我が家の食堂。白いテーブルクロスと冬の花に飾られた慎ましやかな食卓の上には、およそ普通の夕食とは思えないほど豪勢な食事が用意されていた。
鍋に入れられて湯気を立ち上らせている件のクリームシチュー。
食卓の中央に鎮座するローストビーフ。
濃い色のソースに彩られた魚のパイ包み焼き。
その他、野菜の盛り合わせだとか、果物の盛り合わせだとか、焼きたて(推定)のパンの盛り合わせだとか……諸々。
ビュウは硬直した。
目を丸くして、その光景に見入っていた。
「どう? 腕によりを掛けて作ったの。冷めない内に食べましょ?」
「あ、あの……フ、フレデリカ?」
「何?」
声が震える夫の様子に気付いているのかいないのか、食卓を見据えたまま動こうとしないこちらを覗き込むフレデリカの顔は、無邪気な明るさに満ちている。
「き、今日って……何か、あったっけ?」
結婚記念日……はとっくに過ぎた。
自分の誕生日……って、まだ当分先だ。
愛しき奥様の誕生日……は、半年も先だったり前だったりする話。
それ以外。それ以外で、こんな豪勢な食卓になるような行事って、一体何だ? 新年を祝うには遅すぎる。自分たち以外の誰かの誕生日を二人っきりで祝うわけがない。それ以外の、何か祝うべき事――記念日? 記念日、何があった? 「出会って何周年」記念? 「初めてデートした日」記念? 「最初のキス」記念? 「プロポーズ」記念? いや、もしかして、「初めてのセ(以下自主規制)」記念!? ちょっと待ってくれ、そんなモンまで祝うのか女ってのは!?
――などと、常日頃の冷静さからは考えられないほどに錯乱した旦那様に、奥様は一言冷静に、
「ええ」
次の瞬間、ビュウの錯乱っぷりは留まる事を忘れた。
あるのか!? 今日、何かあるのか!? 思い出せ、今すぐ思いだせ俺! ――あぁっ! 祝うべき日だってのに花も何も買ってきてねぇよ! 今から行ってくるか!? いや、奥さんをこれ以上放ったらかしにするなんてもう出来るか、って言うかしたくねぇ! あああ、俺は一体どうすればいいんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!
「……貴方? ちょっと、貴方? ねぇどうしたの、いきなり頭抱えて」
「え? あ、いや……――」
再び我に返った時、彼はいつの間にか肩で息をしていた。フレデリカの心配そうな瞳に映る自分の姿は、はっきり言ってこの上なくおかしい。汗はダクダク、髪はボサボサ、服は滅茶苦茶。
何をやっている、自分。
そして、そんな風にこちらを案じるフレデリカに対し、彼は一言しか言うべき言葉を見出せなかった。
「えっと、その……ごめん」
「え?」
と、面食らうフレデリカ。
「ごめん、本当にごめん。俺、今日の事すっかり忘れてて、花も何も買ってきてないんだ」
「え? え、ちょっと、貴方?」
「明日は必ず何か買ってくるから。何がいい? 花じゃありきたりだよな? 指輪がいいか、ネックレスがいいか……――そういえば、髪飾りって余り持ってなかったよな? じゃあ、明日一緒に見に行こうか」
「え、え、え? ね、ねぇ貴方、どうしたのよいきなり」
「よし、それで決まりだ。明日、カーナで一番高い店に行こう。気に入ったのは何でも買ってやるから、頼む、今日のところは勘弁してくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
――錯乱状態、実は続行中。
両手をガシッと掴んで急に彼女を拝むように頭を下げたビュウを、フレデリカはしばし唖然とした目で見下ろしていたが、
「……ね、ねぇ、貴方?」
「ん?」
呼ばれ、上目遣いに見上げる。
「あ、あのね、何か勘違いしてる? もしかして?」
「勘違い?」
「ええ」
「何を?」
「だから……」
と、しばし困ったように視線を彷徨わせる妻。それから、何かを思いついたのは、急にハッとして、
「『今日の事』って、何?」
「……え?」
「私別に、貴方に『今日の事』なんて、何も話してないわよ?」
「いや、そりゃ記念日なんてそんなもの――」
「きねんび?」
不可解な、知識にはない概念を表す単語に出会った、とでも言わんばかりのおかしなアクセントで、フレデリカは繰り返した。
そして、信じられない言葉を口にした。
「記念日、って……貴方、何の事?」
「――へ?」
「今日は別に、記念日でも何でもないじゃない。――確かに、記念にはなりそうな日だけど」
「え、いや、だって……」
ビュウは戸惑いながらも上体を起こして、食卓の様子に目をやった。
その豪勢っぷりは、いくら見ても、やはり夢でも幻でもない。
「……あんな料理を用意するのは、何か祝い事があるからなんだろ?」
「その断定は何だか偏見が混じってる気もするんだけど、まぁ、それはそうね」
「じゃ、何か記念日じゃないのか、今日は?」
「そこですぐに記念日と結びつけちゃう貴方を見たら、きっと戦竜隊の人たち驚くわよ。隊長が判断を誤った、って」
「……そうなのか?」
「そうよ。……もしかして、相当疲れてる?」
「昨日徹夜だったし」
答えると、フレデリカはブツブツと、「もう、ヨヨ様ってば……」とか何とか愚痴りだす。錯乱直後で疲れた脳は、それ以上聞き取るのを拒否した。
「……で、フレデリカ?」
「え? 何?」
我に返ってこちらを見る彼女。ビュウは、今度こそはっきりと尋ねた。
「今日、何かあったっけ?」
「何もないけど……一応、あったの」
ないけどある?
「……それ、どういう意味だ?」
いつもならこのくらいの言葉遊びには付き合うビュウだが、さすがに今日はそれをしようとは思わなかった。徹夜で演説の草稿を欠かされていたせいだろうか、言語中枢が完全に麻痺してしまっている。矛盾した言葉を聞いても、何も反応しようとしない。
だから、すぐに問い返してしまった。
しかしフレデリカは、何故か不意に頬を赤く染めた。それからうつむいて、くすぐったそうに微笑みながらモジモジと、
「……本当はね、ご飯の後に言おうかな、って思ってたの。でも……今、聞いちゃう?」
そう言って、彼女はビュウを見上げた。たまらなく嬉しそうな笑顔。
それを見て、彼は反射的に頷いていた。すると、少し恥ずかしげに、しかし喜びに興奮した笑顔を見せるフレデリカ。その彼女が軽く背伸びをして夫の耳元に唇を寄せようとしているのに気付き、ビュウは少しだけ膝を曲げて屈んだ。
そして囁かれた、その事実。
それを、ビュウは驚きと共に受け止めた。
「ほ、ほん……――」
再びフレデリカと向き合って、改めて尋ねようとする。だが、驚愕の余りに声帯が震え、舌がわななき、唇が痙攣して、言葉が上手く紡げない。
一旦飲むように息を吸ってから、彼女の肩を掴んで、やっとビュウは尋ねる事が出来た。
「本当、なのか、それ?」
笑んだまま、伏し目がちになるフレデリカ。バラ色に頬を染めたまま、コクン、と一つ、小さく頷く。
頷いた。
本当、なのだ。
それを理解した直後、ビュウの胸に、何とも表現しようのない感情が湧き起こった。
嬉しいような、気恥ずかしいような。戸惑いと、恐れと、しかしそれらを覆してしまうほどの歓喜。それはまるで、尽きる事も知らずに湧き続ける泉の水のような。
その衝動に駆られるままに、彼は妻を胸に抱き締めていた。
突然の事に驚いて、しかし彼女は何の躊躇いもなく夫の胸へと飛び込み、その抱擁を受け入れ、そして自らもまた抱擁する。胸に抱いた体を、背中に回された手を、今ほど温かく感じた事はない。
ビュウは悟った。
その温もりこそが、幸せ、なのだ。
やっと掴んだ、彼の、彼自身の。
「フレデリカ――」
喜びの余りに、ビュウの声は微かに震えていた。
伝えたい感情はたくさんあるのに、溢れすぎていて何から伝えていいのかが分からない。分かってもそれを上手く言葉に出来ない。そんなもどかしさすら、今のビュウには幸福だった。
「――……ありがとう」
たった一言の謝辞。その言葉にどれだけの想いが込められているか、フレデリカに伝わるだろうか。
「……ううん、ビュウ」
腕の中で、彼女は微かにかぶりを振った。囁く声は、どこか濡れていた。
「私こそ……ありがとう」
抱き締められたまま、見上げるフレデリカ。
泣き笑いのような表情は、確かな幸せがそこにある事を知らせてくれる。
「私、今……すごく、幸せよ?」
「――俺もだよ」
抱き締める手に、もう少しだけ力を込める。彼女が確かにそこにいる事を実感できるように。
この幸せが、今、確かに自分の傍にある事に確信が持てるように。
「――さぁ、貴方」
ビュウの胸に手を突いて、フレデリカが顔を上げた。
もう、泣き笑いの顔ではない。
「夕飯、食べましょ。せっかく作ったのに、冷めちゃうわ」
「……あぁ」
少し首を傾げて言う彼女。ビュウは笑って応じる。
妻を抱擁から解き放ち、共に並んで食卓へと歩き出す。
隣で微笑むフレデリカを見つめて、彼はふとした感慨に捉われた。
思い返せば、己の人生の何と陰惨な事か。
人並みの幸せとは程遠いところにいたはずだった。
普通に恋愛して、普通に結婚して――そんな当たり前の幸せなんて、諦めていたつもりだった。
それが今、ここにある。
愛する人が隣にいて、帰るべき家があって、温かな食事が待っていて。
それだけで泣きたいほどに幸せだというのに、それ以上の幸せがあるなんて。
ビュウは笑った。こんな幸せを享受できる自分の幸運に――あるいは、それをもたらしてくれた、いるかどうかも判らない神に、ただひたすら感謝して。
秋には彼は、父親になるのだ。
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