見上げれば、空は僅かに鉛色に曇っていた。
いつの間にか木立は葉を落とし、茶色に枯れた葉は街路を覆い隠し、どこからか吹いてくる冷たい風が葉を舞い上がらせている。
冬はいつものように、音もなく、しかし確実に街に忍び寄ってきていた。あと何日かすれば、雪もちらつくようになるのではないだろうか。陽を透かして鈍い銀色に輝く雲を見上げ、マテライトは何となしにそう思った。外套の襟元をキッチリと合わせると、ゆっくりとした足取りで家を出た。庭を掃いて落ち葉を片付けていた使用人が出掛けるこちらに気付き、行ってらっしゃいませと頭を下げる。彼は一度立ち止まると、その使用人に向かって頷いてやった。そして再び歩き出す。
足はすっかり重くなってしまった。軍役から退いて久しい。今も時折練兵場に顔を出すけれど、顔馴染みたちの多くは自分のように退役し、あの戦争もろくに知らないヒヨッ子たちは「うるさいジジイが来た」とヒソヒソ話に余念がない。かつてなら怒鳴り散らしていたが、今はもうそんな気力もない。
あれから、何もかもが変わってしまったのだ。
道の途中に花屋がある。マテライトはそこで花を求めた。なるべく冬の気配を感じさせない、鮮やかな色合いの花を何種類も入れてもらった。そうして作ってもらった花束はやはりそれなりの値段になって、しかし彼は花屋に気前よく支払う。実際の値段よりも、少し割り増して。どうせ花を買う機会など、こんな日くらいしかないのだから。
花束を携え、彼は道を歩いた。街のほぼ中心にある自宅から、街外れまで。その道のりは遠く、自然と、彼は過去の記憶に招かれる。
その招きを断る術を、マテライトは持たない。
だから彼は追憶に浸る。あの、辛く厳しかった日々。強大な帝国を相手に戦争をしていて、何度も何度も命を危機に晒してきたというのに、何と懐かしいのだろうか。あの日々は、今も自分の中で燦然と輝いている。
だが、全ては変わってしまった。
あの日を境に、何もかもが、様変わりした。
マテライトはそれを思いだす。
戦争が終わり、皆が新しい、平和で幸せな暮らしを送れると信じていた、あの頃の事を――
老将の回顧録
もう十年以上前になる。
戦争が終わり、女王ヨヨの治世が落ち着きを見せ始めた頃。
一つの慶事が、カーナ軍を沸かせた。
「結婚する、じゃと!? お前が!? 一体どこの物好きと!?」
「物好き、って酷いなオッサン、俺の奥さんをそんな言い方するなよ」
「良いから答えよ! 一体どこの誰じゃ、そんな出来た物好きは!」
「出来た物好き、って……――まぁいいや。オッサンも知ってる奴だよ」
「……誰じゃ?」
「フレデリカ」
一体いつの間に二人はそんな関係になっていたのか。
当時はまだ部下だったバルクレイに聞いてみれば、あの戦争の最中からひそやかにそういう関係を気付いていた、という。
「……というか、そういう目で見れば一目瞭然だったんですけどね。将軍……気付いてらっしゃらなかったんですか? うちの女房なんかディアナと一緒になってキャーキャーはしゃいでましたけど」
「……知らん」
とぶっきらぼうに答えたものの、言われてみれば、確かにそうだったかもしれない。
体が弱くてしょっちゅう臥せっていたフレデリカを、彼はよく見舞っていた。戦争といういつ命を落とすか判らない状況の中にそんな関係になるとは余裕のあったものだ、とその時は思ったが、一方では、そういう状況だからこそなのか、と妙に納得してしまった。
ともあれ、彼は結婚する。彼のそんな様子に気付けなかった事にマテライトは少しの腹立たしさを覚えたが、それだけで、それからは祝福した。まぁ、口では色々とやかましく「結婚生活の心得」なんてものを説いていたけれど。
彼の結婚を、誰もが祝福した。一時は彼との関係を勘繰られたヨヨも、彼に妙な執着を見せていたあのセンダックでさえ、手放しで喜んだものだった。式は盛大にやれ、という女王の遠回しの命令は、しかし彼はあっさりと拒否してみせた。それは、新妻の体を気遣っての事だった。盛大にやれば、それだけ彼女に負担が掛かる、内輪だけというわけには行かないが、それでも小じんまりとやりたい、と。
式は、吉日を選んで行なわれた。よく晴れた日だった。真っ青な空に雲一つなく、降り注ぐ陽の光はぬるく、穏やかで、ポカポカとしたちょうど良い陽気の日だった。結婚式、という日にはまさに打ってつけの日だった。
その空の青さを、マテライトは今も昨日の事のような色鮮やかさで思いだせる。花婿と花嫁の、初々しい幸福に輝いた笑顔と共に。束ねられたブーケの花の淡い黄色が、まるで黄金のように光り輝いていた。
誰もが笑顔だった。宴の中で酒は入り、皆が陽気に騒ぎ出した。集まったかつての仲間たちは戦争の時に育まれたと思われるその愛を肴にしながら、二人の門出を祝福した。マテライトもまた、その中の一人だった。
誰もが、二人の幸せを、信じて疑わなかった。
二人が結婚して、半年も経った頃、マテライトの耳に一つのニュースが飛び込んだ。
「お前が父親になる、じゃと!?」
「……だから何でいちいち驚くんだよ、オッサン。律儀すぎるぞ」
「お前みたいな甲斐性のない戦略謀略馬鹿が父親になるなど、信じられるか!」
「……副収入込みで月五万ピローを稼いでる上にそっちの確定申告も自分でやっていてついでにちゃんと貯蓄もしてるのに甲斐性なしなんて言われて、俺はどうすりゃ良い?」
「だが、出来てしまったものは仕方あるまいな」
「結婚前に言われるならまだしも、何で結婚した後にまで『仕方ない』とか言われなきゃいけないんだよ」
「良いか、子供が生まれたら、まずは情操教育に力を入れるんじゃぞ。そうすればきっと教養溢れた子に――」
「うわ、オッサンの口から『情操教育』とか『教養』とかいった言葉を聞く羽目になるとは思ってもみなかった」
「貴様わしの事を何だと思っとるんじゃあぁぁぁぁっ!」
――今思えば、それが全て悪かったのかもしれない。
フレデリカは、急逝した。
彼女の身体は、妊娠、出産に耐えられるほど強くはなかったのだ。
その初期から、フレデリカは常に体調不良を訴えていたという。仕事も休みがちになり、安定期に入っても安定せず、その内に全く姿を見なくなった。その事を彼に尋ねてみれば、
「医者の話じゃ、元々体が弱いから普通の妊婦よりも負担が大きいらしくてな……」
そう語る表情にも声にも、数ヶ月前に見たあの輝きもはつらつさなかった。
「大丈夫なのか?」
「……判らない」
と、かぶりを振った彼。
今思えば、それが、彼から聞いた最後の弱音だったのかもしれない。
彼女が産気づいたという報せは、そのすぐ何日かあとに飛び込んできた。
月満たないままの陣痛。母子共に危険な状態であったという。彼は、仕事中だという事も忘れて、妻の元に駆けつけた。
ほぼ丸三日苦しんで、彼女は男児を出産した。
しかしその子は、一度も泣かないまま、死んだ。
フレデリカも、その夜に息を引き取った。
妻も子も同時に亡くしたはずなのに、しかし彼は涙一つ見せていなかった。
淡々と二人の葬儀を取り仕切り、表情一つ動かさないまま、フレデリカと我が子の棺が冷たい土の中に埋められていくのを見守っていた。
彼は、見事なまでの冷静さで葬儀の一切を仕切っていた。最愛の妻と子を失った男とは思えないほどの、事務的なまでの処理の仕方。取り乱す事なく、憔悴で口が聞けなくなる事なく、ただ淡々と、そつなくこなしていた。
余りにもそつがないので、マテライトは逆に憤慨した。何故取り乱さないのか、何故泣かないのか、と。大切なものがいっぺんに失われたのに、何故、と。
しかし同時に安堵していた。取り乱す余り狂気じみた彼を見ずに済んだ、と。そのまま彼の気が触れてしまったらどうしよう、とずっと不安だったのだ。
その心配は杞憂に終わった。フレデリカと子が死んでしまったのは悲しむべき事だった。しかし、彼はまだ若い。いつか立ち直り、再婚し、また子を設けるだろう、そんな風に思った。思ってしまった。
だから気付かなかった。
彼は既に、ある意味で……狂気の領域に、踏み込んでいたのだ、と。
彼は数日で仕事に復帰した。
そして、以前にも増して有能に立ち働いた。一日で以前の数倍の書類を捌き、部下の訓練に付き合い、戦竜の世話に注意を向けていた。
多くの者が、それを良い方向に解釈した。きっと、妻の死を乗り越えるために、がむしゃらに働いているのだろう、と。
だが、何人かの者はそこに違和感を嗅ぎ取っていた。
そう、ビュウは確かに変わった。以前よりもずっと仕事に打ち込んでいた。それは確実だった。
しかし、そこには真摯さの欠片もなかった。
目の前にある物事を、ただ淡々と、機械的にこなしているだけだった。
そして何より。
彼は、笑わなくなった。
以前はよく笑っていたのに、フレデリカを失って以来、一度も笑わなくなった。嘲笑も、作り笑いさえ、彼は浮かべなくなっていた。いやそもそも、表情というものが失われていた。
マテライトの感じた違和感は、危機感へと変じた。
その危機感は現実のものとなった。
フレデリカの死から、きっかり三ヶ月後。
彼は、失踪した。
共同墓地の入り口に立って、マテライトは思う。
あれから、十年以上の月日が流れた。
多くの者が手を尽くして探したというのに、彼の行方は杳として知れなかった。マハールのタイチョーやキャンベルのジョイにネルボ、グランベロスのパルパレオスの手すら借りて捜索の範囲をカーナからオレルス全土にまで広げたというのに、彼の足取りは、ある一点から先、プッツリと途絶えて追えなくなってしまった。
そして十年。
彼女の命日にその墓を訪れる者は、マテライトだけになってしまった。彼女と同じプリーストだったディアナはいつの頃からかこの街を離れ、病床仲間だったミストは療養先のキャンベルで結婚した。彼の舎弟トリオは商人になるべくカーナを離れて久しく、今では年に一回か二回、近況報告の手紙が来れば良い方だ。センダックは彼の失踪以来すっかり気力をなくして時折臥せるようになった。かく言う自分も、軍役を退いたのはそのすぐ後だった。
ヨヨだけが、昔と変わらず、淡々と女王の職務をこなしている。
彼の失踪直後、彼女もまた、その足取りを追った。パルパレオスに助力を頼んだのはヨヨである。そのパルパレオスの力でも追えない、と分かると、他の者がまだ続けているにも関わらず、早々に捜索を切り上げた。
その事をヨヨに問うと、彼女は、無表情に語った。
「カーナはもう、彼にとって何の価値もないのよ」
「大体、彼は子供の頃世界中を回っていたのよ? カーナを故郷とは思っていないのよ。家族がいたからいただけで、その家族も皆亡くなったら……そこにいる価値は、もうないのよ」
「私? 私はね、彼の手から離れた人間なの。ある意味、マテ、貴方と一緒。きっと無価値というほどでもないけど、彼にとって、カーナに居続けるほどに強い引力を持ってなかったのよ」
そんなものなのか。
彼にとって、自分たちは、その程度のものだったのか。
あれだけ長く共にいたというのに、あれだけ多くの戦場で肩を並べてきたというのに。
その日々に愛着を持つ事さえ、彼はなかったというのだろうか。
いや、とマテライトは思う。同じような墓碑がいくつも並ぶ中、その間隙を縫うようにして歩き、あの葬儀の日の彼を思い出した。
無表情で、妻と子の棺が冷たい土に埋もれるのを見つめていた彼。
きっとその時、彼は愛着を感じるその心も埋めてしまったのだ。
最愛の妻と、我が子と共に。
それでも。
自分も、ヨヨでさえ、彼を繋ぎ留めておけなかった。
それが、ただ悔しい。
そしてすっかり見慣れた御影石の墓碑が左手に見えてきた。
そこに刻まれた名こそ、フレデリカ。彼をこの地に繋ぎ留めておいた最後の錨。
マテライトの記憶の中にある彼女は、一見すれば地味な娘だった。常に病床にあり、白や淡い色合いの服を好んだから、余計にそう思ったのかもしれない。彼の隣で幸せそうに笑っていた彼女を見て、もっと着飾ればきっとハッと人目を引く見事な佳人になるものを、といささか残念に感じたのを、よく覚えている。
だからマテライトは、鮮やかな花をその墓前に手向ける。せめて花くらいは、と。
道を曲がり、彼女の墓の正面に立って、ようやく。
マテライトは、気付く。
フレデリカの墓。
そこに。
真新しい、花束が。
淡い、黄色の、花。
「――――!?」
マテライトは目を見開き、周囲を見回した。
誰もいない。
気配すらない。
花束はまだ新しい。一昨日や昨日置かれた物とは思えない。包み紙はまだ真っ白で、砂埃すら付いていないようだ。
そう、たった今置いていった物のような――
「――……ビュウ、か……?」
その名を、呟く。
「ビュウよ……お前、なのか?」
――都合の良い想像だとは、解っている。
だが、それでも、ビュウだと思いたい。信じたい。
最早、彼にとってこの地は、ただ最愛の妻と家族の墓のあるだけの場所でしかないけれど。
それでも……それでも、まだ、このカーナには、彼が立ち寄るだけの価値があるのだ、と。
不意に目頭が熱くなり、マテライトは咄嗟に空を見上げた。
家を出た時は鉛色とも銀色ともつかない雲に覆われていたのに、今では、その雲に所々と切れ間が入って、そこから光が差し込んできている。
その切れ間から覗く、空の色。
――あの日の空と、同じ、澄んだ青色だった。
吐息を、一つ、二つ。マテライトの口元には笑みが浮かぶ。それは、かつて浮かべていた、機嫌の良い時の笑いだった。
――ビュウよ、戻ってこいとは最早言わぬ。ただ、いつかまたお前の妻の墓を訪れよ。そして願わくば、その日に、またわしらと会おう。一目でも、良いから。
そうだ、ヨヨに会いに行こう。
そして、この出来事を話そう。センダックにも。
都合が良すぎる、と笑われるだろう。それでも、彼女たちならきっとこの思いを共有してくれる。
ここに一つの希望がある。来年は、二人を誘って、ここに来よう。
彼らの願った幸せはもう失われたけれど。
彼はもう、ここにはいないけれど。
それでも自分たちは、彼を待っている。
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