何かもう、勘弁してくれ。
ここ数ヶ月でそんな思いに駆られたのは、これで何度目だろうか――ビュウが益体もない事を考えたのは、防寒用のマントを羽織る、やたらと気まずい顔をしたフレデリカとばったり出くわした事による。いや、正確には、ビュウに背を向けていた彼女がこちらの接近に気付いて振り返り、その瞬間、「あ、どうしよう」的に表情に焦りの色を加えた、だが。
「フレデリカ? どうかした――」
――そもそもビュウがこんな夜中に艦内をうろついていたのは、これから夜明けまで当直に当たらなければいけないからである。ファーレンハイト艦橋後部の見張り台に出たら、前の当番であるところのフレデリカが見張り台の左側に張りつき、何かを窺っていた。
そしてそれは、「どうかしたのか」と言いかけながら何気なくそちら側を窺ったビュウの目にも飛び込んできた。
その時になってようやく思い出す。艦橋後部の見張り台からは、貴賓室の上にあるテラスが覗ける事を。
僅かな月明かりの中にボンヤリと浮かび上がる、そこで寄り添うパルパレオスとヨヨの姿を見てやっと思い出す辺り、何とも間の抜けた話だ。
「あ、あの、ビュウさん……」
気まずさと気遣い満点といった風情のフレデリカのオロオロとした声を聞いた瞬間、
――何かもう、勘弁してくれ。
ビュウは脱力して、そのまま見張り台の床にしゃがみ込んでしまった。
コイバナにはうってつけの日
別にビュウとしては、その事実を公言したつもりはなかった。
が、カーナ解放戦の折にヨヨ自身がパルパレオスを伴って本隊に戻ってきたのと、その後にしばしば目撃された二人の仲睦まじさから、その推測は事実としてあっさりと反乱軍――もとい、救世軍中に知れ渡る事となった。
すなわち、ビュウはヨヨに失恋した、という。
「……それにしても」
ビュウは小声で漏らす。口調がどことなくぶっきらぼうになってしまうのはこんな状況だから――というのはただの言い訳だ。分かっている。むしろそれを言い訳にしてしまう自分に対する嫌悪感がぶっきらぼうにさせた。
「別に君まで、一緒になって隠れる事もないのに」
「何か、つい」
と、彼女は気弱げに笑う。
けれど彼は、その笑顔を疑ってしまう。当直を終えたはずの彼女が、それでもここにいるのは何故だろう、と。フレデリカはディアナと仲が良い。ディアナに話のネタを提供するため、ここに残ってビュウとテラスの二人の動向を探っているのではないか――と、これはいくら何でも穿って見すぎか。そんな風に疑ってしまう自分に、更なる嫌悪感を覚える。
けれど、
(気遣って残ってるんなら、いっそ放っておいてくれた方がありがたいんだけどな)
それがビュウの本音だった。しかも、かなり捨て鉢気味の本音だ。そうなるにも理由がある。
まず、そもそもの話を遡って――
反乱軍の構成人員の半数を占めるカーナ出身者のほとんどが、ビュウがヨヨに恋愛感情を抱いていた事を知っていた。そしてヨヨもまたビュウを憎からず思っていた、という事実を知っていた。
ビュウが反乱軍を結成し、ヨヨを救い、ここまでグランベロスと戦ってきたのも、ヨヨのためだという事を、彼らは知っていた。
新参者にはすぐに伝えられる内部事情。結果として、これらの事実は反乱軍のほとんどの者が知るところとなっていた。
後に事情通のディアナから聞きだした話によれば、大方の見方はこんなだったという。
『カーナの有力貴族のほとんどが先の敗北の前後で死亡している。そして、ビュウには山ほどの功績がある。カーナを解放した暁には、その功績で以ってヨヨはビュウに軍の要職と爵位を授け、婿に迎えるのではないか』
そういう見方が、ほとんどの者にとって既成事実と化しつつあった時に――パルパレオスの登場である。
誰もが、彼はパルパレオスにお株を奪われた、と思った。
誰もが、彼に同情票を、パルパレオスに批判票を投じた。
それがビュウにとっての針のむしろの始まりだった。
誰もが、彼を腫れ物のように扱い始めたのだ。
ビュウとパルパレオスが同席すれば誰かが下手な気遣いで二人を遠ざけようとして、パルパレオスとヨヨがいる場にビュウを近づけないようにする。二人の事を話題にしている場にビュウが入ってくれば、話していた連中はあからさまに気まずい顔をして口を噤み、下手な愛想笑いを浮かべてくる始末。挙げ句、一番近しい弟分たちから出てくる言葉は「ヨヨ様の事、辛いよな……解るよ」というような、人の傷に塩を塗りたくるようなものばかり。
――何かもう、勘弁してくれ。
ビュウは空を仰ぐ。夜明け前にはまだ遠く、空は黒々とした紺色をしていた。あぁまったく、何で俺が鬱々しなきゃいけないんだか。こっそりと溜め息を吐く。春はまだ浅く、吐息は白いもやとなってすぐに夜闇に紛れて消えた。
こっそりと、というのには理由があった。後部見張り台からテラスを覗けるように、テラスからも後部見張り台を窺う事が出来る。大きく溜め息を吐いたらあそこにいる二人に勘付かれる。これ以上気まずい思いをしてたまるか――というのと、もう一つ。
フレデリカ。
下手に溜め息なんか聞かれて気遣われるのは、ごめんだった。
だから、聞かれないように、と小さく、普通の呼吸と同じくらいの何気なさで吐息したはずだったのに、それから半拍置いたタイミングでフレデリカは腰を浮かす。ビュウはハッと彼女を見上げた。
「ごめんなさい、何か一緒になって。じゃあ、私、戻ります」
そう、さっきと同じ気弱げな笑顔で小さく告げてくる。ビュウは咄嗟に「何で」と口走っていた。
やはり、溜め息を聞かれて気まずくさせたか。しかしフレデリカは微笑みを崩さぬまま、
「だって、こういう時は誰かと一緒にいたくないでしょう?」
「いや、今の溜め息はそういうのじゃなくて――」
「……溜め息?」
と、小首を傾げる。その表情はきょとんとしていて、不思議そうで、つまり――
(……うわ、俺、墓穴掘った?)
ビュウは手で顔を覆った。疑心暗鬼に取りつかれていた自分が余りに情けない。情けなくて顔も上げられない。
そうしてしばらく肩を落として顔を伏せていたら、不意に、クスリ、という小さな笑い声が漏れ聞こえた。
「……別に、ビュウさんに気を遣ったとか、そういうんじゃないんですよ? 私も酷い失恋をした事があったから、そっとしといてほしい、っていう気持ちが解るだけで」
優しい声音だった。
けれど、いたわるとか気遣うとか、そういうのとはまた違う声音だった。
どちらかと言えばそれはさばさばしていて、開けっぴろげで――だからビュウは、顔を上げていた。フレデリカを見上げる。傍らにいた彼女と目が合う。「では」と微笑んだ。
「――待って」
どうして呼び止めたのか。一人になりたいと、そっとしておいてほしいと、思っていたはずなのに。
しかし口から突いて出た言葉は止まらない。待って、もし差し支えなかったら、とビュウの意志に反してスラスラと口から流れ出す。
「その話……聞かせてくれないか?」
フレデリカは、驚いたように目を見開いたが、
「……面白くないですよ?」
と、仕方なさそうに苦笑した。
まだ宮廷に出仕する前の話です。
再びビュウの隣に座った彼女は、そんな言葉から話を始めた。
「実家の近所に、私の事をとても可愛がってくれたお兄さんがいたんです。私より五つ歳上で。私、昔から体が弱かったから余り外で遊べなかったんですけど、そのお兄さんだけが、事あるごとに私のお見舞いに来てくれて、色んなお話をしてくれて……私、とても嬉しかったんです。で、お兄さんが帰っちゃうのがとても寂しくて。だから私も何かお喋りしてもっと長くいてもらおう、と思って、たくさん本を読んだんです。
その中に、白魔法の入門書がありました。すごく初歩の、魔法学校の初級クラスでも使わないような本です。私、それをとても面白く感じて、何度も何度も繰り返し読みました。その話をお兄さんにしたら、凄いね、って。凄く、嬉しかった。
だから、親に頼んで、白魔法の基礎理論の本を買ってもらいました。それを何度も何度も読んで、自分でも試してみて、かかりつけのプリーストのお医者様にもアドバイスを貰って……一年くらいで、『ホワイトドラッグ』が使えるようになったんです。と言っても、ちゃんとした専門教育も受けていない素人の術だからとてもお粗末で、とても貧弱で、小さな擦り傷を治すのがやっとだったんですけど。
でも、それを知った私の親は喜んでくれました。本だけで魔法が使えるようになるなんて凄い、って。お医者様も、貴女にはきっと才能がある、良ければ魔法学校宛に編入の推薦書を書こう、とおっしゃってくれて。そんな風に人から誉められた事ってなかったから、私、舞い上がってしまうくらいに嬉しかった。いえ、実際に舞い上がってたかもしれません。その次にお兄さんに会った時、手に小さな切り傷を作ってて、私、『ホワイトドラッグ』で治してしまったんです」
滔々と語られる彼女の言葉は優しくて、柔らかくて、温かくて――
だから、「してしまった」という言葉がやけに耳に突き刺さった。
ビュウは思わずフレデリカを見やる。フレデリカは淡く苦笑していた。子供の頃のどうしようもない悪戯を話すような、来し方を微笑ましく思う表情。
その笑顔のまま、
「そうしたら、お兄さんは怖い顔になりました。ストンと表情が抜け落ちる、ってああいう事を言うんですね」
優しい声のまま、
「私がビックリして何も言えない内に、お兄さんは私に言ったんです。何で君が、って」
柔らかい声音のまま、
「何で君が魔法を使えるんだ、僕はあんなに勉強しても使えないのに、何で君が、何で君が、ふざけるな――って」
紡がれる言葉は、厳しい糾弾。理不尽な言いがかり。
愕然と、ビュウは彼女の顔を見つめた。彼女は笑っていた。その事を微笑ましく思い出す、そんな表情を決して崩していなかった。一方で、ビュウは半ば戦慄してその時の彼女の様子を思った。容易く思い描けた。大好きな幼馴染みに喜んでもらいたかった小さな少女。しかし、身に覚えのないドロドロとした怒りを一身に受け、戸惑いと恐怖に表情を凍りつかせ、身を竦ませる――
「……どうして」
ビュウは、ようやくそれだけを言葉にする。フレデリカは何でもない事のように、ヒョイと肩を竦めた。
「そのお兄さん、かかりつけのお医者様の息子さんだったんです。たった一人の」
途端に、全ての疑問が氷解した。
おそらくは、後継にと望まれたのだろう。けれど、この世界において魔法の才能は女の方が開花させやすい。その彼はきっと、親の期待とプレッシャーに堪えながら、ずっと勉強していた。けれどどれだけ勉強しても魔法は使えない。焦る。そんな時に、幼馴染みの病弱な少女が、彼よりもずっと勉強をしていない、本を読んでいただけの少女が白魔法を使ってみせた。
その瞬間、それまで少女に抱いていた好意や同情が、一気に嫉妬と憎悪にすりかわった。
「魔力は、あったらしいんです。ただ、白魔法の才能はなかった。
それから、そのお兄さんは来てくれなくなりました。私は泣きました。自分が悪い事をしたのだと泣きました。だからお兄さんに謝りに行こうとしました。でも、親に止められて行けませんでした。
泣いて泣いて、何度も泣いて……凄く苦しかったのを覚えてます。胸が苦しかった。お兄さんに会いたくて仕方なかった。罵られても良かったから、お兄さんにもう一度会いたかった。でも、会いに行けなかった。罵られても良い、って思っているのに、やっぱりお兄さんのあんな顔を見るのが怖かったんです」
フレデリカは微笑んでいた。微笑みながら、悲しい過去を語っていた。強張らせてさえいなかった。どこまでも優しい微笑みを浮かべていた。どうして。しかしビュウはその疑問をぶつけられない。ただ呆然と見惚れる。
「私は部屋にこもりがちになりました。部屋にこもって、何度も何度も泣きました。涙が涸れるかも、こんなに泣いたらもうこれから先泣けないかも、って思うくらい。
それを何度も繰り返す内に、お兄さんとの事を私の中でちゃんと整理しよう、という気になってきたんです。最初の内は中々それが出来なくて、やっぱり何度も何度も泣いたんですけど。
でも、さすがに親に心配を掛けすぎました。お兄さんとの事を、色々言ってくるようになったんです。あんな奴の事は忘れてしまえ、とか、お前のせいじゃない、とか。あの頃の私はそれが凄くうるさくて、随分反発しました。そうしたら、お医者様から推薦状をいただいて――逃げるように、魔法学校の寄宿舎に入ってしまいました」
クスッと笑みを深めるその様は、むしろ悪戯を成功させた童女のよう。
「それからずっと白魔法の勉強をして、プリーストになって……でも、ずっと白魔法を使う事に抵抗がありました。やっぱり、お兄さんとの事が中々整理しきれなかったんですね。戦争前は私、ずっと薬の調合ばかりやってたんです。こう見えても、薬学はトップだったんで」
しかし、今の彼女からは白魔法を使うためらいなんて見られない。戦闘ともなれば、彼女は他のプリーストたちと共に後方から『ホワイトドラッグ』を使い、時には『スターフォール』や『ビッグバースト』で前線の援護をする。むしろ潔いほどに魔法をバンバン使う。
「どうして、抵抗がなくなったんだ?」
そう問うと、
「だって、抵抗なんて感じている場合じゃなかったでしょ?」
――ああ、そうか。俺は何て愚問を。
ビュウは苦く笑った。あの戦いがどれだけ酷かったのか、身を持って知っているのに。
酷い戦いだった。前線だけでなく後方にまで甚大な被害が出た。たくさんの怪我人が出た。たくさんの死者が出た。ためらっている間もなければ、何をためらっているのかを考える暇もなかっただろう。ためらえば、その分人が死ぬ。感覚を麻痺させ、思考を止め、そうしなければ生き残れなかった。
「でも、割り切れるようになったのは最近です。お兄さんとの事は辛かったけど……でも、良い事もたくさんあった、って。私はお兄さんにたくさん励ましてもらって、白魔法を使えるようになるきっかけさえ貰った。それだけで、お兄さんに出会って、好きになった事は、決して無駄じゃなかった、って、思えるように、なりました」
そうして、フレデリカは破顔した。
弱い月明かりに照らされて白く浮かび上がる、それはとても美しい笑顔だった。けれど同時に、どこか胸が痛くなる笑みだった。言葉通りの、感謝の念ばかりではないだろう――割り切れたと言っても、その時感じた辛さは辛さのまま。それが彼女の笑顔に、ほんの僅かな、言われても判らないような陰りを与える。
それが、美しい。
見惚れてしまうほどに。
「――……俺、さ」
ポツリ、と。
ビュウは語り始めた。誰にも語ってこなかった、心中を。
「ヨヨが、本当に好きだった」
「はい」
「何て言うのかな、彼女の事を考えると、こう、胸が苦しくなってさ。誰かと笑ってる声なんか聞くと、切なくなるのに、何か凄く嬉しくなって。だから笑ってほしくて、面白い話をしようと王宮の図書館にあった本を読み漁ったよ。君みたいに」
「はい」
「なのに、俺もガキでさ。ヨヨの前で格好付けたくて、でもそれが上手くいかなくて、ぶっきらぼうな事言ったりして……」
「はい」
「でもヨヨは、そんな俺が好きって言ってくれたんだ」
今でも思い出す。
かつて、彼女と一緒に思い出の教会に行った。サラマンダーの背に乗って。ビュウ、サラマンダー、とっても速いね! 背中でそうはしゃぐ彼女の声に、心臓が弾け飛びそうになるくらいドクドクと早鐘を打った。嬉しくて楽しくて、でもそれが上手く言葉にならなくて、「ギュッて掴まってもいい?」という彼女の言葉に「や、やめろよ」なんて内心の想いとは裏腹の照れた言葉を返してしまった。でも結局彼女はギュッと掴まってきて、嬉しいやら照れ臭いやら、火がついたのではないかと思うくらいに顔が真っ赤になった。
けれど、そうやって一緒に行った教会には、結局入らなかった。もし大人になった時、お互いに今と同じ気持ちだったら、その時は、一緒に入ってくれる? 本当は一も二もなく頷きたかったのに、「仕方ねぇなぁ」とひねくれた言葉しか言えなかったのは、若さ故のご愛嬌、だ。
「別に俺も、ヨヨと結婚できるとは、思ってなかったさ。だってヨヨには婚約者がいた。下級貴族の俺よりも、家柄も領地も立派な大貴族の次男坊が。だから、最初っから叶うはずのない恋だって、解ってたんだ」
「はい」
「……ヨヨを好きでいられれば、俺はそれで良かったんだ」
ビュウは、深々と溜め息を吐く。
「でも、俺もヨヨも気付いてたんだ。ヨヨが、恋に恋してただけだった事に。俺をだしに、恋愛ごっこをしていた事に。
俺は、別にそれでも構わなかった。ヨヨが俺のものになるはずがない、って解ってたから。でも」
思い出す。
今から数ヶ月前。崩れかけた思い出の教会。
いつかと同じように、ビュウはヨヨに伴われてそこを訪れた。
いつか、また一緒に。けれどそれは、あの日の約束が果たされたわけではなかった。
ヨヨは、そこで待っていた一人の男の元へと駆け寄った。ビュウから離れて。
パルパレオス。ヨヨが、グランベロスで恋した相手。ヨヨのためにグランベロスを捨てる事を決意した――ビュウが出来なかった事をした男。
「ヨヨを抱き締めたパルパレオスを見た時、思ったんだ。――……何で、俺じゃないんだろう、って」
解っていたはずだった。
ヨヨがビュウたちの元に戻ってきたその時から。
彼女のよそよそしい態度から、時折ひどく悲しげな顔で考え込む素振りから、ビュウに対し一線引こうとする様子から。
ビュウは気付いていたはずだった。納得していたはずだった。諦めていたはずだった。事実、グランベロスに潜入したタイチョーがもたらしたパルパレオスからヨヨへの伝言を聞いた時、来るべき時が来たか、と驚く事さえしなかった。粛々とその事実を受け止めた、そのはずだった。
けれど、あの瞬間。
ビュウの脳裏をかすめ、胸に黒々と宿ったもの。
それは紛れもなく、嫉妬だった。
ビュウは、ククッと笑った。
苦笑、というには余りにも暗い、自嘲の笑みだった。
「馬鹿だろう? 俺は最初っから諦めてたはずなのに、いざ見せつけられると、何だかひどく悔しくて、情けなくなったんだ。どうして俺じゃないんだ、って。どうしてヨヨは俺を好きになってくれなかったんだ、って。どうして俺は――……最初から、諦めちまったんだ、って」
もっと違う接し方をしていれば、あるいは。
そんな風に浅ましく後悔する自分が、どうしようもなく卑しく思えた。
好きでいられればそれだけで良かった。けれどそれは単なる欺瞞だった。そして決定的に後戻りできないところで気付いてしまった。それがこの上なく情けなかった。
戦竜隊長。反乱軍の指揮官。そんな風に飾り立てたところで、自分は大した事のない、ちっぽけな負け犬なのだと、思い知らされた。
好きな女をさらう事も出来ず。
恋敵と張り合い、奪う事も出来ず。
そして仲睦まじく寄り添う二人を見る度に、胸を掻き毟りたくなるほどの苦しい嫉妬に苛まれ、そんな自分を嫌悪し、卑下する。
どうやったら、思い切れるのだろう。
どうやったら、割り切れるのだろう。
ヨヨへの想いから解放されたいのか、されたくないのか、それすら解らない。ただ苦しくて、切なくて、情けなくて、ビュウはギュッと服の胸元を握り締めた。
「――ビュウさん」
フレデリカが呼ぶ。ビュウはノロノロと彼女に目を向ける。フレデリカは笑っていた。眉尻を下げた、気弱そうに見えるあの笑顔だ。
その笑顔で、彼女は、優しい言葉を紡いだ。
「良い恋をしたと、思ってみてはどうですか?」
「……え?」
「ビュウさんはまだ失恋したばかりで、あの時の私みたいに、悩んだり、苦しんだりすると思うんです。ヨヨ様やパルパレオス将軍の事が、自分の中で中々整理がつかなくて。
でも、それも必ず終わります。いつかある時、ふっと、違う見方が出来るようになります。後悔するばかりじゃなくて、ヨヨ様を好きになった事で得たものもあるって、気付くはずです。
だから、良い恋をした、って思ってみてはどうですか?」
良い、恋を――
ビュウは呆然と、その言葉を受け止める。乾いた土にしみこんでいく水のように、心の奥深くに優しくじんわりと響く。ああ――ビュウは、溜め息を吐いた。
そのまま、テラスの方を見やる。
さすがにもうヨヨたちはいなかった。だが彼らはそこにいた。寄り添って。それを思うと、今もまだ嫉妬に胸がチリチリと疼く。
けれど。
同時に思い浮かぶ。ヨヨの晴れやかな笑い声。ビュウ、こっちよ! 守り役に隠れての大冒険。飛行訓練を終えたばかりのサラマンダーの背に乗って、カーナ中の恋人たちの憧れ、思い出の教会へ。ウキウキしていた。ワクワクしていた。心が弾んで、踊りだしたいぐらいだった。
とても、とても大切な思い出。
それがこれまでビュウを支えてきた。
キラキラとした思い出にさえ今はまだ胸が痛み、同時に後悔が襲ってくるけれど、それもいつかは収まる。落ち着く。そしてその時には、きっと……ヨヨとの思い出を、懐かしく思い出せるようになっている。
「……なら、それまでもう少しウジウジ悩んでみるかな」
「ええ、悩んでみてください」
ビュウの力のない笑みに、フレデリカも眉尻を下げた笑みで応じる。ふふ、と笑い合う。
そんな風に笑えるようになるなんて、見張り台に来た時には思いも寄らなかった。
「って、私、励ましてるとは思えない事言ってますね」
「いや、おかげで何か少し吹っ切れた気がするよ」
「そうですか? それなら、私も話した甲斐が――あ」
と、不意に彼女は声の調子を改めた。笑みを引っ込め、空を見上げる。
つられてビュウも見上げ、驚く。
一体どれほど話し込んでいたのだろう。紺色だった夜空は群青色に変わり、夜明けが近い事を窺わせた。
「いけない、私ってばすっかり当直の邪魔をして。ごめんなさい、ビュウさん」
慌てて立ち上がった彼女は、艦内に戻る素振りを見せた。かぶりを振りながら、ビュウも送ろうと立ち上がる。
「良いんだ。引き留めたのは俺だから。その……」
「?」
「……ありがとう、フレデリカ」
話してくれて。
聞いてくれて。
ヨヨたちを悪く思うでもない、俺をやたらと慰めるでもない、そして腫れ物のように扱うでもない、君のそんな優しさが今の俺にはありがたかった。
たくさんの思いを込めた言葉に、フレデリカは、艶やかに微笑んだ。
ドキリ、と。
ビュウの胸が、高鳴る。
「どういたしまして。――それでは、おやすみなさい」
「……あ、ああ。おやすみ」
軽く頭を下げ、彼女は艦内へと戻っていく。ビュウはそれをボンヤリと見送る。
踵を返すフレデリカ。その拍子に三つ編みにされた金色の髪が揺れる。淡い月明かりを反射して、白々と輝く。
その光が、ビュウの目を射る。
――パタン。
それが、艦内に続く木戸が閉められた音だと気付くのに、ビュウは数秒を要した。そしてハッと我に返り、頭をブンブンと振って視界に残るフレデリカの髪の残像を振り払う。
だが、彼女が最後に見せた笑顔は、脳裏にくっきりと焼きついていて。
「……いくら何でも」
見張り台の手すりに寄り掛かり、ビュウは溜め息を吐いた。
この夜で何度目か、しかし憂鬱ではないこの夜初の溜め息。
呆れ返った。
自分に。
「虫が良すぎるだろ、俺」
ヨヨへの思いをどう決着つけるか、それすらまだ分からないというのに、フレデリカの笑顔を思い出して顔を赤らめる――そんな自分に呆れ果てて、ビュウはもう一度、溜め息を吐いた。
夜明けは、近い。
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