――辿り着いた広間に、アルフの呼吸が僅かに止まる。
黒曜石の床はまるで鏡のようで、その上に敷かれた緋色の絨毯は、さながら滴り落ちる一筋の血。その血は蛇行する事なく、アルフの立つ入り口と、玉座とを繋いでいる。
一人の男が座る、漆黒の玉座。
異形の男だ。顔は美貌の青年だが、両のこめかみからはねじくれた角が伸び、黒衣から覗く両の手は鋭い爪を持つ獣のそれだ。そして美貌の面にも、赤黒い痣が不気味な文様となって縦横無尽に走っている。何より、額には――縦長の瞳が、カッと見開いて立ち竦むアルフを睨み据えていた。
「よく来たな、勇者アルフよ」
男が、唇を動かした。動く度にチラリチラリと覗く鋭い牙。男の声は、聞き惚れてしまいそうなほどに美しいテノールだった。
だがアルフは、その声に聞き入ってはいけない事を知っていた。かの賢者は言っていた。魔王は悪なる美の結晶、一瞬たりとも心奪われれば、たちどころに魂を引きずり出される――
「……姫を返せ」
低く、唸るように。
放たれたアルフの言葉に、魔王は不快げに眉根を寄せた。
「無粋な。余の言葉を遮るとは」
「黙れ! お前の話などどうでも良い! 今すぐに姫を返せ!」
「ふん。此度の勇者は礼儀作法もわきまえぬと見える。だが――良かろう」
唇を、大きく嘲笑の形に歪ませて――魔王が、玉座から立った。
「聖剣を抜け、勇者アルフよ。この魔王自らが、貴様をその聖剣ともどもこの世から消し去ってくれよう!」
アルフは腰の鞘から剣を抜く。この漆黒の玉座の間にあって、唯一純白に輝く聖剣の刃。その光と、魔王の闇とが拮抗し、
「……オチが読めたなぁ」
ボソリと一言呟いて、ビュウは本を放り投げた。
魔王なき世の幸と不幸
今日も今日とて、フレデリカはベッドの上である。上体を起こして、ビュウが貸した騎士道物語を読んでいる彼女の顔色は、いつもより良いようだ。近付くこちらに気付いた彼女にやぁと気軽に挨拶し、
「本、ありがとう。読み終わったから返すよ」
差し出したのは、数時間前に投げ出した本である。タイトルは、『勇者アルフの冒険』。巷で流行の冒険活劇で、フレデリカはそれを、先日立ち寄ったゴドランド領の港町で買い求めたという。そのせいかまだ真新しく、読み込まれた本特有の、小口につく手垢の汚れはまだない。
こんなに新しい本を読ませてもらっていいのだろうか、と借りた時は思ったものだった。けれど――と、ビュウはそこから先の思考を断ち切った。はにかんだ笑顔でこちらを見上げてくるフレデリカを見れば、誰だってそうだろう。
「どうだった?」
「面白かったよ。主人公が聖剣を探して見つけるくだりにはワクワクしたし、魔王との対決の場面では思わず手に汗握った。魔王と倒して、ヒロインを取り戻して抱き合ったところなんか、凄い感動したね」
ビュウはペラペラと感想を喋る。その様は立て板に水を流すがごとく、饒舌そのものだった。口調は少し早口なのに、やたらに歯切れが良いので言葉そのものは聞き取りやすい。それが余計に饒舌な印象を与えている。
ひとしきり喋り終えたら、不意にフレデリカがクスクスと笑った。おかしくて仕方がない、という笑顔だ。何かおかしな事を言ったか、とビュウは自分の言葉を頭の中で反芻する。そんな事は、ない――はずだ。思わず首をひねる。
笑いの発作がようやく収まったらしい。彼女は、口元に微笑みの名残を宿したまま、はっきりとこう言った。
「嘘でしょ?」
「……何で分かった?」
「ヨヨ様がおっしゃっていたわ。貴方は、自分の好みじゃない本の感想を聞かれた時は優等生の回答しかしない、って」
ビュウは思わず額に手を当てた。それは、つまり、
「……ヨヨの差し金か」
「というわけじゃないんだけど」
そう、フレデリカは悪戯っぽく笑う。少女のような無邪気な笑顔に、ビュウは怒る気も失せた。元々フレデリカに対し怒るような気質など持ち合わせていない。
彼女は、ビュウから返されたばかりの本の表紙にそっと手を置いて、
「実を言うとね、私もこの本、あんまり面白いと思わなかったの」
「そうなのか?」
「ええ。でもこの本、面白いって評判だから、私の感覚がおかしいのかしら、と思って。そうしたらヨヨ様が」
「俺に読ませて感想を聞いてみろ、と?」
そういう事、と頷くフレデリカ。思わずビュウは天井を仰いだ。
「ヨヨの奴、俺の読書傾向知ってるくせして……」
そもそもビュウ自身、自分の感覚に自信がない。
何せ、読書傾向が普通とかなりズレている。読むのは基本的に戦竜関係の研究書や論文。それ以外には歴史関係、軍事関係、その他諸々と概ね仕事と直結している。フレデリカが今読んでいるビュウ所蔵の騎士道物語も、元を正せば、騎士たる者その手の教養も必要だ、と父親に言われて読むようになったに過ぎない。
だからビュウは、文芸書は余り読まない。読んでもかなり堅い歴史物や戦記物で、フレデリカが貸してくれたような、架空の世界を舞台にしたおとぎ話のような娯楽小説は守備範囲外。
感想を求められても、困る。
「それで、どうだった?」
困るのだが――
こんな風にキラキラした目で問われて、「いや、俺こういうの分からないから」と答えられる男は、多分朴念仁か単なる阿呆だ。
そしてビュウは――幸か不幸か、多分どちらかと言えば不幸だ――そのどちらでもなかったので、
「まぁ、夢物語だよな」
一蹴する。
「世界の混乱の原因は魔王で、それを倒すために勇者が存在して、勇者が魔王を倒せば何もかも解決、ついでにお姫様とも結婚できる――ご都合主義を形にしたような設定と安易なプロットだ」
「うん」
「だから途中でオチが読める。旅立ちで一回、聖剣探しで一回、魔王の城に向かう旅路で一回、魔王との戦いで一回、お姫様を救い出して帰還というところで一回、俺は本を投げ出したよ。つまらなくなって」
「うん」
「勇者は魔王を倒して、お姫様と結婚してめでたしめでたし――じゃないだろ。元々どこの馬の骨とも知れない勇者をお姫様と結婚させて、どこからも文句は出ないのか? 王位継承権はどうなる? 大体魔王は何でこんなお姫様を誘拐した? 誘拐して、でも勇者が来るまで無傷で放置して、何のつもりだったんだ? そもそもこんなお姫様のどこにさらう価値があった? 特殊能力? 人格? どちらも何の言及もされてないぞ? それ以前の問題として、一国の王女がこんな世間知らずであってたまるか」
散々突っ込みを入れて――
フレデリカが再びクスクス笑っているのを聞いてようやく、自分の大人気なさに気付いた。
うわぁ、俺馬鹿か。恥じ入って僅かに顔を赤くするビュウ。彼女は笑いの余韻を残す声を寄越す。
「ご、ごめんなさいね。あんまりにもビュウらしくて――」
そしてまた、クスクス、クスクス。口元に手を当てて笑うフレデリカは可愛らしく、まぁ馬鹿をやったのもこのためと思えば――って、何考えてるんだ俺。自分に突っ込みを入れて、彼は誤魔化すように咳払いした。
「それで、フレデリカは?」
「え?」
「フレデリカは、その本読んで、どう思ったんだ?」
よもや自分のように揚げ足取りに終始していたわけではないだろう。けれど彼女は考え込む。うーん、と心持ち唇を尖らせて眉根を寄せるその表情は、それはそれで可愛らしい――だから落ち着け俺。
「……羨ましい、って思ったわ」
「え?」
「だって、そうじゃない?」
同意を求めてくるフレデリカの声音は、羨んでいるよりは、何か途方に暮れているように聞こえた。『勇者アルフの冒険』、そう印字されたピカピカの表紙に視線を落とし、彼女は肩を落としている。
「この世界は、魔王を倒せばハッピーエンド、なのよ? 魔王さえ倒せば、何もかも上手くいく――そういう風に、なっているのよ?」
呟く言葉はともすれば聞き逃しそうで、だというのにビュウの耳に確かに残る。
「私たちの戦いにも、こんな魔王みたいなのがいればなぁ……って、思ったの」
もしいるとするならば、それはビュウたち反乱軍の最大の敵、グランベロス皇帝サウザーだろうか。
けれど残念な事に、サウザーを倒したところでハッピーエンドにはならないのだ。
ビュウ自身あえて言わず、反乱軍の誰もが決して話題にしないが、しかし最早誰もが実感している――この世界の問題はどうしようもないほどに山積みで、サウザーを倒したところでそれが減るわけでもなく、むしろ嵩(かさ)が増えるだけ。
この世界に、「魔王」という分かりやすい脅威はいない。
「……勇者も、いないしな」
同じように、「勇者」という分かりやすい希望も、ない。
だから、フレデリカは笑う。力なく。
「そうね。だから――ヨヨ様は、ずっと苦しんでらっしゃる」
あぁそうか、とビュウは合点が行った気がした。
フレデリカとヨヨとの間で、この本の話題が上った理由。
「……ヨヨ様にも、勇者がいれば良かったのに」
勇者は、いない。
だから、姫は救われない。
「いっそ、ビュウがヨヨ様の勇者だったら良かったのよ」
と、笑うフレデリカ。作ったような明るさは、本心からの言葉かどうかを疑わせるに十分だった。けれどそこは追究せず、ビュウは肩を竦める。
「俺は、勇者ってガラじゃないさ」
悔しいが、ヨヨの「勇者」はたった一人だけだ――自分ではないその顔を思い浮かべ、ビュウは、胸に宿る熾火(おきび)が赤々と燃え上がろうとしているのを感じた。
悔しさと無力感を酸素にして、嫉妬はビュウの心を焦がす。その激情をささやかな溜め息でやり過ごして、力なく笑った。
「――奴も、勇者ってガラじゃないだろうけどな」
え、とフレデリカが首を傾げる。ビュウは諦めにまみれた笑みで何でもないとかぶりを振った。
せめて魔王がいれば、とボンヤリ思う。
しかし、そうするとあのカボチャパンツ野郎が勇者。
「――……俺が魔王やろうかなぁ」
「何でそうなるの!?」
フレデリカの突っ込みが電光石火で入った、そんな平和な午後のお話。
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