あの戦争が終わって、もう五年。
五年という年月は戦争という悪夢を風化させるには十分な年月で、そして――
「よ、フレデリカ、こんばんは」
「あらビュウ、こんばんは」
――……二人の関係を変えるには、少し足りない。
五年目の掛け違いラプソディ
「どうしたの、急に?」
「最近暇で」
言いながら、ビュウは何の遠慮もなく医務局に入ってくる。手を後ろに回して当たりをキョロキョロと見回すその様は、まるで他部署の視察にやってきた軍の重鎮そのものだが――ビュウという男はパフォーマンスではそんな事やらないし、キョロキョロと見回しているのも、単純に周囲を警戒する癖が抜けていないだけである。
戦場帰りというのは、色々な悪癖や傷を克服できない厄介な手合いだ。フレデリカ自身も、含めて。
「で、同じように暇な私の所に来た、と?」
「まぁ、そんなところ」
「手土産もなしで?」
診察机に頬杖を突き、やってくる彼を微笑で出迎える。ビュウはその言葉に――ニヤリと笑ったかと思ったら、後ろ手に隠していたワインの瓶を掲げてみせた。
「これでどう?」
「グラス、ないわよ?」
「カップで結構」
そんな言い草に、フレデリカはついに声を上げて笑ってしまった。
「まったく、貴方って……ホント、変わらないわねぇ」
合理的なんだか、デリカシーがないんだか。
肩を竦めたフレデリカは奥の戸棚へカップを二つ取りに行き、ビュウは適当な椅子を診察机の傍まで引き寄せて座り、瓶のコルクをさっさと抜く。
あの戦争から、五年。
フレデリカとビュウは、こうして時々一緒に酒を酌み交わしていた。
ビュウが持ってきたのは、酒保で扱っている安い赤ワインだった。天下の戦竜隊隊長、救国の将軍が他の兵士と同じ物を飲んでいていいのかしら。もっとも、そこはケチンボなビュウ、「飲めれば何でもいい」という理屈なのだろう。
「最近、暇なの?」
カップを傾けながら、不意にフレデリカは尋ねた。向かい合って座るビュウはククッと喉を鳴らして笑う。
「暇と言うか、つまらない」
「あら」
「将軍位に就いてから、すっかり現場から離れちまったからなー」
現場、というのは、
練兵場での訓練、だとか。
戦竜の世話、だとか。
領空内の哨戒飛行、だとか。
夜勤の当直任務、だとか。
「最近は専ら机仕事と会議ばっかりで。いやまぁ、俺得意だけどね、事務処理とか会議の根回しとか。得意だけど、面白いかっつーとそりゃまた別の話で」
「あら、まぁ」
「飽きたんだよなー」
と、診察机にゴツンと額をつけたかと思ったら、そのままはぁぁぁぁ、と実に辛気臭い溜め息を吐く。あらあらこれは重症かしら、ともう一口ワインを飲めば、
「――で、フレデリカは?」
意外とそうでもなかったらしい。パッと顔を上げて尋ねてくるビュウの顔は、先程まで愚痴をこぼしていた男のそれではなかった。
(何だかんだ言って、ストレスに強いのよね、ビュウは)
少し安心して、フレデリカは彼の言葉に答える。
「医務局(うち)はいつも通りよ。新人の教育期間が終わって一段落ついたけど、だからって使い物になっているわけじゃないし。その間にも訓練中に怪我をした騎士団とか戦竜隊の新兵たちが駆け込んでくるし。昼間はいつもてんてこ舞い」
「でも今は」
と、ビュウは医務局を見回す。
「誰もいないな」
「そりゃそうよ。夜だし、今日は休みだったんだもの。こんな日に夜勤に出てくるるのは、今じゃ私くらいなものになったわ」
「成程」
フレデリカの苦笑いに合わせるように、ビュウもまた、苦く笑った。
「あれから五年、か。色々変わるもんだな」
「そうね。私が入局した頃なんて、そんな甘い事言ってられなかったし」
フレデリカがカーナ宮廷魔道士団直下の医務局に入ったのは、今からもう十年以上も前の事である。
その頃はちょうどグランベロスが政変を経験したり対外侵略を始めたりと非常に忙しくて、半分武官の宮廷魔道士団も随分緊張を強いられたものだった。
入局当時、フレデリカ、十四歳。
十四歳の小娘が、そんな緊張感に満ち溢れた職場でそれこそ独楽鼠(こまねずみ)のようにクルクルと働いていたわけである。公休日は休む? 新人が何甘えてんだコラ! 戯言抜かす前に馬鹿な新兵どもの応急処置をおし! 新兵教育期間は怪我人増加期間、医務局はいつも殺人的な忙しさに見舞われる。忙殺されて殺気立つ先輩プリーストたちの様子を、フレデリカは今も恐怖と共に思い出すのだった。
そして今、自分が同じ立場に立てば、やはり忙殺されて殺気立つわけで――
それでも後輩たちが公休日に休むのを許してしまうのは、あの頃とは違い、世界情勢も国内情勢も全く緊迫していないからだった。
ビュウはふと、遠い目をしてしみじみと呟いた。
「時代は変わる、か……。俺たちもいい歳になったしな」
「そうね」
気が付けば、もう四捨五入をすれば三十路になる、そんな歳になってしまった。
「そういえば、バルクレイのとこに二人目が出来たってな」
「聞いたわ。今度こそ男の子だ、って意気込んでるらしいわね、彼」
「ラッシュの奴もようやく結婚する気になったらしいし」
「すごいプロポーズだったそうよ? 『お前みたいながさつなお喋り女、嫁に貰ってやるのは俺くらいなもんだ』って」
「で、大喧嘩っつーか一方的にギャンギャン言われて危うくフラれかけたんだろ? 馬鹿だよな、あいつも」
「三日後に土下座してきたんですって。それでようやくディアナも本気で考えたって」
「って事は、それまで本気に思われてなかったのか。あいつも女に関しちゃ奥手っつーか何つーか」
「……そういえば、エカテリーナが今どうしてるか、知ってる?」
「この間久しぶりにホーネットに会ったんだけどな、何かやたらと怯えてたぞ。うにうじが来る、うにうじが来る、って」
「……彼女のアプローチの仕方も変わってないのねー」
「ところで、聞いたか、この間の騎士団の喧嘩騒動。どうもレーヴェとフルンゼだったらしい」
「そうなの? 私、その日休みだったから、後で人から聞いたんだけど……どうしたの?」
「昔と同じだよ。フルンゼが彼女に振られて寝込んだら、レーヴェの方がランサー隊の新人とあのヤリヤリをやって、でそれを聞いたフルンゼがキレて――ってな感じだとさ」
「進歩がないわね、あの二人も。……あ、進歩がないと言えば、聞いた? ミストの話」
「相変わらず男漁りを続けてるって?」
「八股くらい掛けて修羅場になったって」
「前は確か五股だったっけ? 進歩がないっつーか、変な方向に前進してるっつーか……どっちにしろ、キャンベルの警察に迷惑を掛けるのはやめてもらいたいな、元カーナ軍人として」
「そうね」
と、笑って――
不意にフレデリカは、その笑みを引っ込めた。ビュウは、どこかに向けていた視線をこちらに戻してくる。
その視線に視線を合わせ、見つめ合って――フレデリカは少しだけ、寂しそうに笑った。
「皆……いつの間にか、いなくなっちゃったわね」
ビュウは。
吐息の後に、やはり少しだけ寂しそうに笑って、
「……そうだな」
と頷いた。
カーナがグランベロスに征服され、ビュウが中心となった反乱軍がカーナを解放して、戦争が終わって、五年――
あの頃の仲間で今もカーナ軍に残っているのは、ビュウとフレデリカの他にはヤリヤリコンビくらいなものか。
ラッシュたちビュウの舎弟トリオは戦争が終わってすぐに商人になると戦竜隊を辞め。
ミストはキャンベルへ療養に行ったままカーナには戻ってこず。
バルクレイとアナスタシアは、結婚を期に城下で店を構え。
エカテリーナはいつの頃からか行方不明に。
マテライトとセンダックが揃って引退したのはちょうどその頃で――
ディアナが宮廷魔道士団を辞し、故郷に帰ったのは、今から一年前だった。
フレデリカはカップに残っていたワインを飲み干すと、瓶に手を伸ばした。しかし無言のビュウに先に取られ、やはり無言でカップにトクトクと注がれる。
「なぁ、フレデリカ……」
コトリ、と瓶を診察机に置いて、ビュウはポツリと呟く。
「昔した話――覚えてるか?」
ギクリと、フレデリカは身じろぎする。
「……嫌だわ、ビュウ」
そうして、彼から少しだけ視線を逸らす。
「あの話は忘れて、って……そう言ったじゃない」
私は今、何とか笑えているだろうか?
震える声からは、それすらも判らない。
昔した話。
覚えている。忘れるはずがない。
五年前――オレルスの空が割けて、その向こうの異世界アルタイルで挑んだ最終決戦。その直前、フレデリカがビュウに言った言葉。
『この戦いが終わったら……私と一緒に、薬屋をやってくれない?』
それは、五年前のフレデリカが出来た、精一杯の告白で――プロポーズだった。
一目会ったその日から、恋の花咲く事もある――などという歌の歌詞ではないけれど。
つまるところ、フレデリカの場合はそれである。
まだグランベロスとの戦争が始まる前だから、十代の頃、それこそ今から十年以上も前の事だ。新人に毛が生えたプリーストだったフレデリカは、医務局に怪我をした新兵を連れてきたビュウを見て、嘘みたいに呆気なく恋に落ちた。
モノクロームの世界でその人だけ色鮮やかに光って見える、だとか、体を電撃が走る、だとか、そういった眉唾物の体験談を身を以って経験したわけである。
けれど戦竜隊である。カーナの花形部隊のエリートで、その上隊長にまで上り詰めたエリート中のエリートだ。医務局で失敗してばかりで、体が弱いからしょっちゅう倒れてばかりの自分みたいなみそっかすの駄目プリースト、相手にされるわけがない。そう思って、ずっと遠くから見ているだけだった。
そして、カーナの敗戦と、反乱軍の蜂起。
不謹慎な話だが、反乱軍に参加して初めて、フレデリカはこの恋が案外行けるのではないかと思い始めたのだ。何故なら、倒れるフレデリカをビュウは事あるごとに見舞ったのである。
そりゃもう、期待もするっての。
で、カーナを解放して、アルタイルに行って、ようやく――前述の台詞、というわけだ。
が、ここからがフレデリカの予測外だった。
その言葉を受け止めたビュウは。
腕を組み。
うつむいて。
時折頭を左右に振って。
ウンウンと唸って考え込んで。
そうして、五分くらいしたか。
『……ごめん、フレデリカ』
『え……――』
『考えてみたんだけど……駄目だ』
あっさりとフラれた。
泣きたかった。
ディアナにでも付き合ってもらって朝まで自棄酒したかった。
――が。
『そ……そう。うん、判ったわ。ごめんなさい、急に変な事言って。あの、今のは忘れてね』
と取り繕うしかないじゃないの!
だってあの時戦争中だったし! 朝まで自棄酒!? それこそケチンボ会計が怒鳴り込んでくるわよ! おまけに個室じゃないんだもの、大声で泣く事だって出来やしない! 筒抜けだから愚痴も言えないし!
……というわけで、結局この件でディアナに自棄酒に付き合ってもらったのは全部が終わった後で、それも一番のショックが通り過ぎた後だったから、何だか消化不良気味の事後報告的な愚痴になってしまったのである。
それでも、ちょっとだけ泣いてしまったけれど。
でも、あれから五年近くが経って、改めて思うのだが。
そりゃ、駄目でしょ。
「一緒に薬屋やりませんか」って、どんな告白よ。どんなプロポーズよ。単に共同経営者に誘ってるだけじゃない。そりゃ「駄目」って言われるわよ。相手に言葉の裏側の更に奥底の方に潜んでる気持ちに気付いて、なんてろくにアプローチもしてない奴が言う台詞じゃないわよ。
フラれて当然。むしろあの時の自分を張り倒して説教してやりたいくらいだ。
そうやって、フレデリカの恋は終わった――
はずなのに。
ビュウは今でも時折、フレデリカの元を訪れては愚痴とも雑談とも取れない話をしていき。
その度にフレデリカは笑ったり、親身になって聞いてやったり――
自覚したり、するのだ。
――私、やっぱりまだこの人の事好きだ。
フラれようと断られようと、やはり今でも、モノクロームの世界にビュウだけが色鮮やかに見える。
彼の声を聞く度に胸が高鳴る。
彼の笑顔を見る度に恥ずかしいくらいに頬が熱くなる。
姿が見えないと何となく寂しくて、ついついどこかにいないかと視線を彷徨わせてしまう。
こういう、一人きりで少し怖い夜には顔を見に来てくれて、その度にホッとしている。
けれど――
(それも、もう終わらせなきゃね)
実らない恋をいつまでも後生大事に抱えていても、不毛なだけだ。
若い頃はそれでも良かったけれど、今のフレデリカはもう、若いとは言えない。
だから、
断ち切ろう。
「あのね、ビュウ」
「……?」
「私ね、お見合いするの」
「え――」
「親がね、いい加減結婚しろってうるさいの。ほら、私ももうすぐ三十でしょ? さすがにそろそろ体面悪くなってきたしね、だから……お見合いして、もしいい人だったら……――結婚するわ」
結婚。
その単語を口にして、改めて、自分が話している事を現実として受け止める。
結婚、するのだ。ビュウでない人と。
結婚するならこの人だ、とずっと心に決めていた、その人ではない人と――
「この間、釣書を見たの。凄いのよ、その人。年収五十万ピロー。いくつかお店を持ってるみたいで、私が薬屋をやりたいって話を聞いて、是非とも一緒に経営したい、ですって」
笑いながら、話す。クスクスクスクス、とてもとても嬉しそうに。楽しそうに。
あぁでもちっとも嬉しくないし楽しくない。
でも本心を笑顔で塗り固めて隠し。
フレデリカはやっと、ビュウに視線を戻し、
「次の休みにその人と会うわ。ちょっと楽しみ。ねぇビュウ、上手く行くと思う――」
絶句した。
眼前の、ビュウは。
目を見開き。
口をポカンと開け。
信じられないとばかりに表情を強張らせ。
挙げ句の果てに少し青ざめていた。
唖然。呆然。愕然。慄然。
どれにも当てはまるその姿に、フレデリカもまた愕然とする。
(何で――)
何でこんな表情をするのだ?
ビュウが。
五年前にフレデリカをフッたはずの、ビュウが、
何でショックを受けている?
彼は、しばし喘ぐように口をパクパクさせ、苦しげな表情で考え込み、うつむき、
「あ、あの、えと、その……フ、フレデリカ?」
ようやく発した声が滑稽なほどに震えている。だが、それを受けるフレデリカも、
「な、なな、何?」
動揺が伝染していて、やはり声が震えている。
「み、み、み、見、合い?」
「え、ええ」
「で、あー、その、もし良かったら……け、結婚?」
「え、ええ」
何か、おかしい。
尋常でない。
何か間違えている。致命的な間違いを犯している。ここで選択を誤ったら全てが終わってしまう、それほどまでにとんでもない間違いを――
それは、何?
「ち、ちょっと待て」
顔を上げるビュウ。ダラダラと冷や汗なんだか脂汗なんだかを掻いている彼は、これまで見た事がないくらいにうろたえていた。
そして、続く言葉は、
「え、何これ? 俺フラれた? 五年も待たせたからフラれた!?」
「………………………………………………え?」
「忘れても何も、俺五年前からずっとその気だったんだぞ? だからちょっと無理して頑張って開業資金も結婚資金も貯めて貯めて貯めて――」
「え? え? ち、ちょっと待って、ちょっと待ってビュウ! そ、それって一体何の――」
「何の!? そんなの決まってんだろフレデリカ!」
そう言って、ビュウは。
一旦言葉を切って、息を吸うと、
「五年前のプロポーズの話だろ!?」
§
ビュウさん、かく語る。
『この戦いが終わったら……私と一緒に、薬屋をやってくれない?』
この言葉の以前から、ビュウはフレデリカが好きだった。
きっかけなんて、そんな野暮なものは覚えていない。いつの間にか好きで、だからカーナの敗戦の時には彼女を助けて一緒に逃げたのだし、蜂起してからも、事あるごとに彼女を見舞った。多忙だったからその時間をひねり出すのもかなりアクロバティックだったのだが。
が、恋愛レベル1のビュウはそこから先をどう進めていいかが判らなかった。某王女殿下に相談してみたら「さっさと押し倒しちゃえば?」とこれである。王女殿下は基本的に愉快犯、当てになるはずもない。あてにならない人物に相談を持ちかけてしまうくらい、彼の恋愛経験値は足りていなかった。
そんな時に、件の発言が来た。
最初ビュウは、共同経営を持ちかけられているのかと思った。
何せ天下の反乱軍の財布番、経済観念が軍人とは思えないくらいに染みついている。それを見込まれてヘッドハンティングされているのではないか、と思うのはある意味当然だ。
が、ここから彼の思考は妙な方向を辿る。
(え、でも共同経営って……男と女が? 財布を一つにして共有するって事は……――え? もしかしてこれってプロポーズ!?)
通常だったら張り倒されるような勘違いだが、この場合正解だったのだから、偶然というものは実に恐ろしい。
が、この直後、反乱軍会計としての本能が頭をもたげた。
(――で、開業資金と結婚資金ってどれくらいいるんだ?)
実のところ、ビュウはこの時、敗戦以前よりも貧乏だった。
理由は簡単だ。グランベロスは占領時、残党の貯金を没収していたのだ。名目は逃走資金源を断つためだが、一枚岩ではない組織の事、横領だとか着服だとかも多分にあっただろう――が、それはさておき。
そんなわけでビュウは貧乏だった。悲しいくらいに貧乏だった。反乱軍という、それなりに資金があって衣食住が保証されている組織に依っていなかったら、とっくの昔に餓死していたくらいに。
悲しいくらいに貧乏で、悲しいくらいに経済観念が染みついているビュウ。そんな彼の脳裏に蘇るのは、彼の両親の悲しいエピソードだった。
彼の両親もまた、かつて貧乏だった。どれくらい貧乏かといえば、
結婚するのに、金がなくて結婚式を挙げられないほどに、である。
そう、結婚式は金食い虫なのだ。式場を借りるにも、衣装を借りるにも、披露宴を行なうにも、客を招待し、ご馳走を提供するにも、全てにとにかく金が掛かる。
そしてカーナという国では、結婚するのに式を挙げないのはあり得ないくらいに非常識で、挙げられなければその理由を散々勘繰られた挙げ句に「実は不倫駆け落ちカップルで、二重結婚になるから挙げなかったんだ」と思われても仕方がないのである。だから貧乏なカップルのために格安結婚式プランがどこにでも転がっているのだが、当時のビュウは、それすら選べないほどに貧乏だった。
加えて、薬屋。
結婚資金に加えて、開業資金まで必要。
だからビュウは散々悩んで悩んで考えて考えてひたすら考えて考えて――結論を出した。
『……ごめん、フレデリカ。考えてみたんだけど……駄目だ、今は』
まずは、カーナをしっかり再興させて。
そして、戦竜隊隊長としての自分の収入源をしっかり確立させて。
節約してお金を貯めて、それなりに立派な結婚式を挙げて、でもってしっかりした薬屋を開いて。
考える時間、僅か五分。
その間にビュウは、先々の人生のプランと、そういう人生を歩む事についての覚悟をあっさりと決めてしまったのだった。
§
「何よそれぇぇぇぇぇぇぇっ!」
フレデリカの絶叫が響き渡る。前に座るビュウがビクリと身を竦ませるのも構わず、ワナワナと震えながらガタリと椅子を立ち、
「何よ、何よそれ……それじゃあ、それじゃあ――」
単純な話である。
フレデリカは、「駄目だ」という単語の否定的なニュアンスに囚われ、フラれたと早合点してしまったわけだ。そのショックの余り、その後に続いた言葉を聞き逃し、フラれた事を前提とした「忘れて」発言をしたのである。
そして一方のビュウも、五分で決めた人生プランを思い返し、穴がないかどうか確認していたので、「忘れて」発言を聞き逃し――
何だこのうっかりミスの連鎖は!?
「っ……ビュウの馬鹿ぁっ!」
「ぅおっ!?」
目の前にいるビュウを握り拳でポカポカと叩き出す。
「そんな言い方で解るわけないじゃない! もっとちゃんとはっきり解るように言ってよ!」
こちらの拳をパシパシとそつなく受け止めながら、ビュウはしどろもどろに弁解を始める。
「いやだって、俺だって頭ん中いっぱいいっぱいで――」
「そんなの知らないわよ馬鹿ぁっ! 私の五年間返してよっ!」
「えぇー!? じゃあ何か!? 俺はさっさと押し倒しておいた方が良かったのか!?」
押し倒して。
それが意味する事をすぐに理解し――フレデリカは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「そういう問題じゃないわよぉっ!」
「じゃあ何なんだよ!」
「だからもっと解りやすく言って――」
パシッ。
振り下ろした拳が、ビュウに受け止められて。
瞬間、沈黙が下りる。
ビュウの表情は変わっていた。きょとんと、というか、目が覚めた、というか、とにかくそんな、何か目の前の事態の急変に驚きながらも茫洋と受け止めるというか――憑き物の落ちたような表情で、彼はフレデリカを見上げていたのだ。
「つまり……」
その唇が、動く。
「プロポーズしろ、と?」
「う……」
言われてフレデリカは言葉を詰まらせる。
女からプロポーズする、というのも、カーナの常識からすれば中々どうして型破りだが――
プロポーズを催促するのも、かなり型破りだ。
顔があっという間に熱くなる。今更ながらに恥ずかしくなって、彼女はどもりながらも言った。
「あ、あの、べ別にそんな、そこまで――」
と、受け止められた拳を引っ込めようとし――
引っ込められない。
ビュウが、やんわりと掴んでいた。拳から、手首を。
彼はほんの少しげんなりした表情を見せると、ボソボソとぼやく。
「お互いにプロポーズしあう、ねぇ……。まぁ、俺も五年もそれらしい事をろくにしてこなかったわけだし? 正直先にプロポーズされて男としてそれどうよって思ってたわけだし? 今までの負債を支払うと思えば、まぁ、いいのかな」
そういう事を本人の目の前でわざわざ口にするから、
(デリカシーがない、って言うのよ)
だが、そんな男に惚れてしまったのはこちらなわけで。
「というわけで、フレデリカ」
ビュウは、改めて表情を真剣なものにすると、
「俺の現在の貯金は一千万飛んで五十二ピロー。年収はどうにかこうにか三十万ピローで、……まぁ、その見合いの男に比べりゃ少ないけど、でも俺はまだ戦竜隊隊長だし、カーナ軍の将軍だし、何となれば釣書にヨヨの推薦状を添えてご両親に提出してもいい」
だから、
「だから、そんな会った事もない男じゃなくて、俺にしとかないか?」
あぁ、もう――
何だかもう色々とおかしくなってしまって、フレデリカはクスクスと笑い始めてしまった。
「……何よぉ、それ。それで、プロポーズのつもり?」
するとビュウは、少し決まり悪そうに視線を逸らして、
「いや、まぁ……うん、ごめん」
「こういう時くらい、『好きだ』とか『愛してる』とか、言ってくれてもいいんじゃない?」
「あ……忘れてた」
「わー、酷い」
クスクスケタケタ。笑いながら、フレデリカもまた気付く。
考えてみれば、自分もまた、「好きよ」も「愛してるわ」も言っていないのだ。
それさえ言っていれば、五年もすれ違いにかけ違いを続ける事はなかっただろうに。
おかしすぎて笑いが止まらない。
笑いすぎて涙が出てくる。
クスクス笑ったまま、フレデリカは両手を伸ばし、ビュウの顔を包んでグイッとこちらを向かせた。そして鼻先が触れ合うくらいに顔を近付けて、
「大好きよ、ビュウ」
目をまん丸にして五年目の告白をされたビュウは。
不意にニカリと笑うと、手を伸ばして、フレデリカの目尻の涙を拭い、
「俺も、好きだよ、フレデリカ」
朝になったら、実家に顔を出して、見合いの話を断らないと。
ビュウと抱き合うフレデリカの胸に、どうでも良くなった話がポッカリと浮かんで、そしてすぐに沈んでいった。
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