――そうして「彼」は目を覚ました。
机で、突っ伏してい寝ていたようだった。ほんの一瞬の事だったと推測する。握ったペンの先のインクは、まだ乾いていない。
「――……う……」
呻いて、「彼」は机の上から上体を起こす。その拍子に背筋がバキリと鳴った。何か突っ張ったような痛みがある。そして、両肩には異様な重さ。目はショボショボし、頭の後ろの方に締めつけられる痛みもあった。
そして、恐ろしいほどの体の重さと眠気。
「な……んだ、こりゃ」
声に出した。たどたどしく、少ししわがれた声。それよりも声がきちんと出せた事に「彼」は安堵する。
それにしても、
「何だ、こりゃ」
同じ事を二度呟いたのは、机上の紙の山を見たからだった。左手のペンを捨て、右手でその内の一枚を取り上げる。
小難しい文章、小難しい専門用語(多分)、小難しい数字。小難しい事のオンパレードだ。
見ているだけで、ただでさえ痛い頭が余計に痛くなってくる。「彼」は紙を放り捨てた。何だこりゃ、阿呆らしい。
「――馬鹿みてぇ」
改めて部屋を見回せば、これがまた酷い。本と紙の山、山、山。何だこれ、どこの文官の部屋だ? 見ているだけで頭痛が余計に酷くなる。「彼」は本とかは苦手なのだ。
いっそ全部燃やすか、フレイムヒットで。だが、いや、と「彼」は思い直す。いくら何でもそりゃまずいか、何と言うかこう、世間体的に。
なら代わりに、
「――あいつら、叩きのめしてみるか」
訓練の名目で。彼の記憶の、比較的取り出しやすいところにいる三人の舎弟――名前もそのまま取り出せるが、それはいいか、そんな興味ねぇし――は最近どうも青臭い袋小路にはまり込んだらしく、何か調子づいている。ここらで一発分殴って目を覚まさせてやった方がいいか、「俺」の精神衛生面のために。
ウダウダ考えるのは「彼」の性に合わない。決断即実行だ。細かい事考えずに直感で動きゃあいいんだよ、と「彼」が部屋を出ようとした時、
――コンコン。
ノックされた。
苦労して本と紙の山を掻き分ける。崩れる。連鎖する。そして扉までの道が出来る。ワンダフル。「彼」は戸を開けた。
そこには、
「あの、ビュウ」
淡い金髪を三つ編みにした娘が一人。
彼女は、戸惑いと憂いの混じる顔をしていた。納得していない、承知していない、不本意だ、そう言いたげな表情だ。彷徨い、決して「彼」の顔に向けられない目には、怯えにも似た、今にもここから逃げ出していってしまいそうな色がある。
「その……ヨヨ様が、お部屋に来てほしい、って」
ヨヨ。
彼の主君。
――ああ、あいつか。
ちょうどいい。
俺も、会いたかった。
「分かった」
「――あの、ビュウ?」
戸口から滑り出て、奥の貴賓室に足を向けた「彼」を、娘が呼び止める。
「書類は?」
さっきとは違って、心底不思議そうな顔。その方がさっきよりずっと可愛い。笑えば、きっともっと魅力的なのだろう。
そう出来ていないのは、つまるところ彼のせいで、
(馬鹿だな、お前も)
「必要ない」
それだけ短く言って、「彼」は貴賓室へと向かった。
距離は、それほどない。
彼の部屋から、歩数にしておおよそ二十歩というところ。時間にすれば十秒足らず。大股で歩けばあっという間に到着だ。
扉の前に立つ。
ノックを二回。
返事がない。
ノブに手をかけた。
回る。
鍵は、かかっていない。
「……失礼、します」
申し訳程度の声でそう宣言し、入った。
「彼」をまず出迎えたのは花の香りだった。この広い部屋が殺風景にならないように、という配慮だろう。入って左側に置かれたテーブルの上に花が生けてある。その匂いだ。
が、その中に混じって微かな薬臭さを感じた。それが、ここは病人の部屋なのだと盛大に主張している。
足音を忍ばせ、奥へと進む。
奥のベッドで、彼女は眠っていた。
ヨヨ。彼の主。
(……人を呼びつけといて、寝てやがんのか)
枕元に立つ。
仰向けに寝ているから、顔がよく見える。酷いやつれようだ。頬はこけ、肌の色はくすみ、髪は艶を失って、目の下には濃い隈が出来ている。半開きの唇はカサついていて、その隙間から漏れ聞こえる呼吸の音は不安になるほど不規則で頼りない。
このまま放っておいたら、眠ったまま死ぬのではないか。
――放っておいても、死ぬ。
(……つまんねぇな、それじゃ)
「彼」は手を伸ばす。
ヨヨの、喉元へ―――――――
「――――――――貴方は、一体誰?」
「彼」は弾かれたように手を引っ込めた。
伸ばした手の下、カーナのただ一人の王女はカッと目を見開くと、そのエメラルドの双眸に爛々とした敵意の炎を燃やし、「彼」を見上げ睨みつけたのだ。
驚いた。
純粋に、驚いた。
そして戦慄した。
この王女は、気付いている。
「……起きてたのか、趣味悪ぃな」
「女の寝込みを襲おうとする貴方ほどではないわ」
苛烈な口ぶりで起き上がるヨヨ。やつれきった顔なのに、その目だけは「彼」さえ怯ませるほどの生気に満ち溢れている。
「もう一度聞くわ。貴方は、誰?」
傍から見れば滑稽で、そして場合によっては王女の正気を疑わなければならない深刻な場面だ。
自他共に認める無二の腹心に対し、「誰?」と来たのだ。
だが、「彼」は笑う。
普段の彼が余り見せない、面白い事を見つけた子供のような屈託のない笑顔で。そしてこの状況を楽しみ、面白がる口ぶりで、
「何で、分かった?」
「……彼はね」
と、怒りの混じる鋭い語気で、ヨヨ。
「わたしの返事がないまま部屋に入る、なんて真似は絶対に、何があってもしないのよ。私が寝ていたら起きるまでノックし続ける、それが私のビュウよ」
「――あー、そういえばそうだったか」
明るい苦笑と共に「彼」は天井を仰いだ。記憶を探れば、確かにそうだ。そうする、いやそうせざるを得ない理由も芋づる式に引っ張り出せる。
「これが最後よ。――貴方は誰?」
「薄々感づいてんじゃねぇの、王女様?」
逆に問えば、果たして、ヨヨは押し黙った。しかし僅かな間のあと、
「――……確信は、ないわ」
「ならあとでこいつに聞いてくれ。俺が言うよりそっちの方が納得できるだろ」
「彼は自覚しているの? 貴方の存在を」
「さあ」
ヨヨは顔をしかめた。殺意さえこもった眼差しを投げてくる。
しかし睨まれたところで答えに変わりはないのだ。記憶の大部分は読み解けるが、あくまで「大部分」――心の全てではないのだから。
彼女もこれ以上問うても無駄と思ったのだろう。質問を変える。
「私に何の用?」
「俺を呼んだのはお前だろ、王女様?」
「貴方を呼んだ覚えはないわ」
「そりゃごもっとも」
と道化た仕草で肩を竦め、
「――見たかっただけさ」
「……え?」
「こいつの人生を狂わせた女がどれほどのものか、をな」
ヨヨの表情がますます険しくなる。「彼」は笑みを深めた。
――ああ、結構いい女じゃねぇか。
「女」として惚れるのはどうしようもないほどに面倒で厄介だが、それでも、忠誠を誓うに値する女。今の言葉を「自分が揶揄された」ではなく「臣下を馬鹿にされた」と正しく捉え、それに怒りを覚えられる。
――こいつが損得や色んな事情抜きで忠誠を誓うのも、解るわ。
「彼」は笑う。
記憶としては、知っていた。
それだけだった。
だから見たかった。ヨヨ=フィアレ=ル=カーナ。それがどれほどの女なのか。
しかし機がなかった。
いつも「彼」は眠っている。時々起きるが、それはほんの僅かな時間。まどろみにも満たない覚醒だ。ここ最近、目覚めて体の主導権を手にする事が増えたけれど、それでもその時間は多くないし、ヨヨとまみえられる状況でもなかった。
だが、今日、
『――あー、もう誰か替わってー』
彼のそんな泣き言が、奥底で眠っていた「彼」の魂を揺り起こした。「表」へ出る機を与えた。
そして「彼」は今、こうしてヨヨと対峙している。
「――感想は?」
「そうだな――」
あんたで良かったよ。
そう答えようとした、その時、
「彼」は不意に抗いがたいほどの眠気を得た。
(…………!?)
ギョッとし、それから納得する。
彼から「彼」に変わったところで、体の疲労は取れない。単純明快な話だ。
そして、この眠気に捕まったからには、もうこの体の主導権を手放さないといけない。
顔色を変え、ふらつき始めた「彼」にヨヨは怪訝そうな眼差しを注ぐ。底の方から自分を引きずり下ろそうとする眠気に抗って、「彼」はヨヨに告げた。
「……王女、様」
「……?」
「たまには……こいつを、休ませて、やれよ」
体が、崩れる、その直前、
「でねぇと――こいつ、過労死、するぜ」
ああ、らしくねぇ事言ってる。
でも、まあ、しょうがねぇか。
(だって、俺は……お前、の……――なんだ、から……)
「彼」は、何もかも手放し、
§
――ゴンッ。
「――だわっ!? だっ!? あだっ――あ、あれ? ここ、どこ? 何で俺……あ、ヨヨ? え? あれ、俺、部屋にいたはずじゃ……――」
体を傾がせ、崩れ落ち、そのまま床に激突したビュウは、涙目で覚醒して錯乱気味にまくし立ててからようやく冷静に戻った。
床に座り込んで、打った頭を押さえて挙動不審に辺りを見回すその姿に、
(……いつもの、ビュウ?)
「ビュウ、貴方――」
「ヨヨ、俺どうして……――はっ! まさかヨヨ、俺に何かしたのか!? したんだな! あのなお前、いくら寝てばかりで暇だからってな、俺を使って遊ぶのやめろよな!」
記憶が、ない。
彼の言葉から察するに――おそらく、部屋を出てここに来て、ヨヨと会話した、ほんの何分かの記憶が。
(自覚が、ないの?)
身の内に、己とは違う「何者」かを飼っている、という自覚が。
同情とも戦慄とも呼べない奇妙な気持ちに襲われたヨヨへ、ビュウは怪訝そうな顔を向けてくる。
「……ヨヨ? どうしたんだ?」
こちらの様子を心配している声。しかし、――心配されるのは、彼の方だ。
どうせまた徹夜したのだろう。酷い顔をしている。
「――……ビュウ、貴方」
『こいつを、休ませて、やれよ』
「もういいから、部屋に戻って休みなさい」
「え?」
「明日の夜まで休暇をあげるわ。緊急事態になっても呼ばないから、そのつもりでしっかり体を休める事」
「っておいヨヨ――」
「ここまでしっかり歩いてきたのにその記憶をすっ飛ばしている人に拒否権はないわ。さあ、さっさと部屋に戻って寝なさい!」
§
……という主の命令を受けて部屋に戻ったら、
「何じゃこりゃあ!?」
とんでもない事になっていて、結局その片付けで一日半の休暇は丸々潰れてしまったのだった。
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