かつて――
その事実が知らされた時、彼がただ一人の主君と仰ぐ姫は、あくまで無表情だった。
だが、片方の眉をピクリと跳ね上げたのは、明らかな不機嫌の証だった。
『――私が』
窓辺に置いた椅子。肘掛けに頬杖を突き、足を組み、姫は窓の外を眺めていた。天気は小糠雨。銀色に光る空の下、庭園の緑があるかなしかの雨に濡れてヌラヌラと輝いている。
その、美しくも鬱々とした光景を半眼で見つめる姫の唇から、淡々とした声が漏れ出た。
『私が、何を望んでいるか……――言わなくても、解るわね?』
彼は答えない。ただ、その先を待つ。
冷厳な、神託にも等しい主命を。
姫は、顔を窓の外に向けたまま、チラリと流し目を寄越し、
『――行きなさい』
そして、彼の長い使命が始まった――
§
はぁ、と溜め息を吐く回数が、ここのところ多くなった。
今までは考えられなかった事である――思いながら、再びはぁ、と溜め息を一つ。意識的にしろ無意識的にしろ、ラッシュのこれまでの人生に溜め息の出る幕は余りに少なかった。
だから初めてだった。頭の中でいつまでも悩ましい事をウジウジと考え続け、結論が出ず、それが胸に澱んで、溜め息となって出ていく、なんて。
そうしている内に、もう一つ、溜め息。ああ、俺、何か馬鹿かも。兄貴分に言わせれば、「何を今更」だろう――大きなお世話だ。ケッと舌打ちをしたかったが、口から出るのは溜め息だけだった。
やっぱり、馬鹿なのかもしれない。
ビュウはあれほど平然としているのに、自分がこれほど動揺し、思い悩むなんて。ヨヨとの関係の深さ、付き合いの長さを考えて、溜め息を吐き、思い悩むのは本来ならビュウだった。
パルパレオスの登場が、彼から立ち位置を奪っていったのだから。
聞けば、ヨヨはグランベロスに捕らえられていた頃から、パルパレオスが好きだったという。そしてパルパレオスの方もそうで――ヨヨを慕っていたこちらとしては、いい面の皮だ。
そう。
ラッシュも、ヨヨの事が少し好きで。
ビュウみたいになれるとは思っていなかったけど、でも、自分なりにヨヨを守っていきたい、と思っていて。
だが、ヨヨが本当に必要としていたのはビュウやラッシュではなくパルパレオスで――
(何で、よりによってパルパレオスなんだよ……)
また、溜め息が出る。
パルパレオスだ。敵将だった男だ。騎士道物語の悲劇ならともかく、現実の世界にそんな話は要らない。
せめてビュウならば、まだ気持ちの落ち着きどころがあったのに。
複雑だ。
悩ましい。
更に悩ましい事に、パルパレオスはヨヨと一緒にいて――
(どんな顔してりゃいいんだよ)
はあぁ、と深い溜め息を吐いて、
「そんな隅っこで、何溜め息吐いてんだ?」
「だわぁっ!?」
唐突な声に飛び上がるラッシュ。バクバクと早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、振り返る。
果たして、そこに立っていたのは、
「――ビュウ」
「何か色々悩みがありそうな顔してるが、通行の邪魔だから、悶々とするなら艦橋じゃなくておとなしくベッドにでも行け」
「や、別にそういう悩みじゃなくて……」
ビュウは訝しげな顔で首を傾げた。
「じゃ、どんな悩みだ」
「それは……」
口ごもりながら、再び壁と向き合うラッシュ。艦長室に届けるらしい書類を片手に、ビュウの表情が呆れたような渋い面になる。
「それは?」
「えと、その……姫様の、事で……」
「やっぱベッドの話じゃねぇか。今日はもういいからさっさと寝ろ。んでもってクルーから新品のエロ本でも買って読め」
「だからそういうんじゃなくて!」
大声を出した直後、ラッシュは突き刺すような鋭い気配を感じた。操舵輪を握るホーネットだった。すんませんでした、と頭を下げれば、航空士は怒りの混じった目のまま、顔をこちらから外した。
「……姫様と、パルパレオスの事、なんだけどさ」
「あの二人がどうかしたか?」
ビュウは平然としていた。
演技でも何でもなく、素のまま、まるで平気な様子で首を傾げていた。
だからラッシュは目を丸くして、
「あんた、何とも思わないのか?」
「何とも? ――ああ、パルパレオスの奴に嫉妬とか、そういう話か? 阿呆らしい。俺はむしろ、あいつに同情するね。ヨヨは扱いを少しでも間違えたら取り返しがつかない、とんでもなく面倒な女だし」
そう語るビュウは、やはり演技でも何でもなく、普段通りで。
「……何だ」
ラッシュは、肩を落とす。
「俺が、子供なだけか」
すると、ビュウの苦笑する声が漏れた。彼はジト目で兄貴分を見やって、
「ああ、悪い。別にお前を馬鹿にしたわけじゃないんだが」
ニヤニヤ笑いながら言っても説得力がない。
そんなこちらの気持ちが目で伝わったか、ビュウは苦笑と共に肩を竦めた。
「ラッシュ、お前の気持ちも解るさ。俺だって、パルパレオスが入ってきた事に何か思わないわけじゃない。それをあっさりと受け入れたヨヨに、何か言ってやりたい気持ちもある。
ただ、それ以上に……少なくとも今は、ヨヨにはあの野郎が必要で、俺はそっちの方を汲んでやるべきだと思うんだ」
だから今は、放っておいてやる。
そう言って吐息するビュウの苦笑は、諦めたような、悟ったような、道理の解った大人のそれだ。
――ああ、俺は、
ラッシュは、思う。
――やっぱり、ガキだ。
「……あんた、凄いな」
「そうか?」
そうさ、と頷くラッシュ。へへっ、と自嘲気味に笑って、
「俺なんか、そんな風に思えねぇ。だって、俺の戦う理由は姫様だったし、それは今も変わらねぇし」
「それは俺も同じだぞ?」
「でもよぉ、ビュウ」
自虐的になっていたから、だろう。
何だか自分を笑ってほしくて、ラッシュは「それ」を上着のポケットから取り出した。
カーナにいた頃、偶然手に入れ、ずっとお守りにしていた。こんな物を、だ。他の奴に知られたら、きっと馬鹿にされる――そう思って、ビュウはおろか、トゥルースにもビッケバッケにも内緒にしてきた。
「こんなの、後生大事に持ってんだぜ?」
と、それをビュウの眼前にチラつかせるように振って見せて、
――その瞬間。
ビュウは一瞬の内に顔色を変えた。
ギラリ、と危険な色に輝く彼の双眸――
おや、と思った時には腹を重い衝撃が襲って、
「がっ……!?」
ラッシュは、昏倒した。
§
弟分の腹に叩き込んだ拳を目にも止まらぬ速さで引き、同時に、彼が手にしていた「それ」をサッと奪い取る。
クタリと崩れ落ちたラッシュの体を支え、「おい、おい!」と呼びかける。操舵輪を握るホーネット対策だ。もちろん、その程度で目を覚ますほど弱く打ったつもりはない。ああそうだ、部屋に連れてかなくっちゃー! 空々しく棒読みで呟いて肩に担ぎ上げながら、ビュウはソッと冷や汗を拭った。
そう、冷や汗。
まさか、という思いが強かった。まさか、こんなところで。
手の中の「それ」に目を落とす。
(まさか、こんなところで見つけるなんて……)
ラッシュが所有者と知っていれば、もっと他にやりようがあった。だが余りにも突然すぎて、なりふりを構う余裕もなかった。
何という無様だ。
(……っつーか)
ビュウは、手の中の「これ」に目を落とす。それから、肩に担いだラッシュに目をやる。
(何でこんなモンをお守りにするんだ、どいつもこいつも……)
こういう時は他人事のように思う。思い知らされる。
男って生き物は……本当に、どうしようもなく、馬鹿なのかもしれない。
そりゃヨヨも、怒髪天を衝いて回収しろと俺に言うわな。
かつて流出した「それ」の内、ビュウが回収したのはこれで五つ目。
おそらく回収任務はまだ続くのだろう――ビュウの口から、自然と重い溜め息が漏れた。
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