こじんまりとした白壁の屋敷。
 季節ごとに様々な花が咲き乱れる庭。
 冬には赤々とした火が燃える暖炉の前。
 風にそよぐレースのカーテン。
 料理長の作る焼き菓子の甘い香り。
 執事が磨き上げた銀食器の輝き。
 侍女たちの楽しいお喋り。
 先生が教えてくれた面白い歴史の物語。
 守り役の大きな声。
 フカフカのベッド。
 真っ白いシーツ。
 ベッドの側に座る乳母の、絵本を読む声。
 それがヨヨの世界の全てだった。
 小さな小さなヨヨの楽園を作る全てだった。


『姫様は本当に、陛下の御子なのかしら?』
 ――ピシリ、という音がする。


 守り役のじいやが、ヨヨは大好きだった。
 たまにしか来てくれない守り役。本当は「じいや」という歳ではないけれど、守り役は自分をじいやと呼ばせたがった。ヨヨもそう呼んだ。
 でも一度だけ違う呼び方をした事があった。姫様、わしをそう呼んではなりません。守り役は悲しい顔をしていた。だからヨヨは二度とそう呼ばなかった。
 本当は、ずっとそう呼んでいたかったのだけれど。
 守り役が好きだった。大好きだった。ずっと一緒にいて、遊んで、ご飯を食べて、夜には絵本を呼んで貰って、でも眠れなくて、「さあヨヨ、いい子だからもう寝なさい。おやすみ」――だがそれは望んではいけなかった。守り役にはお城でお仕事がある。
 それに、本当の家族がいる。
 ヨヨではない本当の家族が。
「……ねぇ、マテじいや」
「何ですかな、姫様?」
 今日、守り役の持ってきてくれたお土産は絵本だった。屋敷にある絵本は全て読んでしまって、ヨヨは前に新しい絵本を守り役にせがんでいた。守り役はその約束を覚えていてくれた。その絵本をギュッと胸に抱き締めて、ヨヨは、ずんぐりむっくりとした守り役を見上げる。
「あのね、私ね……」
 ――じいやに、お父様になってほしい。
 ――じいやの子供になりたい。
 守り役は笑っている。どうされましたか、首を傾げる守り役の笑顔は温かい。
 その笑顔が好きだった。
 守り役の悲しい顔は嫌いだった。
 だから、
「――マテじいやの事、大好きよ」
 守り役は、顔をクシャクシャにして笑みを深めた。
「じいめも、姫様の事が大好きですぞ」


『そもそも、姫様の本当のお母上はどなたなのかしら?』
 ――ピシリ、ピシ、ピシ。甲高く不吉な音が広がっていく。


 絵本を読む乳母の声が、終わった。
 めでたしめでたし。サイドテーブルに置かれた燭台の灯りに照らされた乳母は、微笑みと共に絵本を閉じる。しかし、目をパッチリと開けているヨヨを見て、仕方ないと苦笑した。
「さあ姫様、もうおやすみの時間ですよ」
「……もっとお話して」
「良い子ですから、お話は明日にしましょう?」
「あと一つだけ。お願い、ばあや」
 乳母は、ばあやと呼ぶには若かった。だが守り役と同様、ばあやと呼ばれたがった。本当はそんな風に呼びたくはなかったのだけれど、ばあやと呼ぶしかなかった。
 乳母は少しの間黙っていた。ヨヨはベッドの中からそれをジッと見上げていた。
 根負けしたのは、乳母だった。
「……どんなお話がよろしいんですか? 違う絵本を持ってまいりましょうか?」
「ううん。絵本はもういいわ。あのね、ばあや……」
 はい、何ですか? 少し顔を近付けてくる乳母に、ヨヨは問うた。
「ばあやは、私のお父様がどんな方か、知ってる?」
 乳母の顔が、少し強張った。
「ばあや?」
「――もちろん、知っております。とてもご立派な方で、王都のお城にてたくさんの民と臣に囲まれ、この国を治めてらっしゃいます。マテお兄様――マテじいやも姫様のお父上、国王様にお仕えするたくさんの騎士の一人なのですよ」
「じゃあ、お母様はどんな方?」
「姫様の、お母上は……」
 乳母の目が、泳ぐ。
「その……とてもとても、お美しい方で」
 その視線は、ヨヨに向けられず、
「――そう、姫様にとてもよく似ておられました」
 まるで取ってつけたような言い方で、
「ですが、その……姫様がお生まれになった時に、ええ、その……亡くなられ、まして」
「――お墓は?」
「…………!」
「お墓は? お母様のお墓はどこにあるの?」
「……確か……王家の墓所に、あったかと……」
「――……ありがとう、ばあや。大好きよ。おやすみなさい」
 こちらから話題を打ち切って、ヨヨは布団をかぶる。
 乳母はあからさまにホッとした様子で息を吐くと、燭台を持って部屋を出ていった。


『私が聞いた話だと、ルザ王妹殿下付きの女官が姫様の生まれた前後から行方知れずとか――』
 ――ピシピシというひびの入る音に混じって、カラカラパラパラ、乾いた音が混じる。それは砂礫の転がる音。


 扉が閉まり、乳母の足音が遠退いていくのを聞いて――
 ヨヨは布団から顔を出した。
 目は冴えていて、とても眠れそうにない。ベッドの上から、窓の外を見た。
 新月の夜で、星がよく見えた。暗くて青い闇の中に星が無数に瞬いている。まるで藍色のビロードの上に、小さな宝石をいっぱいにばら撒いたようだ。
 その星空を見ながら、ヨヨは、ピシピシという、何かが爆ぜるような音を聞いていた。
 ――ヨヨは聡かった。六歳の少女にしては図抜けて聡かった。聡すぎた。その聡明さはいっそ不幸でさえあった。
 ヨヨは知っていた。
 侍女たちが漏らすヒソヒソ話から、出入りの商人たちがもたらす雑談から、時折執事と乳母と守り役が沈痛な表情で交わす会話から。
 知っていた。
 とっくに、知っていたのだ。

 もしかしたら自分は、どこの誰とも知れない、という事を。

 音は増える。広がる。一つ新たな噂を聞く度に、一つ確信を深める度に。
 ヨヨは悟っていた。
 この楽園は、薄氷の上に築かれたものだという事を。
 早晩、この大好きな世界が全て崩れ去る事を。
 信じられないほどに美しい星空を食い入るように見つめたまま、ヨヨは一筋の涙をこぼした。



 予測は大当たりし、その一年後にはヨヨは王家の私邸たるその離宮から王宮へと戻された。
 大好きな守り役とは、その後も会う事が出来た。
 だが慣れ親しんだ人たち――執事や侍女たち、料理人、庭師、教育係の先生、そして母と慕った乳母がどこへ行ってしまったのか、ついに知る事はなかった。

 

 


 この話をここでしてしまうべきなのか、少し迷いましたが――
「うわさ」というお題でそのまんまディアナを持ってくるのはいくら何でも芸がないので、ヨヨ様の昔話を持ってきました。
 長編『心、この厭わしきもの』の過去に当たるネタは二つほど想定しているのですが、それはあくまでビュウさんが主役であり、ヨヨ様メインのものではありません。
 というわけで、ヨヨ様の昔話をこんなところに持ってきてみた。
 いきなりヨヨ様の出自についてチラリとカミングアウトでした。詳細はまたいずれ。

 

 

 

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