イズー=アソル。
 カーナ戦竜隊隊長ビュウ=アソルの母。
 彼女を拘束、その後本国へと移送せよ、という命令がグランベロス本土の参謀本部から下った。


(無茶言うな……)

 命令書を受け取ったハンス・ペルソナ=オルヴェントはしみじみと溜め息を吐いた。
 ハンス・ペルソナ=オルヴェント将軍。グランベロス軍カーナ駐留師団司令。三十歳、独身。趣味は掃除。部下たちの間からは「将軍って割りと家庭的ッスよねー」と評判なのに、未だ結婚話が一つも浮かんでこないのは、「それはあれッスよー、『いい人』止まりなんじゃないッスかー?」と専らの噂である。
 そんな風に言っていた部下はその場で面倒な事務処理一山を押し付けて泣かせたから良いが、「いい人」止まりという点については一つ心当たりがある。以前付き合っていた女性が言っていた。「貴方がいい人なのは解っているんだけど、何て言うのかしら、こう、一緒にいてドキドキしないのよね」――ドキドキって何だ、ドキドキって。こっちはあんなに盛大にドキドキして、それで気合いを入れてデートに誘ったのにそれはないんじゃないの? ……と、そうではなくて。

 そう、ドキドキ。
(あれは心臓に悪かった……)
 司令部の執務室で机に着いて頭を抱えながら、ペルソナは思い出す。今彼の頭を悩ませている、いやむしろ胃にダメージを与えている命令書が本国より送られてくる前に起こった、とある出来事を。
 彼どころか、彼の部隊全員が意識的に話そうとしない、あの悪夢の出来事を。






 グランベロス軍がカーナを占領し、ペルソナが駐留師団司令に任命されてカーナ入りした、おおよそ三ヶ月後の事だった。

「イズー=アソル?」
「はい、逃亡中の元戦竜隊隊長ビュウ=アソルの母親です。王都中地区の住宅街に夫トリス=アソルと共に住んでいます」
 報告してきたのは、ペルソナと共にカーナ入りした執政官の一人だった。
 執政官とは、実質的な属州統治をする文官たちである。文官なので立場上は師団司令と同等であるが、実際は師団司令の補佐役のようなものだった。
 そしてその実質的な補佐役たちは、カーナ入りするや否や、接収された旧カーナ軍の人事資料を徹底的に調べ、現在グランベロスが賞金を掛けてまで追跡している軍の要人たちの背後関係を洗い上げた。
 逃げるのに疲れた逃亡者たちは、家族の下に戻ろうとするかもしれない。
 あるいはカーナでの地下活動を組織すべく、家族や友人たちに連絡を取るかもしれない。
 そのために、グランベロスは軍幹部の親類縁者をマークする。場合によっては拘束し、尋問の結果地下活動の組織に関わっている事が判明すれば、見せしめのため処刑する事もあり得る。
 だからこそ、執政官たちは占領地に入った直後に接収資料を洗うのだが――
「……調べがつくのに、随分時間が掛かったな」
「それが――」
 と、言いにくそうに、執政官。ペルソナは首を傾げる。どうした、と言外に問えば、彼は言葉を濁しながら答えた。
「……どういうわけか、接収されたカーナ軍の事務書類が少なく……それも、人事関係ばかり……」
 接収資料が少ない、というのはままある事だ。戦闘が王城、軍本部にまで及べば、資料の焼失はそれこそ当然、完品で残る方が珍しい。
 だが、人事関係ばかりが少ない?
 そこに腑に落ちない何かを感じたが、ペルソナは無視した。元々考えるのは得意ではない。何かあったら現場でどうにかすればいい。幸い、どうにか出来るだけの技量と経験、そして優秀な部下は揃っている。
 だから、
「まぁ、いい。今夜動く」
 ペルソナは即決した。



 ペルソナは、一兵卒からの叩き上げで、今の地位を獲得した。
 ベロス時代の士官学校を出ているわけでもない彼が、僅か三十歳で将軍位を獲得したのは、十四の時から戦場に出ていて、趣味にも表われる几帳面さで与えられた任務を着実にこなし、認められてきたからだ。そしてベロス兵は損耗が激しい。生き残ってさえいれば、昇進は比較的早い。もちろん、上層部が使える、と判断すれば尚更だ。
 極端な話、便利なペルソナは使い走りだった。偵察してこいと言われれば、見るべきものを全て見た上で生還し、破壊工作をしてこいと言われれば、必要なものを必要なだけ破壊して何食わぬ顔をして戻ってくる。見張りしていろと言われれば、居眠りする事なく立っているし、突撃しろと言われれば、物の見事に敵の前衛に風穴を開けてくる。
 基本的に上から言われる事をやるだけだから、サウザーやパルパレオスのようにハッと派手な目を引く功績があるわけではない。だが、彼がいなければベロス側にとって苦しかった戦いがいくつもあった事もまた事実だ。
 サウザーやパルパレオスが「なくてはならない英傑」ならば、ペルソナは「いるとありがたい兵士」という事になるか。
 ともあれ叩き上げのペルソナは、将軍位を獲得した今でも、直属の部下たちと共に現場に出たがる。
「……だからって、何もこんなとこまで出てこなくてもいいんじゃないッスかー?」
「黙れ。ちったぁ体動かさねぇと鈍るんだよ」
「司令部の雑巾掛けしてりゃいいじゃないッスかー」
「もうし尽くした」
 などというわけの分からない会話を副官と交わしながら、ペルソナは闇にひそんでいた。
 まったく、「任務の雑食」をしていた甲斐があるというものだ。隠密活動まで出来る将軍というのは、今のグランベロスでは自分一人だろう。
(って、将軍だったら部下を使うのが普通だよなぁ……)
 だが、それではどうにも収まりが悪いのが、ペルソナという男である。
 自分の目で見ないと気が済まない。
 自分が携わっていないと気が済まない。
 神経質なまでに几帳面。つまりは、そういう男なのだ。
 だからペルソナは、闇の中、目を凝らす。月明かりもない夜闇に慣れた目は、角の向こう、路地の中ほどにある一軒の民家に据えられていた。
 暗闇にボンヤリと浮かぶ外壁に、闇に沈んだ色の屋根。うっすらと、その屋根が周囲と大差ない三角形である事が判る。玄関脇の窓から灯りは漏れず、家人がもう寝床に入っているであろう事は容易に想像がついた。
 ビュウ=アソルの実家。
 作戦は簡単だ。ペルソナの直属部隊は全部で十二人。三分の一は表の玄関、三分の一は裏の勝手口、残り三分の一は両部隊のサポート。配置に着いたら、ペルソナが表の連中を率いて玄関扉を叩き、大声で名乗りながら家人を起こす。その隙に、裏の部隊が勝手口を固める。家人がそのまま玄関に出れば穏便に連行、裏口から逃げるようなら裏の部隊が拘束、そこ以外から逃げるなら、サポート部隊が走る。それでまぁ、大体どうにかなる。
 と、その時、犬と猫が威嚇し合っているような、そんな鳴き声が聞こえた。
「――よし、行くぞ」
「了解」
 犬は裏の部隊、猫はサポート部隊が、それぞれ配置に着いた事を知らせる合図だ。本物と聞き紛うほどのそれを聞き届け、ペルソナは部下と後ろに連れて玄関へと歩き出す。手には短槍。戦場で使う長槍ではない。狭い市街戦や室内戦では、リーチの長さよりも小回り優先だ。
 玄関前に立つ。ペルソナは左右に目配せして注意を払わせながら、ドンドンドン、と民家の戸板を強く叩いた。
「夜分に失礼する! 我々は、カーナ属州統治府保安局である! トリス=アソル及びイズー=アソル! 速やかに表に出ろ!」
 口上を並べ立てながら、尚も扉を叩く。応答はない。もう一度言わねばなるまいか。嘘の名乗りをすべく、息を吸って、
「我々は、カーナ属州――」

「聞こえておりますわ」

 その声は。
 ささやかで、穏やかで、たおやかで、華奢な印象があって。
 だというのに、ペルソナの大音声を容易に貫き、表部隊の者全員の耳を打った。

「カーナ属州統治府保安局の方ですわね。今鍵を開けますので、お待ちを」
 淡々とした女の声だ。イズー=アソル。息子の敵が来たというのに、随分と落ち着いている。軍人の母、ある程度覚悟はしていた、という事か。
 玄関横の窓に、小さな灯りが差す。ろうそくだろうか。それが見えてしばし、ガチャリ、と音がした。錠の開く音。
 そして、ドアノブが、回り。

 バンッ!

 突如戸板がこちらに向かって勢いよく突進してくる!
「――っ!」
 ペルソナは反射的に飛びすさる。間一髪、戸板は鼻先をかすめていった。玄関先から数歩分退いたペルソナは、着地と同時に短槍を構えた。大きく開け放たれた扉、その奥に向かって穂先を繰り出す!

 白光が、煌めいた。

 ギィンッ!

 屋内からのささやかなろうそくの火に照らされて――
 短槍が、ペルソナの手を離れ、クルクルと回転しながら弧を描き、ガランッ、と路面に転がった。
 そして彼は、戦慄しながら見た。
 自分の喉元に突きつけられた白刃を。
 平然とした顔で剣をまっすぐに突きつけてくる、神速を以ってペルソナの突きを弾き飛ばした、その女を。
 彼女は武装していた。外套、皮鎧、小手、具足、戦闘服、軍靴。背中、腰の両側から、剣の柄がニョッキリと生えていた。右に二振り、左に一振り。結い上げた髪は濃い金色に輝き、こちらをまっすぐに見据えてくる碧眼は笑みに緩んでいるようにさえ見える。だが、その眼差しは苛烈だった。
 冷や汗が、頬を、背筋を伝い落ちていく。
 恐怖。
 それは、戦場に出る度に感じるものだった。偵察に行く時、工作に赴く時、見張りに立つ時、突撃する時。ペルソナは恐怖を感じていた。使命感と几帳面さで押し殺してきた。
 だが、これは違う。
 今まで感じてきたものとは、明らかに性質が違う。
「死ぬかもしれない」という温いものではない。「死ぬ」という確信だ。死の感触、それが今までに感じた事がないほどすぐ傍にある。
 死ぬ。
 殺される。
 俺はこれから、この女に殺される。部下たちも全員。免れる事は出来ない。挽回は出来ない。逆転は出来ない。逃げる事は叶わない。死ぬ。殺される。死ぬ。殺される。死ぬ殺される死ぬ殺される死ぬ殺される死ぬ殺される殺される殺されるころされるころされるころさレル殺サレルコロサレル――

「将軍!」

 部下の叫び。視界の端で硬直していた彼らが、立ち直って武器を女に向かって繰り出そうとする。女はそれを、ひどく落ち着いた様子で一瞥した。素早い、素早すぎる一瞥。次の瞬間、彼女の左手――剣を持っていない方の手が動いた。

「動くなっ!」

 女が右側から生えていた一刀を抜き払って部下たちの方に向けるのと――
 ペルソナの制止の声とは、ほぼ同時だった。
 部下たちはピタリと動きを止め、同時に、女も剣の切っ先を彼らに向けただけで停止する。
 脱水症状を起こしそうな勢いでダラダラと冷や汗を掻きながら、ペルソナは告げた。
「動くな――来るな。お前たちも、斬られるぞ」
 ようやく、それだけを口にする。すると、女の口元が僅かに緩んだ。
「結構。理解が早くて助かるわ、坊やたち」
「おい、イズー」
 奥から声がした。ガチャリ、と金属がこすれる音。灯りの範囲内に、長身の男が姿を現わした。やはりこちらも武装し、鞘に収めたままの剣を肩に担いでいる。
「裏のガキども、片付けたが、どうする?」
 イズー=アソルは、不意に困ったような表情を見せた。
「……そうね、どうしましょう。とりあえず片付けてもらったけど……」
「考えてみりゃ、その辺りの判断はいつも馬鹿息子の役割だったからなぁ。――……身包みでも剥いで酔っ払いに仕立てとくか?」
「困ったわね……」
「困ったな……」

 何なんだ、この夫婦は――

 息子の敵に襲撃されて。
 だが事前に察知したか、万全に武装して、挙げ句女房の方は二刀流で、敵の命運をその手に握っていて。
 だというのに、その敵の目の前で処理に困ってみせるなんて。

 半ば信じられない思いで見つめながら、しかしペルソナは必至で考えていた。

 考えろ、考えろ、考えろ。
 チャンスは今しかない。今しか挽回の機はない。
 考えろ、考えろ、考えろ。
 さもないと、俺も死ぬ、部下たちも死ぬ。
 異国の地で、俺の勝手で、部下たちを死なせてたまるか!

 ――神経質で几帳面。任務は必ず遂行する便利な使い走り。
 ペルソナは、その神経質な几帳面さで、これまで生き残ってきた。
 神経質に几帳面に、彼は時機を決して見誤らない。
 いるとありがたい兵士は、今回も、時機を見逃さなかった。

「――……なら、提案なんですけど」

 まるで物売りを見るような目付きで、アソル夫妻はペルソナに視線を転じる。
「そいつら、こっちで引き取りますんで……剣、引いてもらえません?」
 その提案に。
 ペルソナたちがゴクリと生唾を飲み込む中、夫婦は顔を見合わせた。
 そして、一秒、二秒――
「いいな、それ」
「じゃあ、そうしましょうか」
 即決。
 こちらが唖然とする間もなく、イズー=アソルは剣を引いた。
「なら、勝手口にいる子たち、悪いけど連れて帰ってくれるかしら。あと、この近所に展開してる子たちも。お友達でしょ?」
「あ、はい。もちろんです」
「あー、良かった。危うく面倒な事になるところだったわ。えーと、貴方、保安局の人だったかしら? ありがとう。あとよろしくお願いするわね」
「あ、はい。お任せください」
「それと――」
 律儀に頭まで下げてしまったペルソナに対し、彼女はそのままの口調で、こう言い放ったのだった。


「次は、ないわよ」






 軽傷者、四名。
 それが、その時に出たペルソナの部隊の被害である。
 だが、それはあくまで肉体的なもので――精神的な被害は、もっと酷い事になっていた。
 まず、ペルソナも含め、誰もがあの夜の出来事を悪夢に見た。
 金髪の女性に会うのが怖くて怖くて仕方なかった。
 剣を見ると嫌な汗が出た。
 そんな事がしばらく続き、そして収まり始めると、皆揃って、あれは皆で見た悪夢だ、と思うようになっていった。
 そういう風に思い込んでようやく、嫌な夢も、恐怖も、ペルソナたちから去っていった。

 ――というのに。

「将軍、どうするんスかー?」
 副官の怯えた声に、ペルソナは頭を抱える。
 ……あの夜の出来事は、もちろん本国には報告していない。いくら師団司令に現地での軍事行動における一切の権限が任されているとはいえ、着任早々独断で部隊を動かし、たった二人に撃退されてしまったのだ。報告できるはずもない。
 けれどペルソナは、密かに、それとなく調べていた。
 すると、本国に問い合わせるまでもなく、あっさりと判明した。ベロス派遣軍時代からいる兵士や下士官たちから、その話は簡単に聞き出せた。

 アソルの名にまつわる、傭兵たちの伝説。


 最も有名なのは、『魔人』。十年近く前にあったマハールの戦いで、あのサウザー皇帝を戦術で打ち負かしたという、悪魔の頭脳を持つ戦術家。
『剣匠』の名も聞いた。身の丈ほどもある大剣を軽々と操る、剛の剣士。打ち掛かっていった者は全て、その剣に武器ごと叩き切られていったという。
『閃姫』という名もチラリと聞いた。戦場を俊足で駆け巡るライトアーマー。だがその姿をまともに見た者はいない。
 そして、畏敬を以って語られるのが――

『剣聖』。

 曰く、パルパレオスをも凌ぐクロスナイト。曰く、一度打ち込む前に三度は斬り込んでくる神速の剣士。曰く、存在自体が戦略級の怪物。曰く、あらゆる戦術をたった一人で無にする化け物。
 そして誰もがこう口にする。死にたくなければ敵対するな、と。


 思い出す度に頭痛と胃痛がぶり返してくる。
 アソルという姓は別に珍しくもないし、アソル姓の傭兵なんて他にもいるだろう。まして、カーナの王都に住む「アソルさん」が伝説の傭兵「アソル一家」と同一人物なんて、いくら何でも出来すぎている。
 そして同時に、ペルソナはこう思うのだ。

 何でこんなに出来すぎているんだ、この世の中は。


『次は、ないわよ』


 あの声を思い出す度に、心臓がバクバクと跳ね回る。
「将軍……」
「とりあえず――」
 ペルソナは、決然と顔を上げた。
「二度と、手は出さないぞ」
「はっ!」
 何だか情けないやり取りを、妙に格好良くやりながら――


 ふと、思う。
 死にたくなければ敵対するな。
 けれどグランベロスはもう敵対してしまった。ペルソナは一度手を出してしまったし、本国も母親を捕らえろという。何より、ビュウ=アソルを帝国は総力を挙げて追跡している。
 もしかしたら。
 もしか、したら――

 それ以上は怖くて、ペルソナは考えるのをやめた。

 

 


 ビュウママ最強伝説。
 あるいはグランベロス帝国崩壊五秒前。

 考えてみれば、ペルソナをまともに書いたのはこれが初めてだったり。

 ペルソナは『心〜』の五章でチラリと出しましたが、完全に脇役でした。脇役級のキャラクターをきちんと設定しないのは簾屋の悪い癖で、おかげでペルソナさんの人物設定は、書きながら考えてました。
 掃除好きだから几帳面、とか。
 何だか影薄くてパッとしないから、じゃあ地味な叩き上げでいいや、とか。
 ……ペルソナさんファンに張り倒されますね、私。


 そして、本当なら長編の方で明らかにするはずだったアソルさんち全員の通り名を明かしてしまう簾屋。ビュウママの通り名は、カーナ編で大々的に公表するつもりだったんだけどなぁ……。ま、いっか。

 ところでペルソナさん、書いててちょっと愛着が湧いたので、またお題の方でペルソナさんを書くかも。

 

 

 

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