――その日。
 反乱軍旗艦ファーレンハイトは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。





 ビッケバッケは、逃げていた。
 相変わらず少し重い体を引きずって、時折背後を振り返り、喘ぐように大きく荒く息をしながら、とにかく逃げていた。
 足は萎えだしていた。ガクガクと震え、力が入らず、気を抜けば、今にもつまずき倒れてしまいそうだ。
「敵」は、もうそこまで来ていた。逃げ切れないかもしれない。だが逃げなければ。それが叶わないなら――それを想像して、ゾッと身を震わせるビッケバッケ。

 そう、逃げ切れなければ、そこには悲劇が――死をも上回る悲劇が、彼をパックンと飲み込もうと、大きく暗い口を開けて待ち構えているのだ。

 ファーレンハイト地下の倉庫。積み上げられた荷と荷の間の僅かな隙間を掻い潜り、とにかく逃げる。距離を取らなければ。いびつな十字路を左に曲がろうとして――

 カツンッ。

 そちらから足音が聞こえた。暗い倉庫にやたらと響く、不気味な靴音が。
 ヒッ。小さく悲鳴を上げるビッケバッケ。慌てて踵を返す。そして、十字路の反対側――先程の視点で言えば、右――に足を向け、やはりそこに人の気配を感じる。
 ラッシュ、トゥルース。ビッケバッケは二人の親友の顔を思い浮かべた。助けて。助けて。このままじゃ、僕、死んじゃう――胸にこだまする助けを乞う声は、親友に届く事など決してない。
 願いながら、ビッケバッケは先程の視点で言うところの正面の道を選ぶ。結局、元来た道からまっすぐ一直線に続いている道だ。追っ手の気配はない。それに安堵して、走る。走る。
 そして、足を止めた。驚愕と共に。

 壁だった。
 行き止まり。

 ファーレンハイトの地下倉庫はやたらと頑丈に出来ている。レンガ造りのその壁は、帯剣していないビッケバッケ程度には破る事は不可能だ。
 壁の前に立ちすくみ、体から力が抜けて床にひざまずく。ビッケバッケは理解した。

 逃れているつもりで、追い詰められていたのだ。

 カツン。

 背後から靴音。それも複数。ヒッ、と息を飲むビッケバッケ。
 来てしまった。
「対象捕捉――これより施行に移ります」
「了解。記録簿、準備」
「はい」
 淡々とした声は、女のそれだった。聞き慣れた、しかし感情がない故に底冷えするほどに恐ろしい何かを含んだ、旧知の者たちの声だった。
 肩を掴まれた。壁に向いていた体を無理矢理前に向けさせられる。そして妙に強烈な光――それは魔法で生み出された診察用の照明なのだが、それをわざわざ説明するものがいないため、彼は知らない――を当てられたかと思うと、こちらがもがく間もなく、二人の女の手がこちらの上唇に掛かり、そのままグイッとこじ開けられた。
 灯りの逆光のせいで、女たちの顔は暗く潰れて見えない。誰かがこちらの口の中を覗き込む。その後、彼女は、なにやら銀色の細い物――先端に鏡のついた検診器具――をビッケバッケの口の中に差し入れ、
「では、右下から」
「了解。下右三大、丸。下右二大、丸。下右一大――」
 女は、ビッケバッケには到底理解できない呪文めいた言葉をボソボソと言う。灯りのすぐ側にいる別の女が手に持つ何かに素早く記入。
 細い物は下顎を一回りすると、今度は上顎の内側を這った。
「上右三大、丸。上右二大、丸――」
 女の呪文は続く。ビッケバッケはそれが何か解らない。

 いや、知っている。本当はそれを、本能で彼は知っていた。だが、それを理解するのは感情が拒否した。
 何故ならビッケバッケは、今――

「上左二大……C1、上左三大――」
 言いよどむ女。手を動かし、顔を近づけ、口の中を覗く。
 ――気付かれた!
 ビッケバッケは悟った。まずい。逃げなければ。でなければ――でなければ、自分の命はここで終わりだ!
「こら、暴れない!」
「上左三大?」
「これは……C2、いえ、C3ね」
 沈黙が。
 痛いほどの沈黙が、流れた。
 ビッケバッケはまだもがいている。逃げなければ。逃げなければ!
 そして、不意に気付いた。
 その沈黙に……異様なほどの喜悦の気配が、混じりだしているのに。
 ヒッ。三度悲鳴を上げるビッケバッケ。しかしその悲鳴は、単なる呼気として声にもならず倉庫のかび臭い空気に紛れていく。
「あら……C3……」
 ――思慮深い声は、ジョイのものだった。
「それは駄目ねぇ、ビッケバッケ……」
 ――諭す声は、フレデリカのものだった。
「じゃあ、一気にやっちゃおっか……」
 ――妙に楽しそうな声は、ディアナのものだった。
「じゃあ、あんたたち」
 ――その強いゾラの呼び掛けに、女たちがユラリッ、と動く。
 強い明かりで影になったその顔の中で、何故か口だけが、異様に白く大きく、ニィ、と笑みの形に歪むのがはっきりと見えた。

 ――殺される!

「これより、患者ビッケバッケの上顎左側の第三臼歯の抜歯治療を行なう」



 そして、ビッケバッケの断末魔の悲鳴がファーレンハイト全体を揺るがす……――




 その日。
 反乱軍旗艦ファーレンハイトは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


 反乱軍プリースト隊は、現在、虫歯撲滅キャンペーンを展開中である。

 

 


 聞いたところにやると、格闘家などの「戦う」人たちは、歯がボロボロなんだそうで。
 というのも、受けたダメージを全て歯を食い縛る事で堪えているから。
 だから常時戦いの反乱軍の歯科衛生は、きっと毎日の歯磨きを呼び掛けている事でしょう。

 ちなみに作中の虫歯検査は、間違っている事請け合いです。突っ込みはノーサンキューの方向で。


 当初、この『15.痛』には違うネタを予定しておりました。お題初の帝国側ネタで、パルパレオスが主人公でした。
 ――が。

 ビッケバッケが無麻酔で虫歯を抜かれる、という図が浮かんだ。
 そっちの方が面白そうだった。

 というわけでネタ変更。
 ちなみに変更前のネタは、いずれ『心〜』の外伝として、短編の項にでもUpされるでしょう。

 

 

 

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