ミストの朝は、スキンケアで始まる。
小瓶の中の化粧水を手に取り、顔にピタンッ、と叩きつける。
ピタンッ、ピタピタ。彼女の手は念入りに頬を叩き、化粧水を馴染ませていく。叩いて、馴染ませて、そうしてようやく化粧水の保湿成分は肌に吸収されるのだ。こうやって肌を刺激すれば、血行も良くなる事だし。
だからミストは頬を叩く。ひたすら叩く。とにかく叩く。叩くったら叩く。
ピタンッ、ピタンッ、ピタンッ、ピタピタピタピタピタビタビタビタビタビタバチバチバチバチバチバチバチ――
叩きすぎて、何だか平手打ちに近い事になっているのだが(しかも高速)、そんな事は気にしない気にしない。
ミストのスキンケアは、始まったばかりである。
§
ルキアの朝は、ヨヨに淹れたてのお茶を持っていくところから始まる。
「おおルキア! マイスウィートラヴァー、ルキア! こんな早くから君のその花のような笑顔を見る事が出来て、僕はその幸運を神に感謝する……つもりだ」
そして廊下でいきなり遭遇したドンファンに、思わず額を押さえるルキア。片手で保持するティーセットを乗せたお盆が、中々に重い。というか、この苦り顔が「花のような笑顔」って、どんな色眼鏡だそれは。
「要はアレアレアレ……僕の心は、君のその笑顔に誘われフラフラと彷徨う――」
「ちょっと、ドンファン――」
「孤独な蜜蜂のよう。君の笑顔という大輪の花に出会い、僕はやっと安らぎを得る事が出来る――」
「あのね、だから――」
「あぁしかし悲しいかな、僕はまた違う花を求めて旅立たねばならない! 君の元に留まれない事を、許してくれ、ルキア!」
「別に、そんな事はどうでもいいから――」
「そんなわけでルキア、僕はこれから裏の空き地に行かねばならない! そこに、この僕を待っている人がいる……!」
「――空き地?」
裏の空き地、と俗称される場所は、あそこだ。艦橋裏手の、訓練や物干しに活用されるあのスペース。
こんな早朝に、あそこに行く? 一体何をしに? 怪訝そうなルキアの表情に気付いているのかいないのか、ドンファンはひとしきり陶酔に浸ると、ではルキア、と言い残して階下へと向かっていった。
まるで一陣の突風のように、散々引っ掻き回して。
その背中を呆れた眼差しで見送って、ルキアは廊下の奥――ヨヨの部屋へと、向かう。
§
ジャンヌの朝は、水分補給から始まる。
(……だからって、いきなり酒はまずいなぁ)
女性部屋に併設された酒場で、彼女は真剣に――戦闘中もかくやというほどに真剣に、頭を抱えていた。
軽装歩兵たちの優雅な憂鬱
スキンケアが終われば、次は朝食だ。
でも、ミストの食は細い。細い、というかカロリー制限である。戦闘がない時は、彼女は余り食べない。今日の朝もサラダだけ。野菜は美容に良いのだ。
「……ねぇミスト?」
「何、ルキア?」
たまたま一緒のテーブルに座ったルキアは、非常に言いづらそうに、詰まりながら言葉を紡ぐ。
「余計なお世話かもしれないけど……パンも、ちゃんと食べた方がいいんじゃない?」
ミストは、薄く苦笑した。
「うん、でも、やっぱりまだ調子が戻らなくて……中々、前みたいに食べられないのよ」
「……ボール三杯分も、サラダ食べて?」
「嫌だわ、ルキア」
コロコロと、ミストは笑った。上品に、素敵に、しかし目元だけは笑っていない。
「これは、幻覚よ」
僅かな沈黙の後――
「……幻覚?」
恐る恐る、といった風情で問い返してくるルキア。ミストは自信たっぷりに頷いた。
「そう、幻覚。二杯も余分に空のボールがある事なんて、そんなのルキアの目の錯覚なのよ。気にしちゃ駄目」
「そ……そう、なのかしら?」
「えぇ、そうよ」
念を押して、ミストはズイッ、とルキアに顔を突きつけた。そして、更にニッコリと笑う。途端に彼女の表情が引きつった。
「そ、そうね。やだ、私ったら朝から」
「きっと疲れているのよ、ルキア。ビュウにでも頼んで、少しゆっくり休ませてもらいなさいな」
言い残して、席を立ち上がるミスト。もう行くのか、と見上げてくるルキアに、
「やっぱり、私もまだ本調子じゃないみたい。もう少し休ませてもらうわ」
「そ、そう? お大事にね、ミスト」
その言葉に送られて、ミストは食堂を出た。
§
そして残されたのは、食べ終わった食器。三つの大きなサラダボール。
これって、やっぱり私が片付けなきゃいけないのかしら? 目の錯覚なのに――思わず唸るルキアの肩を、ポン、と叩く手があった。振り返る。
「よ、ルキア」
ジャンヌだった。片手で器用に二人分のティーカップを持って、一つをこちらに差し出してくる。入っているのは食後のお茶だ。ありがとう、いやいやついでだし、そんなやりとりの後に口をつける。染み入るような温かさにホッとした。
一方、ジャンヌはルキアの向かいの席にドッカリを腰を下ろしていた。豪快にカップをあおり、一息吐いてから思い出したように、
「そういえば、今日ドンファンと会った? 朝飯にいなかったけど」
「朝方に会ったけど、それが?」
「何か言ってなかった?」
「……私が花で彼が蜜蜂、とか何とか」
「寝言は勘定しないで」
ドンファンお得意の口説き文句も、ジャンヌに掛かれば「寝言」で一蹴である。苦笑したルキアは、それから改めて今朝方の彼とのやり取りを思い出した。
とはいえ、
「……特に、何も聞いてないけど。何で?」
その問いに、ジャンヌは何やら歯切れも悪く「いや、さ」と呟く。
「さっき、ビュウに聞かれたんだよ。ドンファンの奴が何を企んでるか、って。あたしに聞かれても困るんだけどなー」
「企んでる……?」
『僕はこれから裏の空き地に行かねばならない!』
芝居じみた大袈裟な口調で放たれたドンファンの言葉が、耳に蘇る。
「……空き地で、何かしていたのかしら?」
「空き地ぃ?」
訝しげに繰り返したジャンヌは、しかめっ面でしばらく首をひねっていたが、
「……もしかして、誰か若い子たらし込んだか?」
『あぁしかし悲しいかな、僕はまた違う花を求めて旅立たねばならない!』
ガタンッ!
椅子を蹴倒して立ち上がったルキアを、ジャンヌがギョッとした様子で見上げた。
「ル、ルキア?」
「……ちょっと、空き地に行ってくるわ」
「え? ――あ、ちょっと、ルキア!」
ジャンヌの止める暇があればこそ。
ルキアは、ライトアーマーの名に恥じない俊足で、食堂を飛び出した。
さて、ファーレンハイトの内部構造の説明を少ししよう。
ラグーン部分と要塞部分で大雑把に二分されるファーレンハイト。その内部は五層構造である。解りやすく言えば、地上三階、地下二階。地上一階が入り口ホールとお抱え商人の簡易店舗(そしてプチデビたちの溜まり場)、二階が主だった兵士たちの寝室、三階が艦橋と艦長室。ラグーン部分の内部に当たる地下は、一階には炊事場や浴場、洗濯場などの水回りが集まり、最下層の地下二階には、機関室や倉庫などが押し込められている。
ルキアは、逸る気持ちを必死で制御して、地下一階の食堂を飛び出した。しかし焦る気持ちはそのまま脚に現われる。階段を二段抜かしで駆け上がり、道具屋の主人を泣かせているプチデビたちの脇を疾風のように通り抜け、裏口へと向かう。
と、彼女は不意に足を止めた。
裏口へと一直線に続く廊下。その少し先から、二人の女の子がやってくる。前方から――空き地から!
「アナスタシア、エカテリーナ!」
「――あれ、ルキア?」
空になった洗濯かごを抱えて、エカテリーナとお喋りをしていたアナスタシアは、こちらの呼びかけにきょとんとした顔を向けた。エカテリーナも不思議そうな顔で、
「どうしたんですか、ルキアさん? そんなに急いで」
「貴女たちっ!」
猛スピードから急ブレーキ、アナスタシアたちの前でピタリと絶妙に止まってみせて、ルキアは勢い込んで話しかけた。同時にガシッ、と二人の肩を掴む。その力が予想外に強くて、二人はギョッと目を瞠った。
「だ、大丈夫!? 何もされなかった!?」
「……はぁ?」
目一杯怪訝そうに首を傾げたのは、アナスタシア。
「……何の事です、ルキアさん?」
エカテリーナもまた困惑の表情を浮かべている。そんな二人の様子に、いきり立っていたルキアの頭にも冷静な考えがちらついた。
「……あら?」
二人はただ、こちらに戸惑いの眼差しを向けている。それが、焦燥やら使命感やらで沸騰していたルキアの脳にとって冷却水となった。
二人の様子を見る限り、何かがあったようには見えない――つまり、空き地でドンファンに何かされたのではなさそうだ。もし何かされていたのであれば、特にアナスタシアは性格上、絶対にプリプリ怒っているはずだ。そうでないなら、
「……ゴメンね、ちょっと勘違いしたみたい」
アナスタシアとエカテリーナは、釈然としていない様子で顔を見合わせる。しかしルキアはそれ以上弁明をしなかった。
ドンファンは空き地に向かって、二人は空き地からやってきた。二人は、何か知っているかもしれない。
「ねぇ二人とも、ドンファン、知らない?」
「ドンファンさん、ですか?」
「……そういえばさっき、倉庫の方で見たっけ」
「倉庫ね、ありがとう! ごめんなさいね!」
再び謝罪を繰り返し、ルキアは身を翻す。ライトアーマーの面目躍如と言わんばかりのその身軽さに、アナスタシアたちはただただ目を丸くしていた。
§
結局ミストが使った食器だとかルキアがお茶を飲んだカップだとかは、ジャンヌが片付ける羽目になった。
(ちょっとマズったかなー)
すっかり失念していた。ルキアに、下手にドンファンの心配をさせない方が良いのだ。昔からドンファンの尻拭いをさせられていたルキアは、彼が何かやらかしそうになると駆けずり回り、それを防ごうと躍起になる。
そもそも同期入隊という間柄で、ドンファンは女と見れば追いかけずにはいられない性格をしている。そしてルキアは変なところで付き合いと面倒見が良い。あの二人はそういう腐れ縁なのだ。
(ま、それだけじゃないんだろうけど……その辺は、まぁいっか)
水気を拭いた食器を戸棚に片付け、ジャンヌは炊事場を出た。向かうのは倉庫だ。
ここのところ、反乱軍は開店休業状態である。
針路上にグランベロスの影はなく、ビュウたち戦竜隊の哨戒飛行も、あと数日はこんな調子だろうという報告しかもたらさない。不謹慎な言い方をすれば限りなく暇で、だからどこの部隊も、ここぞとばかりに訓練に勤しんでいる。何せ、三日前の演習である部隊がとんでもない大ポカをし、ビュウをキレさせたのだ。実戦でも同じ事をしてしまったらどうなるか、考えなくても予想がつく。
しかし訓練に使える場所は限られているわけで、だから時間ごとの交代制と決められている。ライトアーマー隊の訓練は、午後から、裏手の空き地でだった。
さてそうなると、問題はそれまでの時間の潰し方。一瞬、酒でも飲んでるかなー、と思ったが、いやいやさすがにそれはまずいだろ、とかぶりを振るジャンヌ。代わりに、
(細剣の手入れでもしてるかな)
何せ財布の紐を握るのはケチンボビュウ、「武器は大事に使え大事に!」と厳命されている。武器なんて使い捨ててナンボだからナンセンス極まりないのだが、今は少し都合が良い。
つまり、念の入った手入れにかこつけて、暇が潰せる。
これで昼間で持つかなー、と鼻歌混じりに階段を折り、地下二階に降りたジャンヌの目に――見慣れた金髪が、飛び込んできた。
ルキアだった。
階段口から右手に折れて少し行った所にある倉庫の入り口にしゃがみ込んで、僅かに開けた戸の隙間から、中を窺っている。
何やら、暗い雰囲気を漂わせて。
「……何やってんだ、ルキア?」
ルキアはノロノロと顔をこちらに向けた。何とも情けない、ともすれば泣きそうな表情だった。
「ジャンヌ……私、最低かも」
そう言う彼女のすぐ側、微かな扉の隙間から、声が漏れ聞こえる。
「要はアレアレアレ……息子君、君の役割は僕のサポート、必要な時だけ二人に攻撃してくれればいい」
「それはいいんですけど……そんなおざなりな連携で、いいんですか?」
「いいのさ。要はあの二人に、連携の可能性と必要性を思い出させたいだけなんだから」
覗き見たジャンヌの目に映ったのは、
倉庫の片隅で笑み混じりに、しかし真剣に話し合う、ゾラの息子と――ドンファンの姿。
それは中々に貴重な、ドンファンの士官としての姿だった。
「私……ドンファンが何か企んでるって聞いて、すぐに、女の子に悪さするのかと……」
床にペタンと腰を落としたルキアは、すっかり落ち込んでしまっている。ジャンヌはそんな友達の傍にしゃがみ込んで、ポン、ポンと肩を叩いてやった。
「そりゃしょーがないって。あいつの普段の行いが悪いんだから。ビュウの言い方も悪かったし」
「でも、彼、レーヴェとフルンゼの事をちゃんと考えてあげてて――」
「それくらい出来て当然だって。あいつはランサー隊の隊長だ」
それでも尚も落ち込むルキアの様子に、ジャンヌは思わず苦笑した。
あんたはさ、ドンファンの事、心配しすぎなんだよ。
あいつは、あんたが思うほど危なっかしくないって。
だってあいつは、ただあんたの気を引きたいだけなんだからさ。
でもジャンヌは、それらを口にはしなかった。
言わぬが花、という事もあるのだ。
§
ベッドで横になっていたミストの元に、ルキアとジャンヌがやってきた。
時刻は昼前。昼ご飯にも、そしてライトアーマー隊が予定している午後イチの訓練にもまだ早い時間だ。起き上がった彼女に、ルキアは張り切った様子で告げた。
「私たちも、頑張らなくっちゃ!」
「……何かあったの?」
こっそり問えば、ジャンヌは苦笑して肩を竦めるばかり。わけが解らない。そんなミストの混乱をあおるように、ルキアがこちらの手を取った。
「頑張りましょ、ミスト! 私たちもしっかり訓練しないと!」
「ち、ちょっと待ってルキア」
思わずミストは遮った。ごまかし笑いを浮かべて、
「確かに、訓練は必要だけど……私、まだちょっとそこまでは――」
本音――「訓練? 冗談じゃない! 汗まみれになんかなりたくないわよ!」
「けどさ、ミスト」
と、その時。
何気ない、本当に何気ない、ちょっと思いついた事を特に考える事もなく口にした、という風情の口調で――
ジャンヌが、こう言った。
「たるまない?」
たるむ?
何が?
「体動かさないと、筋力落ちるだろ。ただでさえあんたはずっと寝てるんだし。腹筋とか大腿筋とか落ちたら、戦えなくなるよ?」
腹筋とか、
大腿筋とか、
落ちたら――
下腹部がポッコリと出て。
太腿に贅肉がついて太くなって。
そこから先、ミストはほとんど何も考えなかった。
ただ、衝動に突き動かされるままに行動した。
彼女はベッドを飛び出すと、猛ダッシュで地下二階に向かった。訓練用の細剣を引っ掴むと、地上一階へと駆け上がる。
「あれ、ミストさん?」
「これはこれはレディ・ミスト、貴女の元気そうな姿を見れてこのドンファ〜ン――」
「おどきガキどもっ!」
前でウダウダやっていたランサー隊のガキども――ゾラの息子とドンファンである――を突き飛ばし、
バァンッ!
扉を勢いよく蹴り開けて、空き地に躍り出る。
「あ、あれ、ミストさん?」
「……いいんですか? そんなに運動して」
空き地のど真ん中から、声を掛けてくる二人の歳若いランサーに、
「――……坊やたち」
ミストは、微笑む。
上品に――空恐ろしげに。
瞬間、レーヴェとフルンゼはひしっと抱き合い、顔を真っ青にして震えだした。
「この私が、直々に稽古をつけてあげるわ」
そして私は、このプロポーションを維持するのよ!
ファーレンハイト裏手の空き地に二人のランサーの悲鳴が響き渡るまで、あと五秒。
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