志がある。
 そのために何もかも捨てる自信がある。覚悟がある。誰かを裏切り、利用する事だって出来る。それが例え、旧友でも、家族でも、大切な同志たちでさえ。
 けれど、ああ、けれど。


 この心はそれでもままならず、芯のところで彼らの幸いを願ってしまうのだ。

 

 

慈雨、来たる

 

 


 その男と顔を合わすのは、これが三度目だった。
 前の二度は、どちらも彼の主人が背後に従えての事である。だから彼単体とこうして直に顔を突き合わせるのは、今回が初めてだった。
 その事に、宋江は驚きを覚えた。彼の主人との付き合いは長い。彼がその主に仕えるようになった経緯も知っている。彼の主人から、彼がどんな人間で、どれだけ働き者か、耳にたこが出来るほど聞かされている。だから彼の事はよく知っている。
 それなのに、彼自身との親交がない――それは何だか妙な話だった。
 ともあれ宋江は茶屋の奥へと足を運んだ。人目につきにくい所にある卓で隠れるように座っていた彼は、宋江がやってくるのを見ると立ち上がり、恐縮そうに一礼した。宋江は微笑む。

「お待たせしてしまいすみません、白勝殿」
「い、いえ、こっちこそ急に呼び出しちまって申し訳ねぇです、宋押司様」

 彼――白勝の口にした仰々しい呼び方に、宋江は笑みに苦笑の色を乗せた。
「押司『様』はやめてください、白勝殿。私はそんな大層な身分ではありませんよ」
 謙遜でも卑下でもなく、それは事実だった。押司は胥吏、無位無冠無給の小役人だ。科挙に合格した官吏ならともかく、押司はもてはやされ、偉ぶれるものではない。
 白勝は困った顔で考え込むと、少し戸惑った様子で試すように宋江を呼んだ。
「……じゃあ、宋の旦那」
「はい」
 頷くと、白勝はホッとしたようだった。二人して卓に着いたところに店の給仕が注文聞きにやってきた。
 時刻は既に「昼下がり」を更に過ぎた時間帯、小腹が空いてきている。そして白勝の方はと言えば、昼食も取らずに走ってきたのか、腹を空かせてグッタリ疲れているようだった。宋江は二人分の茶とお茶請けの菓子、そして白勝のために簡単な食事を頼む。
 対面に座った白勝は、ありがとうございます、と頭を下げ、それから注文の品が運ばれてくるまで適当な世間話を持ちかけてきた。宋江もそれに付き合う。
 茶と菓子、そして熱々のうどんの碗が運ばれてきた。
 それらを卓に置いた給仕を下がらせる。白勝は碗を抱え込むように受け取る――ふりをして、下がる給仕の背を視線だけで追う。天敵の猫を窺うネズミのように、隙のない鋭い眼差し。
 猫たる給仕が十分に離れたのを見計らって、白勝はやおら懐に手を突っ込んだ。何かを取り出す。

「――晁の旦那からです」

 手紙だった。
 雑に畳まれているところが、実に彼らしい。
「拝見します」
 宋江は受け取り、開いた。


 白勝の主、「晁の旦那」こと晁蓋と宋江は、いわば旧友の間柄である。
 そしてお互いに相手を「油断ならない」と思い、身構え、棘や皮肉の応酬や腹の探り合いに血道を上げ、そういうやり取りを楽しむ間柄だ。
 何と、言えばいいのか。
 自分と晁蓋は、お互いを認め合ったライバルのようなところがある。
 そして同時に、悪戯仲間のような感じでもある。
 ただしその「仲間」というのは、一つの悪戯を一緒にやる仲間、ではなく、もっと広いくくりとしての、悪戯という行為そのものを楽しむ仲間、だ。
『替天行道。俺も混ぜろよ』
 先日言われたその言葉にかなり心動かされたのは、ここだけの話だ。


 さてその晁蓋の、力強くも雑な字で書かれた文書を読み――
 宋江は、顔に決して出ないように取り繕いながら、息を飲んだ。
 手紙はそれほど長くない。ほとんど伝言の書き付けだ。それはこんな文面であった。

『よぉ、宋江。
 お前んとこに戴宗って奴、いるだろ。石碣村で怪我したそいつを拾ったんだが、しばらく借りていいか?』

(戴宗が――?)
 今朝、天速星の目覚めを感じた。
 それが暴走し、その結果、朝廷が確保したたくさんの星が流れていくのも見た。
 しかしそれから天速星の気配は掴めず、花和尚たちからも連絡は来ず、実は密かに気を揉んでいた。
 そうしてやっと分かった消息が、これ。
(………………………………)
 一度。
 二度。
 深呼吸する宋江。動揺を静める。そして改めて晁蓋からの手紙を読む。
『しばらく借りていいか?』
 とある。
 おそらく戴宗は戦闘で負傷した。が、そこまで重くはないのだ。晁蓋は、重傷人を指して借りる借りないだのと言うような男ではない。
 しばらく、借りる。
 そういえば先日晁蓋は言っていた。替天行道に混ざる前に、何か一つやっておくか――というような事を。
 その「何か」のために戴宗の手が欲しい、という事なのか。
 いや、晁蓋の事だ。単純に戴宗を面白いと思ったから少し関わってみたくなった、そう考えた事もあり得る。
 どちらにしろ、戴宗に晁蓋を貸す……――
 替天行道の同志を、志が同じかどうかもまだ判然としない部外者に、貸す。

 是か、否か。

 しばし無言で考え込む宋江。結論は、しかし一分ほどで導き出された。懐から携帯用の墨壺と筆と書き付け用の紙を取り出すと、それにサラサラと返答をしたためる。
 諾、という旨の答えを。
 墨が乾くのを待つ。
 紙を畳む。
「――白勝殿」
 呼びかければ、返答を待ちながらうどんをすすっていた白勝がパッと顔を上げた。暗い所にいたネズミが急に明るい所に放り出されたようなビックリ顔をしている。
 宋江は、手紙を差し出す。
「これを、晁蓋に」
「へ、へい! ありがとうございます、宋の旦那! 晁の旦那も喜びます!」
 受け取った手紙を頭より高く捧げ持って、ペコペコと頭を下げる白勝。そのまま勢い込んで立ち上がり、ふと何かに気付いた様子で懐を探り始める。ここの勘定だろう。宋江は告げた。
「ここは私が持ちます。気にせずお帰りください」
「あ、ありがとうございます! さすが『及時雨』って呼ばれるだけあるお方だ! じゃあ、あっしはこれで――あ」
「? どうしましたか、白勝殿?」
「い、いや、実は……乗ってきた驢馬がぶっ倒れちまったのを、忘れてました」
 今いるのは鄆城県(「県」という語はある一定の地域を指すと同時に、その地域の中心となる城郭も指す)。この町から石碣村までは結構な距離がある。
 その距離を、よりにもよって驢馬で走ってきたのだ。道慣れた馬ではなく。
 倒れもするだろう、と宋江は苦笑した。
「よろしければ馬をお貸ししましょう」
「へ?」
「そして白勝殿の驢馬は、回復するまで私が面倒を見ます。後日、馬を返しついでに引き取りに来てくだされば結構です」
 何を言われているのか解らない、ときょとんとしている白勝へ、宋江は笑みを深めた。
「晁蓋に、早く届けてあげてください」
「――あ……ありがとうございますっ、宋の旦那!」
 深々と頭を下げてくる彼へ、再び宋江は苦笑いした。
 十数分後、白勝は宋江が貸した栗毛の馬に乗って鄆城県から駆け去っていった。

 

 宋江が今日二度目の天速星の暴走を察知したのは、それから四時間ほど後、夕陽が沈む頃合いだった。
 方向は北東――石碣村。
(戴宗……)
 見上げる空は、夕暮れのそれとはまた違う紅に染まっていた。見つめると何故か胸が張り裂けそうな思いに襲われる、それは戴宗の炎の色だった。
 息を詰めて北東の空から目を離さない宋江は、しかし戴宗を案じていたりはしなかった。
 感じるのだ。
 あの方角に、今まさに目覚めつつ星があるのを。
 天速星の――戴宗の、本当にすぐ傍らにあるのを。

 天罪星。

 その星が、

 今、


 ――――――――――――――――――目覚めた。


 宋江が感じるのは、清冽なまでの輝き。
 清々しく冴え渡る天罪星の光が、天速星の暴走を食い止めた。

 ああ、と宋江は詰めていた息を吐く。

 誰なのだろう。
 天速星を、戴宗を止めてくれたのは、誰なのだろう。
 あの子を止めてくれた天罪星の宿主は、一体どんな人物なのだろう。

 その人物に、宋江は早く会いたくて仕方なかった。

 

 時は、流れる。
 花和尚たちから報告――何濤が率いていた済州軍を撃退した事、戴宗が行方不明になった事、高俅が宿星軍の実働テストに自ら乗り出し、それがほぼ壊滅していた事――を受けたのは、戴宗行方不明から丸一日が経過しての事だった。
 それに対し宋江が出した指示は、
「戴宗を探す必要は、ありません」
 だった。
 翠蓮辺りはその指示を不審に思うだろう。だが現時点で花和尚たちに急ぎやってもらいたいのは、戴宗の捜索よりも官軍の攻撃でボロボロになった梁山泊の修繕、その内部の替天行道化だった。
 梁山泊を替天行道の拠点とするためには、今いる山賊たちを追い出すよりもこちらに取り込んでしまった方が良い、という判断だ。追い出すには杜遷、宋万、朱貴といった頭領たちはいささか手強く厄介で、味方に取り込めればこの上なく心強い。
 日に一度来る報告では、どうも彼らは替天行道に対し慎重な構えを見せているという。こちらと敵対しているわけではない。けれど翠蓮や林冲以外の替天の者たちに対しよそよそしく、手下たちにも無用な接触を禁じている、とか。
 彼らは一度、頭領に裏切られている。
 慎重論が出るのは当然だった。むしろ、力ずくで排斥しようという方向に傾いてくれなくて良かった。
 送り込んだ者たちは猛者揃いだから梁山泊の山賊に遅れを取るわけがなく、戦いになれば一方的な展開になりかねない。
 彼らを一掃したくは、ない。

 花和尚が林冲を連れて華州は花陰県の史家村まで行きたい、と申し出てきたのは、そんな膠着状態が五日ほど続いた頃だった。

 花和尚には、梁山泊における宋江の代理役を担ってもらっている。その花和尚が梁山泊を林冲と共に離れたいと言ってきたのは、梁山泊より史家村を取り巻く情勢の方が緊急性を帯びてきたからだ。
 開封府に潜り込ませている間者から、討伐部隊が華陰県に向けて放たれた、と報告が入ったのである。
 それもどうやら、童貫子飼いの精兵と高俅の宿星軍の残存兵による混成部隊らしい。いくら王進といえど、それらを相手取って無事では済まない。
 故に花和尚が林冲だけを連れて赴く。たった二人なら、その動きは朝廷の間者には察知されにくいし、敵部隊よりも道を急ぐ事が出来る。花和尚には他にもいくつか思惑があるようだが、宋江は全てに彼に任せる事にした。
 花和尚と林冲が留守にした梁山泊は、膠着よりも更に奇妙な凪の状態にあった。
 孫二娘や蒋敬など、人あしらいに慣れた者たちによって替天行道は梁山泊の中で好意的な立場に立たせてもらっている。
 それだけだ。
 そこから先に進ませてくれない。劉唐や蒋敬と主に話し合っているのは朱貴は中々の食わせ者らしい。替天に好意的な態度を見せてくれているのに、そこから先には冷厳とした態度で踏み込ませてはくれない。

 何か。
 何か、一石が必要だ。
 凪の水面をざわめかせ、水を掻き混ぜ、水底の泥を巻き上げる、嵐のような一石が、


 ――――来た。


「――梁中書が、済州府に?」
「はい頭領(ボス)、生辰綱強奪犯の捕縛を命じました」

 何故そんな命令が済州府に下るかと言えば、生辰綱が奪われた黄泥岡は済州の片隅にあるからだ。
 報告に来てくれた間者を下がらせ、宋江は考える。
 命令は下ったが、済州にはまだ届いていない。しかしそれもこの一日二日の事、一両日中に済州の知府は命令を受け取り、それを管下の全県に通達するだろう。
 この鄆城県にも。

 宋江は素早く手紙を書いた。それを懐に突っ込み、家を出て厩へ赴き、先日白勝が返してくれた栗毛の愛馬に乗ると、
「――あ、あれ、宋の旦那!? どこに行くんで!?」
「宋家村へ。父が風邪を引いたらしくて、少し見舞いに行ってきます。すみませんが、役所に欠勤届を提出しておいてください」
 ちょうどやってきた従者の小僧にそう言い残し、県城を出た。
 そして早朝の淡い光の中、一路東へ――

 東渓村へ。

 

 陽が高くなった頃、宋江は東渓村に着いた。
 人目を憚りながら晁蓋の屋敷に向かう。応対に出てきたのは白勝だった。彼は目を丸くして、
「こりゃあ宋の旦那――」
「おはようございます、白勝殿。晁蓋に会いたいのですが、会えますか?」
「へ、へい、晁の旦那は庭の方に――」
「失礼しますよ」
 皆まで言うのを待たず、宋江は敷地の中に足を踏み入れた。屋敷には入らず、そのままグルリと回り込んで直接庭へ。
 晁蓋は、葡萄棚の下の長椅子の上で手を枕に仰向けで寝ていた。
 顔に何かの本が乗っている。その本を寝転がって読んでいたが、飽きて、日差し避けに顔に乗せて寝た――そういう風情である。
 歩み寄ると酒の匂いがした。
 こちらの気配に気付いたのだろう、晁蓋が本を顔から外して気だるげな視線を寄越してくる。酔漢のそれにも似た眼差しの、澱んだ光が不意に澄みきり冴え渡った。ニヤリと不敵な笑みを見せる彼へ、宋江もまた微笑む。
「お邪魔していますよ、晁蓋」
「おう宋江。まぁゆっくりしてけ。――白勝、茶でも入れてやんな」
「へい、晁の旦那」
 宋江のあとを追ってきた白勝は、主人の命令を受けて屋敷の中に引っ込む。それを見送った晁蓋が「よっこらせ」と起き上がる。それから顔をしかめて頭を押さえた。
「二日酔いのようですね」
「おう。どうも飲みすぎちまってなぁ」
「いい事でもありましたか?」
「聞くか?」
 と、挑むように見上げてくる晁蓋へ、
「また次の機会にしておきます」
 宋江は顔を近付け、声をひそめて、告げる。


「梁中書が済州の知府に、生辰綱強奪犯捕縛の命を下しました」


 晁蓋の双眸が、鋭くすがめられる。

「三日の内に鄆城の捕り手が来るでしょう。逃げなさい、晁蓋」

 突き刺すように鋭く囁いた言葉へ――
 晁蓋が見せた反応は、こんなものだった。
「……何でバレた?」
「黄泥岡で大暴れしたでしょう」
 対して宋江は肩を竦めてみせる。いくら周囲に人家がなくても、街道での事だ、騒ぎすぎれば誰かは気付く――そういう事である。
 その一言で察したらしい、彼はチッと舌打ちしてみせる。
「しょうがねぇ、呉用に策を練らせるか」
「時間も人手もないでしょう。いくら彼が『智多星』でも、『三十六計逃げるに如かず』と言うのが精一杯ですよ」
「だがどこへ行けばいい? 滄州か? 登州か? 沙門島か? それともいっそ遼まで行くか?」
 という言葉は茶化す声音でいて、その奥にひそむ本気が聞き取れる。
 必要なら晁蓋は、北の遼国まで行くだろう。そしてそれは、「逃避行」では決してない。
「もっと近場にあるでしょう」
 首を傾げる晁蓋。宋江は言葉を継ぐ。
「梁山泊です」
「梁山泊……?」
 訝しげな声音だった。その調子のままの視線が宋江を射る。
「――何を企んでる?」
「企んでいる、とは?」
「戴宗の奴から聞いてるぜ。あそこは替天行道(お前ら)が取った場所じゃねぇか」
 晁蓋の口元に笑みが浮かぶ。

 目元の笑わない、警戒の笑みだ。

「俺たちを取り込むつもりか?」
「混ぜろ、と言ったのは貴方でしょう、晁蓋」
 切り返すと晁蓋は黙した。表情は変わっていないが、痛いところを突かれた、という雰囲気を放っている。
 宋江は思わず苦笑する。そして、そこでようやく懐から携えてきた手紙を取り出す。
「これを、劉唐という赤毛の男に渡してください」
 差し出された手紙を受け取る晁蓋。
「それで、最低でも一時的な避難場所として貴方方を受け入れてくれます。梁山泊を渡る手段については、戴宗がいるので大丈夫でしょう」
 戴宗が替天行道の一員である事は、もう知られているはずだ。しかし同時に梁山泊の一員なのだ。王倫や宿星軍の四人から梁山泊を守った功績もある。部外者を連れていても、受け入れてくれるはずだ。
 晁蓋は、受け取った手紙でヒラヒラと顔を煽いでいたが、しばらくしてからポツリと低く、
「……二つ、聞くぞ」
 と言った。
「まず一つ目。何でここまでする?」
「貴方が戴宗を助けてくれたからです」
 間髪を入れずに淡々と、宋江はそう返していた。
 きょとんと目を丸くした呆けた顔をする晁蓋は、かなりの間を置いてからようやく唇を動かした。
「――……石碣村での事か? あれの借りは、あいつを貸してもらった事で返してもらってると――」
「いいえ。あれは、戴宗への任務です」
「……は?」
 と、訝しげに首を傾げる晁蓋。
「貴方を通じて、私は戴宗に任務を与えたのです。――貴方たちの力になって、助けてもらった恩を返しなさい、と」
「だったらお前、そうやって戴宗本人に言やぁ――」
「普通に言っても聞くような子じゃないんですよ、うちの戴宗は」
 と、苦笑気味に肩を竦めると――
 晁蓋は、しばし唖然としていたが、ややあってからボソリと呻く。
「……だからあの手紙にあんな台詞が書いてあったわけか……」


 そうである。
 宋江はあの日、白勝に託した返書にこんな事を書いた。
 怪我をした戴宗を、晁蓋に預ける事。
 晁蓋の為したい事に戴宗を付き合わせてやってほしい事。
 そして戴宗がそれを拒否するようなら、口車に乗せて自分から引き受けるようにさせる事。
 晁蓋は首尾よく戴宗から引き受ける旨の言葉を引き出した。その結果が、済州の片隅にある黄泥岡で起こった生辰綱強奪事件だ。
 被害総額十万貫。梁中書が泡を食うのも無理はない。
 さて、それだけの金を一体何に使うつもりなのか。晁蓋の思惑は解らない。
 解っている事はただ一つ。

 托塔天王・晁蓋は、私欲のためにそんな事をする男ではない、という事だ。

 戴宗は、それを見て何を思ったか。
 何を、感じてくれたか。
 ――そう。
 宋江が晁蓋に彼を預けたのは、それが目的だった。
 替天行道屈指の問題児・戴宗は、常に宋江の悩みの種だった。行く先々で彼が起こす問題に、ではなく、彼の考え方、生き方、そういったものに、である。
 戴宗が替天行道の同志となった動機は、有り体に言えば復讐だ。幼くして父を理不尽に奪われた戴宗は、自ら鍛え、力をつけ、技を磨き、仇の高俅を殺そうと考えている。
 彼には、それしか見えていない。
 その傾向は替天行道に入ってから酷くなった。宋江はそれを危ぶんだ。まだ幼い戴宗がそんな殺伐とした視野狭窄に陥る事を見過ごすなど、出来るはずもなかった。
 だから戴宗を外に出した。与えた任務は情報探索と、悪徳役人や地主退治。特に前者は彼の性に余りにもそぐわない。花和尚や劉唐、張青らの反対を受けながら、けれど宋江は少年にその任務を与えた。

 中華を駆け巡れ、と。
 復讐だけではない「何か」を見てこい、と。

 少しずつ、戴宗は変わっていた。
 特に翠蓮と出会ってからは劇的だった。役人たちの探索の目を潜り抜けるためとはいえ、あの戴宗が――誰かと行動を共にする事をそれまで頑なに拒んでいた戴宗が、三日以上も他人と行動を共にしたのだ。
 それまでの戴宗からすると、それはとても画期的な事だった。
 しかし彼はとても不安定だ。視線と意識を外に向け飄々とする、と思いきや、ふとした瞬間己の内の憎悪をたぎらせ、それに囚われ、拘泥する。

 それはまるで、危ういバランスを保つ秤のようで。

 ――だから、晁蓋だ。
 晁蓋という男は大きい。
 途方もないほど、大きい。
 その器も、見ているものも、敵に回そうとしているものさえ。


 そんな晁蓋の傍にいる事が、戴宗に、どんな変化をもたらすか。 
 それはきっと、彼にとって望ましい変化であるに違いない。


 ぼやいた晁蓋へ、様々な思いのこもった微笑を向けた宋江は、話の先を促す。
「二つ目は?」
 と。
 晁蓋の眼差しが剣呑さを帯びた。
 獲物の様子を窺う獣の獰猛さがあった。
 果たして、晁蓋が口にした言葉は、

「――いいのか?」

 であった。
 何を聞かれているのか、問い直さなくても解った。だから宋江は、

「構いません」

 と、頷いた。


 ――晁蓋を、梁山泊に入れれば。
 間違いない。彼はきっと梁山泊を乗っ取り、君臨するだろう。
 何せ彼には呉用という、替天行道も喉から手が出るほど欲しかった優秀なブレーンがいる。
 白勝という、彼に忠実で情報収集に長けた部下もいる。
 阮三兄弟という、彼を慕い、彼に認められる事を望む勇猛な少年たちもいる。
 安道全や薛永のような、済州はおろかこの中華全土を見ても稀有で優秀な医師・薬師がいる。
 軍師、諜報、戦闘要員、そして医療従事者。これだけの人材が揃っていれば何だって出来るし、何もしなくても、これから官軍との戦いに本格的に突入する梁山泊に貴重な人材をもたらした、という功績だけである程度の地位と支持を得るだろう。
 その功績と彼らの存在は確実に、梁山泊にこびりついたままの王倫の残滓を洗い流し――

 同時に、替天行道の地位を押し下げる。

 最悪の場合、替天行道の頭領たる宋江が影の薄い、影響力や発言力の欠片もない存在にまで追いやられるかもしれない。

 だが、それを分かっていても――いや、分かっているからこそ、宋江は構わないと思っている。
 高俅の宿星軍が出てきた。
 それはすなわち、情勢は最早待ったなしであるという事。迫り来る嵐を前にして、どちらが頭分か、などというくだらない争いをしている場合ではない。
 敵を前にしてしなければならない事は、一枚岩にまとまる事だ。
 そして晁蓋には、それが出来る。
 喋るだけで言葉を聞かせ、佇むだけで道を開けさせ、歩むだけで背後に付き従わせる――そんな逆らいがたいほどのカリスマ性が、晁蓋にはある。
 宋江のような腹に一物ある者も戴宗のような心に傷と闇を抱える者も平気で受け入れてしまう、空恐ろしくなるほどの包容力も。
 彼ならきっと、梁山泊内の膠着した状況を鼻で笑って打破してくれる。替天行道も梁山泊も飲み込んで、一緒くたに「仲間」にしてしまうだろう。

 今の梁山泊に必要なのは、晁蓋だ。
 宋江ではない。

 そして宋江は、晁蓋を頭領に立たせる事が朝廷と戦っていく上で必要不可欠な要素であるならば己は一兵卒でいい、とそこまで考えている。


「――……分かったぜ、宋江」
 長い黙考の末、晁蓋はそう応じた。
 溜め息のような声だった。
 しかしすぐに力が宿る。

「梁山泊は、俺がいただくぜ」

 構わない。
 構わないとも。
 志がある。
 為さなければならない事がある。
 そのためならば何だって捨てられるし、裏切れるし、利用できる。家族も、友も、同志たちも――
 自分自身でさえ。
「――はい」
 万感の思いを込めて、宋江は、頷く。
 すると晁蓋は、
「だから」
 と、不意に笑みを見せたのだ。
 悪戯を思いついた少年みたいにキラキラと、生き生きと。
「俺の隣、呉用と反対側の椅子を空けて待っててやるから、お前も早く来いよ」
 宋江は僅かに瞠目した。
 待っててやる。
 早く来い。
 ああ、

(晁蓋、貴方という人は――)

 利用してしまおうと思っている宋江に対して、何という言葉を告げるのだろう。
 己の志のために旧友を、何となれば捨石にしてしまおうとしている宋江に対し、何と楽しげな笑みを見せるのだろう。
 戴宗を、この男に預けて正解だった。
 宋江はそれをどうしようもないほどに痛感する。
 そして、自分と同じ時代にこの男が生まれてきてくれた事を、天に感謝する。

 ようやく表情を取り繕う宋江。浮かべるのは先程と同じく笑顔だ。
 しかし、それはまるで贈り物を目の前にした子供のようで、
「――はい。貴方も気に入る同志たちと共に」

 

 ――そしてこれらの言葉の通り、晁蓋は梁山泊の第一の頭領となり、受難の旅の果てにたくさんの同志を得た宋江は、晁蓋に次ぐ第二位の頭領となる。

 

 

 

 何かラストが明星二次というより原典二次っぽくなってしまったが気にしない。
 というわけで、『ファントムペイン』番外編でした。
『ファントム〜』の裏側では宋江さんと晁蓋さんがこんな感じで暗躍してましたよ、というお話。ちなみに宋江さんと晁蓋さんが旧友設定なのは簾屋の妄想です。この二人が明星でどうなっていたかは誰も知らない。教えて、偉い人。

 宋江さんの腹は白いか黒いか、という論争が某ツイッター上でありまして(論争ってほど大層なものではない)。
 いつもお世話になっているY様が書かれる宋江さんは「白」、C様の宋江さんは「黒」で。
 では簾屋の書く宋江さんは?
 答え――灰色。
 志のためなら何でも犠牲に出来ると思っているけれど、実は皆に幸せになってもらいたい、そんな甘いところが抜け切らない宋江さんを書いてみた――けれど何か失敗した感の否めない簾屋でした。

 

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