米櫃を開けたらスッカラカンだった。
財布を覗いたらスッカラカンだった。
原因――亭主の暴食(「暴飲」が入っていないのが唯一の救い)。
「……どうしよう」
と途方に暮れた翠蓮は、背後で、
「ねー母ちゃん、今日の晩飯なーに?」
「おなかへったぁ」
「うわぁんおねーちゃんおやつとったぁ〜」
旦那譲りの胃袋を持って生まれた可愛い我が子たちが様々に空腹を訴えるのを聞く。戴家のエンゲル係数は少々、いやかなり致命的だ。
兄一人と姉二人の騒ぐ声にもむずがらない、何か生まれて早々人生を達観したようなところのある背中の次男(生後八ヶ月)を無意味にあやしながら、翠蓮は一つ思いついて小麦粉の残量を確認する。
家族全員分の饅頭を作るには足りないが、すいとんを作る分くらいはある。
「――よし」
夕飯のメニューが決まった。翠蓮はおんぶ紐をほどくと、次男を長男に抱かせた。
「信、才の面倒を見ててね。小玉と素蘭も、お兄ちゃんと一緒にお留守番をお願いね」
「母ちゃん、どこ行くの?」
弟を危なげなく抱っこする長男に、翠蓮は微笑んだ。土間に置いておいた大きな背負い籠を背負い、袋も持って、
「お夕飯、採ってくるの」
我が思い出の草粥
今住んでいる(正確には潜伏している)村のすぐ裏手には山があり、これが山菜や野草の宝庫である。
そして翠蓮は地獣星の宿主だ。迷っても動物さえいれば道を教えてもらえる。だから遠慮なく村人たちも入っていかないような奥の方へと行けば、手つかずの山菜・野草がもう採り放題でウッハウハという寸法だ。
もちろん採りすぎには注意して(根こそぎ採るのはルール違反!)。
籠いっぱいの山菜・野草に、採取中に偶然見つけた貴重なタンパク源すなわち蛇を三匹ばかり捕まえて袋に入れて口を締めて、
「ただいまー」
「お帰り母ちゃん!」
「ごはんまだぁ?」
「おなかすいたぁ〜」
「はいはい、今作るからちょっと待っててね」
まるでエサをねだる鳥の雛だ。足元にまとわりついてくる子供たちを宥め、翠蓮は夕食の準備に取りかかった。
まずは各種山菜と野草。物によってはそのまま食べられるそれらだが、今日見つけられたのはどれもあく抜きしないととても食べられない物ばかり。翠蓮はザッと洗った山菜と野草を水を張った大鍋に放り込み、火にかけた。
土間のかまど、ではなく、外で焚いた火である。
というのも、いちいちあくを取るのが面倒なのだ。吹きこぼさせてしまうのが一番手っ取り早い。が、土間のかまどでそんな事をやれば後始末が実に厄介だ。
なので、外でやる。物干し竿の下で火を焚き、吊り鉤を取りつけて大鍋を吊るし、こういう時にうちの人がいてくれたら楽なんだけどと思っている内に鍋の水が沸騰してあくが吹きこぼれる。ジュワァァと火が消える。翠蓮は鍋の中の山菜と野草を一つ残らずざるに上げると土間に戻って水洗い。
これで、以前薛永に教わった下処理は完了だ。
やっと料理に取りかかれる。
まずはかまどに火を入れ、水を張った鍋を火にかける。
続いて籠に入れたままだった袋から一匹ずつ蛇を取り出し、迷いも躊躇いもなく包丁でダンッ! と頭を落として、背開き。骨、内臓、皮を取り除き、血を洗い落とす。肉は軽くあぶって、骨と一緒に鍋に入れた。蛇って出汁が出るかしら、という根本的な疑問が翠蓮の脳裏をチラリとかすめたが、まあ、何とかなるだろう。
それからあく抜きした山菜・野草の内の半分を食べやすい大きさに切り、これも鍋へ。筋張った物もあるから、ちゃんと煮ないと子供たちは食べにくいだろう。
そこで鍋に蓋をして、彼女が続けて取りかかったのはすいとん作りだ。残っている小麦粉を水でこね、練り、まとめて、更に練ってこねてを繰り返し、表面の滑らかな、子供の頭大のすいとんの生地が出来上がる。
鍋の蓋を開け、おたまで煮汁の味を確認。蛇の出汁は出ている……気がする。
戸棚からつぼに入れた味噌(これも残り少ない)を取り出し、おたまですくって鍋の中で溶く。味見。塩や山椒などの香辛料で味を整え、ここでやっとすいとんを千切って鍋に投下。明日の朝ご飯の分を残し、入れ終えて再び蓋をする。
そして待つ事しばし、
「――帰ったぞ、翠蓮、チビども」
「あ、父ちゃんお帰り!」
「お帰りなさい、あなた」
帰ってきた愛しの夫・戴宗へ、翠蓮は微笑む。
「ご飯にしましょう」
鍋の蓋を開ければ、食欲を誘う温かな夕餉の香が広がった。
――が。
どうしたわけか、戴宗は鍋の中身を覗き込んで奇妙な表情を見せた。その表情は、
「えぇ〜? きょうのごはん、ざっそう〜? おにくたべたいぃ〜」
と、父親と全く同じ食の嗜好を持つ長女が見せた、好き嫌いの表情によく似ている。
が、少し違う。
嫌いな、食べたくない物を出された――そのげんなり感以上に、何か切なさを帯びた色が目につく。
「雑草じゃありません。山菜と野草よ。お野菜みたいなものだから、ちゃんと食べなさい」
「ざっそうなんかヤダぁ」
「いい? 『雑草』なんて植物はないの。どんな植物も、毒を持っている物以外は、ちゃんとお料理すれば食べられるのよ。お母さんの料理、小玉は美味しくないと思う?」
「……おいしいけどぉ」
「じゃあ食べてみなさい。それに、お肉も今日はちゃんと入ってるでしょ?」
「こんなんじゃたりねーわ」
その言い草は昔の戴宗そのものである。翠蓮は思わず笑みを漏らすと、
「じゃあ、お母さんのあげる」
と、自分の椀から蛇肉のきれを取り上げ、娘の椀へと移した。現金なもので長女は曇らせていた表情をパッと輝かせると、歓声と共に食べ始める。上の息子も下の娘も美味しい美味しいと夢中で食べてくれている。
今日も元気な子供たちに目を細め、下の息子にも食べられるよう味つけや具の大きさを変えた雑炊を匙ですくって食べさせ――ふと、気付く。
戴宗の様子が、更におかしい。
奇妙な表情は奇妙な表情なのだが、今はさっきと違って、何か信じられないものを見る表情で椀を見下ろしているのだ。
そして、いつもだったらこちらが目を剥く速度で一杯目を平らげ、二杯目を口に流し込み、大人気なくも三杯目を子供たちと争う、という食べっぷりを見せるのに――今日は、どういうわけか箸が中々進まない。
山菜を、一口。
すいとんを、一口。
そして味噌仕立ての汁を、一口。
その度に戴宗は、苦虫を噛み潰しているような、古傷を直視してしまっているような、苦々しくも痛々しい表情を浮かべ――
「――……ごっそさん」
「あなた?」
「もう寝る。父ちゃんの分も食っとけ、チビども」
「「「は〜い!」」」
更に食べる勢いを増す子供たちの傍で、翠蓮はさっさと寝室へ引っ込んでいく、実にらしくない夫の背を唖然と見送った。
子供たちの旺盛すぎる食欲によって、鍋いっぱいの山菜雑炊は空っぽになった。
後片付けをして、子供たちを寝かしつけて、翠蓮は寝室に入る。
早々に引っ込んだ夫は、着替えもせず布団もかぶらず、ただ寝台の上で横向きに寝転がっていた。翠蓮のいる入り口側に背を向けているから、表情は窺えない。
口元に浮かんだ苦笑と共に、翠蓮は彼の足元に腰を下ろす。
「どうしたんですか、あなた?」
「……別にぃ」
「お腹、空いてなかったんですか?」
「……別にぃ」
「美味しくなかったですか?」
「…………」
戴宗は、答えない。
美味しくないわけがない――と、思う。自炊は子供の時からしていたし、替天行道に入ってからは孫二娘や朱貴にみっちり仕込まれた。それはもう、鞭を振り振りチィパッパ的なスパルタ教育で。特に結婚前。おかげで、料理上手な二人の味に慣れている戴宗の舌を満足できる料理を作れるようになったわけだが――
今日の夕飯は、よく作れたと思う。
子供たちも、美味しいと言ってくれた。
子供たちが満足したなら、同じような味覚と嗜好を持つ夫も満足させられるはずなのだが……。
戴宗は、答えない。
こっそり溜め息を吐く翠蓮。何か拗ねさせるような事をしたかしら、と己の今日一日の行動を振り返る。もちろん心当たりはない。
やっぱり夕飯が原因としか思えなかった。
と、
「――あなた?」
戴宗が不意に起き上がった。そして翠蓮の方に表情を窺わせないようにしながら体勢を変え、
――ポスッ。
翠蓮の膝に、頭を乗せて横になった。
「……戴宗さん?」
少し、驚いた。
だから結婚する前のような呼び方をしてしまった。
それに応えるように、モゾリ、と動く戴宗。しかし応える動きではなかった。うつ伏せがちになって、顔を膝に埋める。頑ななまでに表情を見せたがらないのは、一体どうしたのか。
「どうしたんですか?」
戴宗は、応えない。
拗ねているんだか甘えているんだか判らない行動の原因は、不明。
これはもう好きにさせておくしかないか――と、再び溜め息を吐こうとした、その時。
「――――俺の、父ちゃんが」
戴宗の囁いた言葉に、翠蓮はヒュッと息を飲む。
戴宗の、父。
非業の死を遂げた鍛冶屋・洪信。
「よく、草粥を作って」
……やっちゃった。
翠蓮は思う。思い知る。
……私、やっちゃったんだ。
米櫃も財布もスッカラカンで、山で山菜や野草を採ってくる以外に選択肢はなかった。
なかったが、雑炊を作った事を翠蓮は後悔する。
「父ちゃんの草粥は不味くて、俺は嫌いだった。青臭くて、ザラッぽくて、口に変な味が残って……今日、お前が作ってくれた雑炊の方がずっと美味かった。けど……」
けど。
それでも戴宗にとって、草粥と言ったらその不味い草粥なのだ。
洪信が作ってくれた、母の味ならぬ父の味。
知らなかった事とは言え、翠蓮は、その思い出に土足で踏み込んでしまったのだ。
ああ、と嘆息する翠蓮。
戴宗がどれだけ亡き父を思っているか。
戴宗がどれだけ亡き父との思い出を大切にしているか。
それを知っていたはずなのに、ああ、何て事を――――――
密かに顔を覆った翠蓮の耳に、戴宗が「けど」の先を続けるのが、聞こえた。
「けど……俺の父ちゃんが実は料理下手だった、なんて、思いたくなくて…………――――」
………………………………………………
はい?
首を傾げ、顔を覆っていた手をどけると、翠蓮は膝の上の夫を見下ろした。
「……あなた、お義父さんって……」
言いかけて、気付く。
山菜・野草の料理の仕方を教えてくれたのは薛永だ。その薛永が言っていたではないか。どんな草も、毒を持っている物以外、下処理さえきちんとやれば(味はともかく)食べられる、と。
青臭い。
ザラッぽい。
口の中に変な味が残る。
これはつまり、
「……草粥に使った野草のあく抜き、ちゃんとやってなかったんですか?」
「……そこまでは知んねーなぁ……」
拗ねているとか甘えているとか養父の思い出に浸っているとか――
間違っていた。勘違いしていた。
この人は単純に、げんなりしただけだ。二十年以上経った現在、今更のように明らかになった知りたくもない新事実を前にして。
「……なぁ翠蓮」
「はい、あなた」
「腹減った」
「ちゃんとご飯を食べないからです」
「雑炊、残ってねぇ?」
「子供たちが綺麗さっぱり食べちゃいました。残った材料は明日の朝ご飯の分ですから、作り直しは却下です」
「……朱貴んトコでギガ豚マン食ってくるかぁ」
「そうしたいんでしたらお金を稼いできてください、今すぐ」
いつになく辛辣な妻に、戴宗は膝に顔を埋めてボソボソと呻いた。
「……笑えねー」
「こっちの台詞です」
今日も今日とて、戴家は平和である。
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