目を覚ますと、黄色と桃色が入り混じった絶妙な色合いの淡い光の中、視界の中央に青い牡丹があった。
「……………………」
一つ、二つと瞬きして、小五は徐々に働きだす頭で思考する。そうして数秒、じっくり見つめてようやくそれが親友の背中の刺青である事に思い至る。
寝ぼけ眼でもそりと起き上がった小五は、隣でこちらに背を向け、心持ち体を丸めて寝入っている親友・燕青の裸の肩を揺すった。
「おい、燕青、起きろって」
「――ん……」
揺すられ、呼びかけられ、燕青は覚醒へと向かう。色気さえ感じさせる吐息のような声と共に体を更に丸めて、億劫そうに床に手を突き、上体を起こすと同時に伸びをする。ついでに欠伸。
それが何だか猫みたいで、小五は思わず吹き出した。燕青は気だるげな仕草でにじんだ涙を拭うと、眠気が残って剣呑な色をたたえた眼差しを寄越してくる。彼は寝起きが余り良くない。別に、朝に弱いわけではないのだが。
「……何笑ってんのさ、小五」
「何でもねぇよ」
口ではそう言いながらもまだ笑っているこちらを一睨みし、しかし不意に燕青は表情を改めた。対峙する胡坐をかいた小五の体をまじまじと見つめ、それから自分の体を見下ろし、
「……うわぁ」
と、控えめだが、それ故に限りなく嫌そうな呻き声を漏らした。そしてげんなりしたようなうんざりしたような、まあとにかく「うわぁ」としか表現しようのない嫌そうな表情に見せ、
「え? 何これ? ちょっと待ってちょっと待って。あの、もしかして、僕ら……やっちゃった?」
「あれ? 覚えてねぇの? あんだけ楽しんだのに?」
「変な事言わないでよ小五。……うっわー……マジで……? 僕とした事が……」
うんざりと呻いて頭を抱える燕青。口調、言葉の端々から、昨晩の記憶がまだあやふやなのが窺える。
それもそのはず。昨晩は飲んだ。とにかく飲んだ。しこたま飲んだ。小五は同志の中でも割と強い方だが、燕青は小五ほどではない。寝乱れて崩れた結い髪が裸の胸に垂れ下がる様は、痛飲した自分を恥じる燕青の心情を如実に表わしているようだった。
そう――
小五も燕青も、ほぼ全裸だった。
そんな格好で床に寝転がっていたものだから、体はすっかり冷え切っている。常人ならとっくにガタガタ震えてくしゃみを連発させているところだ(何せ今はまだ春も浅い時分である)。小五も燕青も常人ではないけれど。
燕青がうなだれている傍で、改めて辺りを見回す小五。着物はどこに脱ぎ捨ててしまったか。あ、あったと口の中で呟いて少し離れた所に転がっている自分と燕青の着物を拾いに行こうと立ち上がりかけた小五の手が、グイと引かれる。
燕青だった。
きょとんと見下ろす。ギ、ギ、ギ、と軋んだ音でも立てそうなぎこちない動作で小五を見上げてくる燕青は、ひどく恨みがましい光を双眸にたぎらせている。
そして口を開けば、漏れ出すのは地を這いずるかのように低くおどろおどろしい声で。
「――――責任取ってよ、小五」
「へ?」
「君のせいだ。君のせいで、僕はこんなに汚れて……――くっ……!」
こらえきれずに顔を背ける燕青。小五は少し困った顔で頬を掻く。
「汚れて、って……燕青は綺麗じゃんか。汚れてなんかねーよ」
「そんなありがちな口説き文句が聞きたいんじゃない! 僕の心は確かに汚れたんだ! 僕のプライドはズタズタのボロボロだよ! こんな衆人環視の中、君に――」
と、燕青は声を詰まらせた。
小五の手を掴んだままの彼の手に、力がこもる。
それがもたらす痛みを感じてようやく、小五は罪悪感を覚えた。
昨晩の、あの時――燕青は、決して嫌そうな素振りを見せなかった。確かに勘弁してよ、と言われたけれど、酒に酔ってほのかに朱に染まった顔は笑みをたたえていて、言葉ほど嫌がっている風ではなくて。
だから小五は、いいと思ったのだ。そのまま続行し、実行だ。
だが……そうか、燕青は、本当に嫌だったのか。親友のそんな心の機微も読めないなんて。すまない事をしてしまった。心の底から小五は思う。
改めて燕青の傍に座り直した小五は、浅くうつむいた燕青が目に涙を溜めているのを見た。
そして彼は、震える声で呻く。
「――――――――――君につられて、この僕が、この浪子・燕青が、水軍式裸踊りをするなんて……!」
「うん、ごめん」
「軽いっ!」
謝ったのに怒鳴られてしまった。
叱られた子供のように首を竦めるほぼ全裸(下穿きはつけている)の小五は、今更のように昨晩を振り返った。
戴宗が、晴れて結婚する事になった。
相手は言うまでもなく翠蓮である。じれったいほどの紆余曲折の果てに(そして小五と燕青の介入のはてに)二人は今日、ようやく夫婦となる。
同志総家族の替天行道が、こんな大イベントを放置するわけがない。梁山泊を挙げての祝賀ムードに突入した。
で、昨晩、つまり結婚式前夜。
独身最後の夜という事で、戴宗と翠蓮はそれぞれ別個に拉致られた。翠蓮は扈三娘に孫二娘の店へ、戴宗は小五と燕青に朱貴の店へ。祝福したりからかったりしながら、独身である事に別れとけじめをつけさせるべく二人にハメを外させようとしたわけだ。
翠蓮の方がどうなったか、はさておいて、こちらである。
林冲やら劉唐やら王定六やら、その他諸々、特に結婚式の準備に関わらない暇な連中が集ってのどんちゃん騒ぎ。説教する者、泣きだす者、投げられる者、ひたすら酒を飲み続ける者、酔った勢いで乱闘を始める者、気が付けば気絶するように寝落ちしている者。
当初の目的の通りカオスな酒宴になる中、小五は酔ったテンションでつい脱いでしまい。
酔っ払った燕青にも脱げ脱げとあおって、水軍式裸踊りに付き合わせ。
林冲に絡まれていた戴宗のテンションがまだ上がりきっていないと見て、更に飲ませ。
しかし戴宗は実は燕青よりも更に弱くて、顔色も変わらないままバタンと卓に突っ伏し寝てしまうものだから、燕青と二人して指差して大笑いして。
そうやって騒いでいる内に、小五も燕青もいつの間にかぶっ倒れて――
現在に至る。
小五から手を放し、今まで作り上げてきた僕のイメージが、だの、旦那様に申し訳が、だのとブツブツこぼしている親友をほったらかしにして、店内を今更のようにグルリと見回す。
日が昇る直前の薄明かりに照らされて、朱貴の店の中は酷い有様を小五に見せつけた。
死屍累々たる酔い潰れた男たちの山、山、山。花和尚のいびきは酷く、王定六は兄貴ぃ〜と寝言を漏らし、林冲はどういうわけか戦袍を諸肌脱ぎにして卓の上で大の字になっている。林冲を脱がせた覚えはないんだけどなー、と首を傾げる小五。宴会で脱ぐのは、大体阮三兄弟を初めとする水軍関係者である。
どいつもこいつもグースカピーヒョロ、蹴っ飛ばした程度では起きなさそうな様子だ。どうしよっかなこれ、と小五は引きつった笑みを浮かべる。そして蹴っ飛ばしても起きなさそうな連中の中に、器用に椅子に座った姿勢のまままま仰向けに倒れているもう一人の親友を見つけた。
その姿に、思わず唖然とした。
「――なぁ燕青」
「大っ体小五はさ」
「あれ、どうする?」
「いっっっつもノリだけで行動して――って、何?」
「あれ」
指差す。
指が示す先を訝しげに見やって、燕青は、げんなりと顔をしかめた。
戴宗は、何故かゲロにまみれていた。
と言っても、胸から腹にかけて誰かの吐瀉物を浴びているだけだ。頭や顔にかかっていないのが幸いか。顔をしかめて歩み寄った二人は、何とも言えない表情で顔を見合わせた。
「……どうする?」
「さすがにこのまま放置は出来ないよ。酒臭いし」
「結婚式だもんなー」
「第一、酒と吐いたものの臭いをプンプンさせて侯健さんが仕立ててくれた礼服を着せて翠蓮さんの隣に座らせるなんて、僕と君的にアウトでしょ」
「だな」
それは、言ってみれば二人の恋を陰に日向に応援してきた者のプライドという奴で。
だからこそ、今日の一大イベントを成功裏に終わらせないといけないのだ。
と、いうわけで。
小五と燕青は、決意を固めた真剣な表情で顔を見合わせると、一つ頷きあって――
小五が右足を、
燕青が左足を、
それぞれ小脇に抱えて、戴宗をズルズル引きずり始めた。
「とりあえず井戸に行っとく?」
問うてくる燕青へ、
「湖にそのまま投げ込んじゃおうぜ。その方が早いし」
小五は、彼にしては珍しくやや無責任な口調でサラリと言い放つ。
「そうだね。その方が酔い覚ましにも目覚ましにもいい」
燕青はあっさり同意する。
ズルズルズルズル。戴宗の頭を床にこすらせながら(時折何か、多分倒れている誰かの足にぶつかったり、ゲロに突っ込んだりしてしまっているが、まあ気にしない)、二人は店の外へと向かう。途中、脱ぎ捨てたままだった自分たちの着物を拾う。
「戴宗が溺れたら……まあ、小五がいるから平気か」
「おう。ついでに俺たちも水ん中に飛び込んどこうぜ。酒臭いまんま式に出るのも駄目だろ」
「どうせまた宴会になってたくさん飲むんだろうけど」
「ま、その時はその時」
そう言って小五はワハハといつものように笑う。つられて燕青もクツクツと笑う。
店の外に出る。地面をズルズル引きずっても親友は目が覚めない。どうした事やら。まあどうでもいいか。二人はとっとと梁山泊の湖岸を目指す。朱貴の店のすぐ傍にある桟橋に立つ。
戴宗の様子を確認したら、まだ寝ていた。
「すごいなー、戴宗」
「ここまで引きずってこられて起きないなんて、戴宗らしくないね。そんなに飲ませたっけ?」
「三杯くらいしか飲ませてねーよ?」
「丼だよね、その三杯。――まあいいや、とっとと湖に投げ込もう」
そうだな、と小五は頷いて、戴宗の足を離してゲロまみれの胴を掴む。燕青もまた胴を掴み――ふと、考え込んだ。
「どうした、燕青?」
「ん? いやさ」
と、楽しそうに笑う燕青。
「こういう時って、『リア充氏ね!』とか『爆発しろ!』とか言うのが礼儀なのかな、って思って」
「……それ、燕青が言う台詞じゃないよな」
だって燕青である。浪子と呼ばれているのは伊達じゃあない。
モテるんだな、これが。
「駄目かな? 決まった相手が出来ない僕からすれば、戴宗ってリア充なんだけど」
「俺からしたらお前も十分リア充だよ」
「ちっ……駄目か」
舌打ちしてまで悔しがるような事か。
何だか知らないが、そんな燕青の様子を見ていたらおかしくなってきた。ブッと噴き出してしまう。
何だよ、と半眼を向けてくる燕青に、小五は笑っていった。
「まあ、いっか! それ言って投げてやろうぜ!」
「……そう来なくっちゃ」
二人は不敵に笑いあって、戴宗の体を持ち上げる。
そして、
「リア充氏ね!」
「爆発しろ!」
笑顔と共に叫んで、親友の体を湖に叩き込んだ。
派手な水音、水飛沫、それらに僅かに遅れて聞こえてくるやっと目が覚めた親友の悲鳴。二人は大爆笑しながらバチャバチャ暴れる戴宗の元に向かって飛び込む。
本日、結婚式。
天気だけは、愛を誓うに相応しい晴れ模様である。
愛を誓う日 |