――そして戴宗は、冷ややかにぶっきらぼうに言い放った。
「翠蓮、おたくと一緒にいるのはもうこりごりだ」
朧月夜の闇の中、傍らの翠蓮が目を瞠ったのが薄ぼんやりと見えた。
「そもそもこんな事になったのだって、翠蓮、おたくが伏魔之剣を置いてけとか言ったからだ。伏魔之剣さえありゃあ、あんな奴に遅れを取る事なんかなかった。
動物と話すしか能がなくてろくに戦えないくせに、俺の足を引っ張るなんざ――笑えねぇ」
あなた。翠蓮の小さな囁きが、戴宗の鼓膜を震わせる。
責めるでもすがるでもない、ただただ呆然とした囁き。それを斬って捨てるかのごとく、戴宗は冷たく言い切った。
「俺は、一人で戦う」
翠蓮は動かない。
「俺の戦いを、復讐を邪魔するような女と一緒になんかいられねぇ。替天もだ。俺は替天を抜ける。替天を抜けて一人で戦う。
逃げるんなら一人で逃げればいい、翠蓮。俺はもう、おたくの面倒は見ねぇ」
身じろぎどころか瞬きさえしない。
その翠蓮に――妻である女に戴宗は背を向け、
「じゃあな」
「あなた――」
彼女が、続けた言葉は、
弱き者、汝が名は
「笑えねぇ」
戴宗の漏らした舌打ち混じりの囁きは、疾駆の速度に流されてあっという間に後ろに置き去りにされた。
幸いにも今日は薄曇りの朧月夜。天下の東京開封府は繁華街なら夜でも皓々と明るいが、そこから離れた住宅街の闇は濃い。この暗がりに潜んでいければ、逃げきれる――
と思った時、耳に微かに届いたのはヒュンッという小さな風切り音。背筋を戦慄が駆け抜け、戴宗は跳躍した。勢い余って宙で縦に半回転、足を天に頭を地に、逆さまになって戴宗は後方を確認する。
次の瞬間、
ドゴォッ!
戴宗が足を踏み切ったすぐ後ろの敷石が、爆ぜた。
四方に飛び散る破片。それは中空の戴宗の顔めがけて飛んでくる。戴宗はとっさに左肩の上辺りに右手を伸ばし、しかし握った手が空を掴むのにハッとする。
そうだ、伏魔之剣は、
(――家だ)
『――あなた、まさか伏魔之剣を背負っていくつもりですが?』
『ぁあ? 当たり前だろ』
『馬鹿言わないでください! 前は勧誘(スカウト)でしたけど、今回は調略のための潜入なんですよ!? 目立たないよう髪も染めたのに、伏魔之剣を背負っていったら全部台なしじゃないですか! 置いてってください!』
『あぁん? 置いてくなんて笑えねーな。台なしかどうかは俺が決める!』
『台なしになります! 全部台なしになります! 頭領(ボス)や呉用さんや盧俊義さんや燕青さんや蔣敬さんや、この調略の段取りを組んだ色んな人が泣いて怒って倒れます! 置いてってください!』
翠蓮がそうやって余りにもギャアギャア言うから、仕方なく伏魔之剣を家に――
「――ちっ!」
舌打ちと共に、戴宗は左肩の上に伸ばしていた右手を振った。
手の甲から手首にかけて重く走る衝撃と痺れ、遅れて痛み。飛んできた敷石の破片をかろうじて右手で払い落として、戴宗はそのままもう半回転し、路面に着地した。
と同時に肩越しに背後を振り返る。
まさにその時、雲の切れ間が月明かりを地上に投げかけた。白々とした光がサァッと差し込み、戴宗より十数メートル後方にいる追跡者――いや、襲撃者の姿を僅かに浮かび上がらせる。
意外にもそれは、貴公子然とした優男であった。
上等な袍を少し着崩している姿は、遊び慣れた良家の子息という印象を与える。その左手には弾弓という、矢ではなく球形の弾を飛ばすための小型の弓。軽く握られた右手の中には、おそらく金属製の弾。
人相の悪い男を貴公子が追い詰める――それは、「佳人にちょっかいをかけたゴロツキを懲らしめる貴公子」という安い芝居に掃いて捨てるほどあるシチュエーションのように、何も知らない者の目には映る事だろう。
もちろん現実は、そんな可愛らしく優しいものではない。
その証拠に――男の持つ弾弓に、淡い光が宿っている。
すっかり見慣れた魔星の光。
宿星軍だ。
痛みを訴え始めた右手を庇いながら戴宗が身を翻すのと、男が弾をつがえて撃ち出すのとはほぼ同時。戴宗の動きを止めようと足の腱を狙った弾は、こちらの動きがほんの一瞬だけ速かったがために、腱ではなく地面を蹴った爪先のすぐ傍の路面を穿った。
爆発に等しい着弾の衝撃は、敷石を弾けさせて破片を四方八方にばら撒く。そして駆けようとした戴宗の姿勢を盛大に崩す。よろめき、転げ、ザリリと音を立てながら、埃っぽい路面に頬を体をこすらせる。
くそっ、と口の中で小さく毒づく戴宗。流星の戴宗ともあろう者が、こんな無様な姿を敵の宿星にさらさなければならないなんて、
「――笑えねぇ」
呻いた拍子に鉄臭さが口の中に広がった。転がった拍子に唇の端をすり剥いたか切ったかしたらしい。
何という無様。ますます笑えない。
それもこれも、
(――翠蓮が)
路面に手を突き、身を起こし、同時に腿とふくらはぎと爪先に力を込めて、
(翠蓮の奴が、伏魔之剣を置いてけなんて言いやがったから)
地を、蹴る。
魔星の力は、己と縁の深い武器に宿してこそ発揮される。だから伏魔之剣を持たない今の戴宗は天速星の力を使えない。
(雑魚相手に戦えねぇなんて、笑えねぇ)
だからと言って生来の、そして鍛え上げた素早さと脚力が全く生かせないわけではない。戴宗は再び夜闇の路地を駆ける。あっという間に人間離れした速度を得る。
その戴宗の背に迫る、魔星の力を宿した弾弓の弾。弓弦の鳴る音と弾丸の風切り音だけを頼りに回避していく彼は、戦えない事に歯噛みしていた。
(伏魔之剣さえあれば)
曲がり角を曲がる。
(こんな奴、一瞬で)
すぐ後ろで弾弓の弾が誰かの家の塀を轟音と共に砕く。
(一瞬で片付けられるのに――!)
寡黙な狙撃手は、だんだんと逃げるこちらに焦れてきたらしい。戴宗を襲う弾の数が劇的に増える。
雨あられとばかりに襲いかかり降り注ぐ弾丸。
砕ける敷石、塀。弾丸と同じ鋭さと容赦なさと無差別さで襲いくるそれらの瓦礫。
もうもうと立ち込め、視界を覆い隠す砂埃。
折りしも雲が再び月を隠し、――弾丸の雨が、不意に、やんだ。
(――今だ)
戴宗は疾駆の速度を上げた。敵が自爆のごとくこちらの姿を見失った今が好機と、今度こそ全速力で真っ暗闇の路地を駆ける。粉塵の煙幕を抜け、また一つ角を曲がった時、闇に慣れた目が見慣れた景色を捉えた。
潜伏のために借りた家の近くだ。
家に戻れば伏魔之剣が。そう逸る心が戴宗の足を更に加速させる。
走る。走る。走る。
駆ける。駆ける。駆ける。
家はすぐそこだ。
伏魔之剣はすぐそこだ。
伏魔之剣さえあれば戦える。
伏魔之剣さえあれば倒せる。
走れ。走れ。走れ。
駆けろ。駆けろ。駆けろ。
そうして見慣れた角を右に曲がり、翠蓮の待つ借家が見えたその時、
強烈で濃密な殺気を、背に。
直後、轟音と衝撃と瓦礫の嵐が吹き荒れた。
「――――っ!」
耳を聾するほどの激しい破砕音。
走るどころか立ってもいられないほどの衝撃と震動。
そして上からも横からも下からさえ戴宗に向かって襲いかかってくる瓦礫と粉塵。
体勢を崩し、路面に転がりながら身を丸めた戴宗の耳に、轟音の合間を縫って悲鳴が無数に聞こえてくる。何だこれ。一体何が。痛い。助けて。お父さん。お母さん。戸惑いと恐怖と懇願がないまぜになった悲鳴は更に続く轟音と衝撃でより高らかなものとなり、そして、
「――きゃああっ!」
戴宗は刮目する。
今の声は、
「――翠蓮!」
立ち上がる戴宗。
胸に湧き上がった嫌な予感と共に、最早弾丸も瓦礫も敵の目も気にせずに借家へと一目散に走り寄れば、
「――ああああどうしよう……!」
無差別に、かつ無数に放たれた弾丸。
その内のいくつかが着弾したのであろう仮の我が家は、――物の見事に全壊していた。
少々の原形を留めながら、屋根も壁も家具も服も食料も一緒くたに瓦礫の山。
その山の前で、
「この家、借家なのに! 明らかにうちの人が絡んでるっぽいし! どうしよう、大家さんから建て替えの費用と損害賠償を請求されちゃう……。蔣敬さんに何て報告すれば……!」
翠蓮は。
もしかしたら、と黒々とした不安と恐怖をもたらした翠蓮は。
頭を抱えて、今の切羽詰まった状況に特に関係のない事で顔色を変え、嘆き、頭を抱えていた。
……安心するやら。
罵ってやりたいやら。
胸中に嵐のごとく吹き荒れた様々な衝動を何とか抑えながら、投げる声はやはりどうしようもなく脱力しきっていた。
「……おたく、何を困ってるわけ?」
「あ、あなた!」
クルリと振り返って目を吊り上げる翠蓮。夫が何とか帰ってきたというのに、その事への安堵の言葉も動じた様子もなく、続ける言葉と言えば、
「何やってるんですかあなた! 今の、敵の宿星の攻撃ですよね? 敵を発見したら交戦しないで速やかに離脱、って約束だったじゃないですか!」
「そうした結果がこれなわけだけど?」
「これはもう交戦状態です!」
「って言うか翠蓮、おたく、よく無事だったな」
そうして改めて翠蓮を見下ろす。
結い髪をといて寝巻き姿の彼女は、砂埃で少々薄汚れてはいるようだが、無傷のようだった。立ち姿にも声にも負傷の気配はない。おまけにどんな準備の良さか、その手には伏魔之剣がある。
明らかに、家が破壊される前に伏魔之剣を携えて家を出ていた様子だ。でなければ今頃瓦礫の山の下で、下手をしたらもう死んでいただろう。
その彼女は呆れた声音で、
「そりゃあ、あれだけ派手な音がこっちに近付いてきていれば、寝てても目が覚めて様子見に外にも出ますよ」
「……あっそ」
さもあらん。納得しながら戴宗は伏魔之剣に手を伸ばす。しかし、
「駄目です」
翠蓮は伏魔之剣を両腕で抱き締めると、半身を翻して戴宗の手から逃れた。
ただでさえ敵に追われて帰ってきたところなのだ。尖りささくれ立った神経は、今の翠蓮の行動に苛立ちを覚えた。
「……おたく、何のつもり?」
「あなたこそ何のつもりですか?」
「はぁ? 俺はそいつで敵と戦――」
「こんな住宅街で、宿星二人が? 馬鹿ですか! 住民の方たちを巻き込むつもりですか!?」
私たちは義賊・替天行道なんですよ! 声をひそめて咎める翠蓮に、戴宗は更にイラッと来る。
「俺はともかく向こうはそのつもりなんだ。仕方ねぇだろ」
「だからと言って何の罪もない人たちを巻き込んでいい理由にはなりません! ここは退きますよ、あなた!」
「――……翠蓮」
戴宗は妻の名を呼ぶ。
すると翠蓮は眉をひそめる。戴宗の声は低く、不機嫌な調子がありありと込められていた。
「おたく、誰に指図してるわけ?」
「あなた――」
戴宗は彼女から視線を外した。まだこちらの姿を見失っているらしい敵の姿を探し、視線を走らせ、耳をすませる。
「曲がりなりにも俺はおたくの亭主だぜ? その亭主に指図するなんざ、笑えねー」
「……私は、貴方の妻である前に、お目付け役です」
言い返してくる翠蓮の声もまた、低い。
「二人で任務に当たる場合、指揮権は私に任されてます。
敵に見つかり、攻撃を仕掛けられた時点で、私たち替天の潜伏は朝廷に気付かれました。任務は失敗です。だからここは退きましょう、あなた」
「笑えねぇ」
ちっ、と舌打ち。
そして再び翠蓮を見やる。
睨みつける。
「――もううんざりだ」
漏れた呻きに彼女は怪訝そうな表情をする。
「……あなた?」
「翠蓮、おたくと一緒にいるのはもうこりごりだ」
目を瞠る翠蓮。
戴宗は妻を見下ろしながら冷ややかに続けた。
「そもそもこんな事になったのだって、翠蓮、おたくが伏魔之剣を置いてけとか言ったからだ。伏魔之剣さえありゃあ、あんな奴に遅れを取る事なんかなかった。
動物と話すしか能がなくてろくに戦えないくせに、俺の足を引っ張るなんざ――笑えねぇ」
「あなた」
ポツリとこぼれた呟きは、ただ呆然としたそれで、それ以外の感情が込められていない。それは翠蓮の表情も同じだった。ただ呆然とするばかりで、怒りとか悲しみとか、そういったあって当たり前の情動が、見えない。
夫に「能なし」と罵られる――それはどれほどの衝撃か。しかし戴宗は思考停止して深く考えず、
「俺は、一人で戦う」
更に冷ややかな声で吐き捨てる。
「俺の戦いを、復讐を邪魔するような女と一緒になんかいられねぇ。替天もだ。俺は替天を抜ける。替天を抜けて一人で戦う。
逃げるんなら一人で逃げればいい、翠蓮。俺はもう、おたくの面倒は見ねぇ」
翠蓮は何も言ってこない。
何も返してこない。
呆然としたままの彼女の手から伏魔之剣を奪い取る。あ、とやはり呆然とした声を漏らして取り返そうと反射的に手を伸ばしてくる翠蓮の、その手を振り払うようにして背を向け、
「じゃあな」
「あなた――」
すがるでも責めるでもない呆然とした声音で、翠蓮が最後に己を捨てる男に投げた言葉は――
「分かりやすい嘘はいいですから、さっさと逃げますよ」
反射的に翠蓮へと振り返った。
自分を捨てようとした男を、半眼で見つめる翠蓮。その眼差しは、先程戴宗が彼女に投げた声より数倍、いや数十倍も冷ややかで、そして同じくらいに呆れ返っている。それはもう、愁嘆場には余りにそぐわない表情で。
その視線の冷たさと呆れっぷりたるや、戴宗がたじろぎおののくほどで、
「は……はぁ? おたく、何言っちゃってんの? 嘘なんて、笑え――」
「笑えないのはこっちです。
私と一緒にいられない? 何を馬鹿な事を。私なしで生きられないでしょう、貴方は」
「なっ……!? す、翠蓮、おたく――!」
「ああもういちいち顔を赤らめないでください面倒臭い。状況説明行きますよ?
今あなたを追いかけていた宿星は退きました。おそらく星の力を使いすぎたんでしょう。代わりに禁軍が動き始めました。もう間もなくこの一帯は包囲されます。何度も言いますが、市街地での戦闘は替天行道的にアウトです。だから逃げます。反論は認めません。では行きますよあなた」
いや、待て。
待て待て待て。
矢継ぎ早に放たれる言葉に、戴宗は絶句するばかり。一体どこから突っ込めばいいのか? あんぐりと口を開けて、しかし言葉を紡げないでいる夫を尻目に、翠蓮は「こっちです」と案内を始める。一体どこに連れていくつもりか。いや、そもそも、
「――敵が逃げた、だと?」
まずはそこだ。
「何でおたくに、そんな事が」
「この子が教えてくれました」
肩越しに振り返った翠蓮が、掌に乗った何かをこちらに示して見せた。
チュウチュウと鳴くそれは、
「……ネズミ?」
「下水道在住のネズミさんたちと仲良くなって、情報収集と斥候の手伝いをしてもらっていました」
つまり、敵宿星の撤退はそいつらが見て、翠蓮に注進した、という事か。禁軍が来るというのもおそらく同様。
それは分かった。
それは分かったが。
「……逃げるなら一人で逃げればいいだろ」
戴宗は言う。
硬い声で、告げる。
「おたくとはもう一緒にいられねぇって言ったよな。俺は一人で戦う。替天の決まりなんて――」
「ですから」
はああああああ、と。
大袈裟な溜め息と共に、翠蓮はつまらなさそうに、面倒臭そうに、言い放った。
「あなたが自分を囮にして私を逃がそうとしてくれた事はもう分かりましたから、バレバレの嘘はもういいです」
戴宗は、今度こそ絶句した。
……そうだ。
一緒にいられないと言ったのも一人で戦うと言ったのも、嘘だ。
罪のない者を巻き込んで無差別攻撃を行なう敵。しかもその攻撃は範囲が広く、強力。おまけに遠距離攻撃で速射性もあるとなれば、例え戴宗の方が素早くても、肉薄する間に翠蓮が攻撃にさらされる可能性がある。
ならば、自分が囮になって翠蓮を逃がす。
しかしそんな思惑に素直に従うほど、翠蓮は素直で聞き分けの良い女ではない。成長するにつれ、そして結婚してからは余計に、彼女は頑固で強情になった。逃げろと言ったところで自分も残るというのは目に見えていた。
だから、嘘を吐いた。
愛想が尽きたと、俺の戦いを邪魔するような女はもういらない、と冷たく告げて、愛想を尽かしてもらうつもりだった。
翠蓮が無事に梁山泊に戻れるなら、替天行道から離脱する事になっても構わないと――戴宗は、そこまでの覚悟を決めていた。
なのに。
「――何でだ」
何故。
何故、翠蓮は、
「どうしておたくは、俺の嘘を見破る」
見破ってほしくなかった。
例えもう切迫した状況でなくなったとしても、翠蓮が傷つく可能性が僅かにでも残っているのなら、戴宗はそれをゼロにしたかった。そのためなら自分がどれだけ傷ついても良かったし、無関係の者がどれだけ傷ついても良かった。
ネズミを掌から地面に下ろした翠蓮は、こちらに向き直ると、軽い溜め息を吐いた。
そして、
「貴方が大事だからです」
柔らかくなければ甘くもない口調。
聞き分けのない子供に呆れ果て、匙を投げ出し気味になった口調。
「貴方が大事だから、私は何度だって、貴方の『本当』を見つけます」
だというのにそれは余りにも直截な愛の言葉で、戴宗は凍りつき、呆然とする。
大事。
大事って。
大事って――!
徐々に首から上、特に頬と耳たぶが熱くなっていくのを自覚する戴宗。その手を、呆れ顔の翠蓮が掴んだ。ほら行きますよ、と問答無用に手を引いて、彼女は戴宗を家の敷地の外へ連れ出す。
そして立ち止まったのは、家から出てすぐ近くの道端だった。側溝の蓋の傍である。そこにしゃがみ込むと、翠蓮はよいしょというかけ声と共にその蓋を起こした。
周囲の暗闇よりももっと黒く暗い暗渠が、口を開ける。
「はい、下りてください」
「下りて――って、おたく、ここ」
覗き込めばとんでもない悪臭が立ち上ってくる。たまらず袖で鼻を覆う戴宗に対し、翠蓮は、
「はい。開封府名物、下水道です」
汚水の悪臭を物ともせず、平然とした口調で言い切った。
「禁軍の包囲網は狭まってますし、私たちは交戦できません。逃げ場がないとなったら、もう下水道から逃げるしかありません」
「だからって、おたく、下水道がどれだけ入り組んでるか知ってるだろ」
開封府の下水道と言えば、地価迷宮と評しても過言でないほどで有名だ。下手に入り込めば迷う事は必定、しかも強盗や殺人犯が根城にしているから、うっかりするとそいつらに出くわして厄介この上ない事になる。
「だからネズミさんに案内を頼んだんじゃないですか」
道にポッカリと開いた地下への暗い入り口の傍からチュウチュウという鳴き声。ああこのネズミはそういう役割も負っていたのかと、他人事のように感心してしまう。
「ゴチャゴチャ言うのはここまでです。行きますよあなた」
ネズミを拾い上げ、暗渠にさっさと飛び込んでいく翠蓮。妻の躊躇いのなさに唖然としながらも、戴宗は慌ててそのあとを追う。
「……おたく、随分図太くなったな」
「あなたの妻ですから」
たいまつ代わりの炎をまとった伏魔之剣の灯りの下、さも当然と淡々と答える翠蓮。
いっそふてぶてしいほどの淡白さに、戴宗は、深々と吐息したのだった。
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