「――痛っ!」
傍で上がった小さな悲鳴に、阮小七は網を引き上げる手を止めた。
隣に目を向ける。小七の手伝いをしようと網に手をかけていた五歳ほどの少女が、曇った表情で右手の指先を見ている。
そこに見える微かな赤い色。西日の中で、尚鮮やかな。
「桂英?」
呼びかけると、少女――桂英はパッと顔を上げた。と同時に右手を体の後ろに隠し、
「何でもないよ、小七叔父ちゃん!」
「じゃあ、ちゃんと網を持って」
苦笑混じりに小七。対する桂英はう、と呻く。
「どうしたんだ、桂英? お手伝いをしてくれるんじゃなかったのか?」
「……す……するよ!」
反抗するような勝ち気な表情を浮かべ、桂英は再び両手で引き上げかけた網を掴む。が、すぐに手を離してしまう。引き結んだ唇の隙間から、傷みに呻く声が漏れた。
小七は吐息した。桂英の傍にしゃがみ込み、ちょっとうつむきがちになった少女の顔を覗き込むと、
「見せてごらん」
「何でも、ないもん」
「何でもないなら、見せられるだろ?」
「大丈夫だもん」
「じゃあ、見せて」
桂英の口はいつしか「へ」の字に曲がっていた。頑固そうな口元に、小七の苦笑はただ深まる。
日差し避けにかぶった巾、櫛もろくに入れられていないボサボサの髪、つぎはぎだらけでぶかぶかの上衣と袴。一瞥しただけでは女の子とは分からない風体である。どこにでも転がっている漁師の息子に見えた。
確かに、桂英は漁師の子である。真っ黒で硬い黒髪、大きな黒い瞳、愛らしくて親しみやすい顔立ちは、どうしようもないほどに小七の姪、阮家の娘だった。
そして阮家の子の性質として、桂英もまたある種の潔さを持っていた。こんなの大した事ない、とばかりに唇を尖らせ、しかし右手を小七に差し出す。
差し出された手を取って、小七は少しだけ目を細めた。
酷い手をしていた。
桂英はまだ五歳だ。まだたったの五歳だ。
それなのに、手荒れが酷かった。
ガサガサの皮膚。ささくれ立った指先。ところどころのひび割れ。先程小七の視界に入った赤い色の正体は、人差し指を曲げた拍子に関節の皮膚が割れて滲んだ血だった。
――こんなにも幼いのに。
――ほんの数ヶ月前までは、もっとマシな手をして、もっとマシな服を着ていたのに。
叔父が表情を曇らせた事に気付いたのだろう。桂英は右手を半ばひったくるようにして戻すと、
「大丈夫!」
とやたらと明るく言った。
「大丈夫だよ小七叔父ちゃん! あたし叔父ちゃんのお手伝いするよ! だってあたし、父ちゃんの子だもん!」
「……そうだな」
頷きながらも小七はほろ苦く笑う。桂英のこの明るさは、彼女の父より、もう一人の叔父の方によく似ていた。
それがまた、小七の笑みを苦く曇らせる。
叔父の陰りのある笑みは、桂英の唇を再び頑固な形に曲げさせた。少女は叔父から顔を背けると、湖から引き上げられていない網を掴んで一生懸命上げようとする。
手が痛くて、力などろくに入らないだろうに。
しかし桂英に受け継がれた阮家の強情さをよく知る小七は、もう何も言わなかった。一緒に仕掛けた網を引き上げる。出来るだけ桂英に負担をかけないように。元々今日の漁は一人でやる予定だったのだ。
いや、正確には、まだ手伝わせる気などないのだ。
姪にも――甥にも。
網を引き上げ終わる頃、湖の向こうからザザザザザッ、と水を切って進む音が近付いてくる。
網にかかった魚を取って桶に入れながら、顔を上げる小七。手の痛みをこらえて同じように魚を外していた桂英が、音の接近に気付いて立ち上がって手を振った。
「にーちゃーん!」
既視感を、小七は覚えた。
まだ子供だった頃、こんな光景を見た事がある。舟の上で漁をしている小七たちの所に、波乗り板で帰ってくる人。
けれど今波乗り板を駆っているのは、あの時の人ではない。あの時の人も小七に比べたらずっとずっと小柄だったけれど、今波乗り板に乗ってこちらにやってくるのは彼よりもっと小柄だ。有り体に言えば子供だ。
桂英とそう変わらない服装の少年だ。
今年で七歳になる小七の甥だ。
「お帰り、良」
「お帰り兄ちゃん!」
「ただいま、七叔父、桂英」
ぶっきらぼうな口調は父親譲りか。そういえば顔立ちや体つきも父親によく似ている。五歳の桂英と同じくらいの背丈と、どことなく怜悧で剣呑な目。黒髪黒目に硬い髪質は、阮家共通である。
父親ほど巧みに波乗り板を操れない甥の良は、案の定舟の横腹に板の縁をこすらせた。Shit……! 囁きに乗せられた口癖もまた父親譲りだ。
「まだ練習が必要だな、良」
「……Yeah」
父の形見の波乗り板をこすらせた事が余程ショックだったのだろう、良の肩はしょんぼりと落ちた。その様子に思わず笑ってしまう。
「まあいい。とりあえず上がって。魚を網から外すのを手伝ってくれ」
「……釣果は?」
「小魚がいっぱいだよ、兄ちゃん」
明るく注げた妹に、良の表情がげんなりと歪む。
「……Shit」
小魚が嫌いなところまで父親そっくりだ。小七はクツクツ笑って魚を外し、桶に入れていく。
釣果は、とても大漁と言えるものではなかった。小魚が三十匹ほどで、うち十匹は鯉の稚魚。稚魚は放した。それが石碣村の漁師の暗黙の掟である。
村に戻るべく櫓を操って舟を漕ぎ出す小七。魚好きの桂英は、今日の夕食のおかずが手に入った事に上機嫌で、舳先で何やら妙な鼻歌を歌っている。一方の良は波乗り板を抱えてげんなりと子供らしくない溜め息を吐く。
「……七叔父」
「何だ、良?」
「俺、たまには肉食いたい。――前みたいに」
前、という言葉に小七は僅かに息を止めた。
それと同時に、櫓を操る手が止まった。
良はそれで自分の失言に気付いた。ハッとこちらを窺うように顔を上げ、それから伏せて、
「……ごめん、七叔父。俺たち、七叔父に養って――」
「良」
小七はやや鋭い声で甥の名を紡ぐ。櫓を動かし、舟を前に進ませる。
「気にすんな」
「…………」
「お前たちや義姉さんや母ちゃんの面倒は、俺がちゃんと見るって決めたんだ。――だい兄や、ちい兄の代わりに」
済州鄆城県石碣村。
梁山泊と水路で繋がる石碣湖を、晩秋の残照が照らし出す。
その色は、血のように赤かった。
阮良と阮桂英。
この二人は、小七の長兄、阮小二の息子と娘である。
二人とも梁山泊で生まれた。産んだ女、すなわち小二の妻は、石碣村に住んでいた小二の幼馴染みである。
晁蓋と呉用に誘われて参加した生辰綱強奪作戦。これをきっかけに阮三兄弟は石碣村を捨てて梁山泊――替天行道に身を投じたが、小二はこの時、いずれ結婚するつもりであった彼女も捨てた。
しかし強奪作戦決行から五年後、小二と彼女は結婚した。
捨てられたままでいるつもりのなかった彼女は、梁山泊に乗り込んできてそのまま押しかけ女房を始めてしまったのである。
何か色々観念した兄の姿に、小五も小七も愕然としたのを覚えている。
そうして良が生まれ、二年後には桂英も生まれた。
梁山泊で生まれ、梁山泊で育つ梁山泊の子。戴宗の元に生まれた子供たち同様、二人も同志たちにとても可愛がられた。
そんな日々に――招安が終止符を打つ。
母と義姉と良と桂英を石碣村に残し、阮三兄弟は替天行道と共に転戦を重ねた。遼、河北、淮西、そして江南。
江南の戦いで、
二人の兄は――……死んだ。
小五は仲間をかばい。
小二は敵を道連れにし。
三兄弟の中で小七だけが生き残り、他に生き残った仲間たちと共に恩賞と官職を賜った。
だがそれはすぐに剥奪された。
小七自身は覚えていない事なのだが、方臘軍との最後の決戦の際、彼は大暴走をした。自分を中心とした半径百メートル以内に立っている者がいないほど、大暴れをした……らしい。
この暴走に、朝廷から派遣された将軍が二人、巻き込まれた。彼らがあとから皇帝に讒言し、皇帝はそれを真に受けたのである。
そうして小七は、家族を連れて任地から懐かしい石碣村に戻った。
それで良かった、と小七は思っている。
確かに禄を貰えなくなるのは生活を考えると辛いが、貰った恩賞の金銀はまだ残っているし、石碣村で細々と暮らしていくなら十分すぎるほどだ。
ただ気になるのは、北で続いている動乱で。
「ただいま、母ちゃん、義姉(ねえ)さん」
「母ちゃん祖母ちゃんただいま」
「ただいま〜」
「お帰り、小七、良、桂英」
家に戻った小七たちを、居間の奥で繕い物をしていた母の声が出迎える。良と桂英はすぐに祖母の元に駆け寄って今日の漁の様子をやかましく喋りたて、母は笑ってそれを聞き流す。そんな様子を笑って見守るかまどの傍の義姉に、小七は魚の入った桶を渡した。
義姉は、特別美しい女ではない。顔立ちはあくまで平凡で、日に焼け、日々の家事に追われているせいで、実年齢より老けて見える。だが、
「――小七ちゃん」
母の肩でも揉もうかと居間に引っ込もうとした義弟を呼び止めるその声は、穏やかなのに、匕首を繰り出すのにも似た鋭さを孕んでいる。
「ちょっと」
手招きされる。義姉の真剣で鋭い目。何かただ事ではないものを感じ、小七はチラリと視線を母の方に走らせる。母も何かを知っているのか、良と桂英の話にちゃんと相槌を打ち始めた。話す事に熱中させ、小七たちの方に注意を向けさせないように。
「……どうしたの、義姉さん」
台所の隅に寄って声をひそめる。義姉は無言のまま着物の懐に手を突っ込むと、折り畳まれた紙を取り出してこちらに寄越した。
受け取る。――手紙だ。
「戴宗君が、さっき来たわ」
戴宗。
数ヶ月前までしょっちゅう聞いていた名だというのに、何だかひどく懐かしく――小七の胸を、ざわめかせる。
「寄っていけって言ったんだけど、燕青君を探してるとかで、随分急いでた。それを小七ちゃん、あんたにって」
受け取った手が震えた。
カタカタ震える手で、手紙を開いた。
書いてあったのは、ただ一文。
『旗を、掲げろ』
それは宋江の文字だった。
再びの決起を促す、替天行道の頭領の言葉だった。
しかし小七は衝動的に手紙をクシャリと握り潰していた。目を見開いて僅かに青ざめた顔は、活閻羅の渾名に相応しい凶相である。
義姉の、呆れたような吐息が聞こえる。
「自由参加、だって」
震える義弟をそっと押し退け、かまどの前に戻る義姉。
「どうするか、あんたが決めなさい」
今の家長は、あんたなんだから。
そう突き放す義姉の声は有無を言わさぬ響きで、小七は逆らう言葉を見つけられなかった。
夕食は、いつも通りの雰囲気だった。
そこそこ明るくて、ふとした瞬間に小二と小五の不在を思い知らされて下りる沈黙。それを掻き消すのはいつも良と桂英だ。小二の忘れ形見がいなかったら阮家はどうなっていただろう、と小七は益体もない事を考える。
きっと、小七はとっくに喪失感に押し潰されているだろう。
今だって、本当は押し潰されそうなのだ。
夕食が終わり、義姉は良と桂英を寝室に追い立てると、網の穴を繕うから持ってらっしゃいと小七に命じた。庭先に干した網を取りに出る小七。
夜気は冷え冷えとしていた。吐く息が微かに白い。竿にかけた網を取り込みながらふと空を見上げれば、月明かりにも負けない無数の星の瞬き。美しくて、凍りついたように冷たい。
その瞬間、夕食前に見た宋江の言葉が脳裏をよぎった。
旗を、掲げろ。
知らず内に網を強く握り締めていた。爪が掌に突き刺さるほどに。
ギリリと歯が軋る音を立てる。穏やかな小七の顔が、活閻羅の凶相へと変じていく。
(まだ、戦えって……!?)
小七は戦いが嫌いだ。
戦いの中で我を忘れる自分が嫌いだ。
二人の兄を奪った戦いが嫌いだ。
もう戦いたくなかった。うんざりだった。方臘との戦が終わってまだ半年も経っていない。それなのにまた戦えと言うのか。まだ戦えと言うのか。
それは誰のための戦だ?
何のための戦だ?
北の動乱に備えるため。それくらいは小七だって分かっている。宋も遼も軍は弱体化を極め、新興国・金の精強な軍隊を押し留める力など最早ない。
金は南下する。いつか必ずこの地を踏み荒らす。それは大勢の人を殺し、それ以上の流浪の民を生む。
その混乱はどこまで広がるか。それは小七の知るところではない。だが、この未来は確実に起こる。
だからどうした。
起こるなら起これ。
こんな時のために蓄えはある。それは家族揃って金の南下から逃れるための資金だ。これを残すために、小七は恩賞の金銀をなるべく使わず、漁で家族を養っていた。
おかげで生活は昔に比べて苦しくて、良に肉を食べさせてやる事も桂英にいい着物を着せてやる事も出来ず、二人の幼子まで働かせてしまう始末で、忸怩たる思いもするのだが――
だからどうした。
知った事か。
もう、血の色はうんざりだ。
小七は溜め息と共にかぶりを振った。そうする事で雑念を追い払う。今は網を取り込んで、義姉に繕いをしてもらわなければ。取り込んだ網を両腕で抱え、家の中に戻ろうとして、
――ガタッ。
物音が聞こえた。
家の裏手からだ。
瞬間的に小七の面差しが戦場のそれになる。網を抱えたまま足音を忍ばせ家の壁に取りつき、静かに、そろそろと裏手へ進んでいく。
(今日は、何人だ?)
石碣村に戻る以前から、こういう事が良くあった。
つまり、替天行道の生き残りを恐れた朝廷の誰かが送ってきた刺客の侵入、である。
江南での戦から、魔星は再び流れるようになった。刺客に宿星も混じるようになった。けれどそこはそれ、宿星になってからのキャリアが物を言う。にわか宿星に負けてやるほど、小七の天敗星は優しい星ではない。
家の裏手からの物音はまだ続いている。
何だか苦笑したい気分に襲われた。これが最近の朝廷の体たらくか。こんなにも物音をさせる未熟な刺客を寄越してくるなんて。
だがこれなら楽勝だ、と小七は確信する。まずは手の中の網を投げて動きを封じ、敵が混乱してもがいている隙に一撃で気絶させる。それから武器の没収、拘束。あとはまあ、尋問と「後始末」を一緒にやればいい――拘束されたまま水の中に落とされれば、大抵は助かりたい一心で色々喋ってくれる。もちろん助ける気など毛頭ない。
――しかしこれらの算段は、全てご破算となる。
小七は裏手を窺った。物音はまだ続いている。早く早くと小さく急かす声。
その声が幼い事に目を瞠り。
「――大丈夫か、桂英?」
「うん、大丈夫」
「よし。――Let’s go」
小二の形見の波乗り板を抱えた良と、
小五の形見の釣り竿を持った桂英が、
寝室の窓から抜け出し、手を繋いで生垣に開いた穴から夜闇の向こうへと消える。
呆然と見送ってしまった小七は、しかしすぐに我に返ると、網をその場に放り出してあとを追った。
二人は石碣湖の方へと向かっていた。
夜とはいえ、まだそこまで遅くない時間だ。近くの酒場から酔漢の調子っ外れの歌が聞こえてくるし、家々の灯りもまだ灯ったまま。時折何かの用事で家の外に出てきたり村内の通りを行く村人たちの目を避けながら、良と桂英はまっすぐに桟橋へと走る。
たどり着くと、二人は迷う事なく、昼間の漁で小七が使っていた舟に乗り込んだ。良は苦もなくもやい綱をほどく。そして櫓を手に取り、
「良、桂英」
さすがにこれ以上見ているわけにはいかなくなったので、小七は姿を見せて二人を呼んだ。良は驚いた様子で七叔父と呻き、桂英は突然呼ばれた事に小さく悲鳴を上げる。
「こんな夜に、どこに行くつもりだ」
無言で視線をかわす兄と妹。二人の表情に、小七は眉をひそめた。
悪戯が見つかった子供特有の、決まりの悪そうな膨れっ面ではない。
むしろ、小七に見つかった事で更に何か決意を固めたような、やたらと意志の硬い表情を見せたのだ。
嫌な予感が小七の中で膨れ上がる。良が小さく頷き、桂英が大きく頷き返したのを目の当たりにして、それは更に大きくなる。
良は船の上から小七を見上げた。
「七叔父」
呼びかけてくる声は嫌になるほど硬い。
「俺たち、梁山泊に行く」
小七は瞠目した。
何で、という思いが頭を占めた。
それが顔に出たのだろう、良は続ける。
「戴宗のおっちゃんが、うちに来たんだろ? また戦いが始まるんだろ?」
「今度はあたしたちも戦うよ! 父ちゃんと小五叔父ちゃんの代わりに――」
「馬鹿を言うんじゃない!」
吼えていた。
反射的に放った怒声は夜の空気をビリビリと震わせ、幼子二人の表情を怯ませて後退りさせる。その様を見て、しまったと我に返る小七。
しかし二人はすぐに怯んだ表情を消した。そして、
「嫌だ!」
「あたしたちも戦う!」
逆に怒鳴り返してくる。
眩暈にも似た衝動が小七を襲う。それに従えばただ怒鳴り散らし、二人を一発ずつひっぱたいて、問答無用に家に連れ戻すだろう。そんな自分が想像できたから、小七はその衝動を必死で抑えた。
深呼吸を一回、二回。
「――……良、桂英」
努めて静かな声を出す。
「分かった。ちゃんと話そう。桟橋に上がってきてくれ」
二人は顔を見合わせ、小七の言葉に素直に従った。良はもう一度もやい綱を結んで、桂英と一緒に桟橋に上がってくる。
自分の前に歩み出た兄の遺児二人に目線を合わせるため、小七はしゃがむ。白々とした月光に照らし出された二人の顔は、嫌になるほど死んだ兄たちに似ていた。
「……何で、戦いがあるって思ったんだ?」
「戴宗のおっちゃんが、来たんだろ?」
「母ちゃんと話してるのが聞こえたよ」
小七は言葉にならない呻きを漏らす。自分も義姉も声をひそめていたはずなのに、何でこの二人はこんなに耳聡いんだ。
「戴宗のおっちゃんが、何もないのにうちに来るわけないし」
「それで小七叔父ちゃんが嫌そうな顔してたから、だから戦いがあるのかな、って」
ビンゴである。
ドンピシャである。
何でこんなに聡いんだ、うちの甥っ子姪っ子は。小七は頭を抱えたくなる。
しばしの沈黙が流れた。破ったのはやはり良と桂英だった。
「皆、梁山泊に集まるんだろ?」
「だったら行こうよ、小七叔父ちゃん!」
「――駄目だ」
「叔父ちゃん――」
「駄目だったら駄目だ!」
小七は再び怒鳴っていた。
しかし今度は、
「嫌だ!」
「行くの!」
良も桂英も譲らない。強情な顔で小七を真っ向から睨んでくる。
その表情が余りにも兄たちと似ていたから、
「馬鹿を言うんじゃない!」
小七の怒声が大きくなる。聞きつけた村人がこちらを窺う気配が、背中に突き刺さる。
無視して怒鳴り続けた。
「お前たちはまだ子供だ! 戦うなんて無理に決まってるじゃないか!」
「やってみなきゃ分かんねぇじゃん!」
「やらせるわけがないだろう! お前たちにもしもの事があったら――」
小七の声が詰まる。
ぐ、と呻いたきり歯を食い縛る叔父を、良と桂英は怪訝そうに見つめる。
喉に鉛を詰め込まれたような気分だった。激情がただ駆け巡って言葉にならずに喉のところでわだかまっているようだ。
たまらずに胸を押さえて小七はうつむく。歯に込めた力を何とか抜き、浅い呼吸を繰り返す事で、ようやく激情が一つの声に収束される。
「俺は、どうすればいい……!?」
戦いで二人の兄を失った。
一人は短命二郎の渾名のごとく仲間をかばって命を終わらせ。
一人は凶星の渾名のままに自らの命で敵に凶事をもたらした。
小七は一人残された。他に仲間は何人も生き残ったけれど、それでも小七は一人残された。どんな仲間も二人の兄の代わりになるはずがない。埋めがたい喪失感は、あっという間に小七の心を折った。この国を変える、民を救う――かつて二人の兄と抱いた志をあっさりと捨てさせた。
何もかももううんざりだった。
恩賞も官職も本当は欲しくなかった。そんなものが大切な二人の兄の代わりになるわけがない。それでも恩賞の金銀を受け取ったのは、何をするにも先立つものは金だと思ったからだ。官職の方には何の未練も執着もなかったから、剥奪されても何とも思わなかった。
石碣村に帰ってきて、本当にホッとしたのだ。
これでもう戦いに関わらなくて済む、と。
北の動乱は続いているけれど、そんな事はもう知らない。官職は失った。替天の仲間たちとも離れ離れになった。小七の傍にいるのは家族だけだ。だったらもう家族の事だけ考えればいい。動乱も仲間ももう知らない。戦いは終わったのだ。
あとは、北の動乱の余波から逃れる準備をしながら、長兄の遺した良と桂英を立派に育てるだけだ。
その良と桂英が、戦いに行く?
冗談じゃない。
「お前たちは、俺に、まだ失えって言うのか……!? だい兄やちい兄だけじゃなくて、お前たちまで、失えって言うのか……!?」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
もう嫌だ。
血の色は、もううんざりなんだ。
そんな、小七の血を吐くような呻き声に、
「――Sorry」
良は、ひどく静かな声を紡ぐ。
「でも、七叔父……俺たち、やっぱり行きたい。なあ、桂英?」
「うん」
「どうしてだ?」
顔を上げ、小七は問う。自分よりずっと幼い二人が決意を秘めた静かな表情で佇んでいるのが、不思議で不思議で仕方なかった。
そして良は答えた。
「だって俺たち、阮家の子だもん」
胸を衝かれた。
阮家の子。それに似た言葉を昔聞いた。それでこそ阮家の男だ、言ったのは小五だった。弾けるような笑顔で、二人の兄と共に戦う決意をした小七の背中をバンッと叩いてそう言ったのだ。
今、小七の目の前に幼子が二人いる。小二の面影を受け継いだ良、小五の笑顔を受け継いだ桂英。二人を通して小二と小五が小七を見下ろしている。情けない顔をしている小七を、小二は呆れたような顔で、小五は勇気づけるような笑みで見つめている。
『しっかりしろ、小七』
『お前も阮家の男だろ!?』
それは幻聴か、
それとも、心の片隅にしまわれたかつての記憶の再生か。
鼻の奥がツンと痛くなった。その痛みに負けたら涙が出てくるのを知っていたから、小七はうつむいて歯を食い縛って息を止めてこらえた。
その中で、無茶言うなよ、と折れた心がひねくれた声を上げた。
――無茶言うなよ。
――だって、だい兄もちい兄も死んじゃったじゃないか。
――俺を置いて、二人とも先に逝っちゃったじゃないか。
――それなのに何だよ。「しっかりしろ」って。「阮家の男だろ」って。
――兄貴たちがいたから俺は戦えたんだ。兄貴たちが俺の戦う理由だったんだ。
――そんな俺を置いて死んじゃったくせに、何だよ、今更。
『――すまなかったな、小七』
ボソリとした小二の低い声。
『でもさ小七、顔上げろよ』
それでも明るい小五の声。
折れて傷ついた心は、もうその声に逆らうだけの力を持っていない。小七はのろのろと顔を上げる。
そして、見た。
『俺たちは、ちゃんとお前の傍にいるぜ』
波乗り板を抱える良の手。
あるいは、釣り竿を握り締めた桂英の手。
光が、宿っていた。
それは、見慣れた輝きよりずっと弱く、淡い。宿した二人も気付いていないほどの弱々しさ。
けれど小七はその輝きを知っていた。当然だ。同じ輝きを小七はかつて目にし、そして自分もまた同質のそれを持っている。
だから分かった。
読み取れずとも、分かった。あの日流れた星はこんなところに行き着いていたのだと、悟って小七の目から涙が一筋、二筋とこぼれる。
かつて小二に宿っていた天剣星は、良へ。
小五の天罪星は、桂英へ。
何て事だろう。
こんな事があるのか。こんな事が起こっていいのか。
こんな――こんな、小七にとって、どこまでもどこまでも都合のいい奇跡が。
気が付くと、
小七は、二人を抱き締めていた。
「――七叔父?」
「小七叔父ちゃん、どうしたの?」
急に声もなく泣き出し、そして抱き締めてきた叔父を訝しく、あるいは不安に思ったのだろう。良と桂英の声はそれぞれ気遣わしげな調子だ。
二人を抱き締めたまま、何でもない、と小七はかぶりを振る。どうしようもないほどの戦慄と歓喜に襲われた彼の胸中を、まだ幼い二人が理解できるとも思えない。
魔星を宿す。それは取りも直さず、まだ十歳にも満たないこの二人が昔の自分と同じく戦いの渦に巻き込まれる事を意味する。宿星というだけで否応なく命を狙われ、戦いを強いられるだろう。
それでも小七は嬉しかった。どこかに去ったはずの二人の兄の魂にもう一度会えた気がして嬉しかった。この歓喜だけでこれから先を生きていける気がするほどだった。
しかし、いつまでも戦慄と歓喜に浸っている場合ではない。小七は二人の体を離すと、まだ濡れている自分の目尻と頬を手の甲で乱暴に拭う。そして二人に淡く笑いかけた。
「……分かった」
二人の頭を優しく撫でる小七。
「行こう、梁山泊に」
二人の表情が、花開くように驚きと喜びで輝いた。
「本当、七叔父!?」
「いいの、小七叔父ちゃん!?」
「ああ。皆で行こう。皆で、梁山泊に――戻ろう」
小七はもう一度良と桂英を抱き寄せる。
小七の戦う理由となった二人を抱き締める。
「だい兄と、ちい兄の分まで」
戦って、そして、――守るのだ。
天敗星、活閻羅・阮小七。
かつて運命に敗れた青年は、大切な者を守るため、かくして再び生きた閻羅となる。
星を継ぐ者 |