夜が、深々と更けていく。
日没前から始まった新年を祝う宴会は、それから六時間近く経過した今もまだ狂騒に包まれていた。聞こえてくる喧騒に耳を澄ませていると、どうやら、花和尚と誰かが飲み比べをしているらしい。ところどころに聞こえる悲鳴は、蒋敬か、あるいは呉用か。
そんな声々に口元をほころばせながら、宋江は、聚義庁の外に置かれた休憩用の長椅子に座って、空を眺めていた。
手には、酒の碗。
時々思い出したように口元に運びながら、見つめる先の空は、鉛色の雲が厚く垂れ込めていた。
元日の夜だというのに、残念なほどの曇天。
ふぅ、と口から漏れる息は白い。
碗を持つ指先がかじかみ、感覚を失くしていくほどの寒さである。綿の入った上着をまとっていても冷気は身にしみ、体の芯まで凍らせていくようだ。
酒を、一口。
元日くらいは、と朱貴や孫二娘が放出した上等な酒の、その芳醇な香気が鼻を突き抜けていく。
「――よぉ、こんなとこで一人で飲んでやがったのか」
不意に横手からかかる、ほろ酔い加減で上機嫌の声。宋江はそちらに視線をやって、口元を淡くほころばせた。
「おや、晁蓋」
「おう」
くわえ煙草の梁山泊頭領は、聚義庁の正面口の方からやや危うい足取りでフラフラとやってきた。その手には碗と徳利。
座れるように体の位置を少しずらすと、晁蓋はさも当然という風に空いたスペースにドッカリと座り込んだ。
「いやぁ〜、飲んだ飲んだ。にしてもよ、宋江。花和尚はすげぇな。大徳利三つ空けても潰れねぇ奴なんざ初めて見たぜ、俺ぁよ」
「飲み比べでもしましたか?」
先程の喧騒を思い出しての問いだったが、まさか、と晁蓋は笑い飛ばした。
「俺じゃねぇ、武松の奴だ。あいつもよく飲むな」
言いながら、晁蓋は持ってきた碗に徳利の酒を注いだ。それを一気に飲み干し、
「――あ〜、美味ぇ!」
「それで、晁蓋」
「あん?」
更にもう一杯注ぐ彼へ、宋江は問う。
「宴は、もういいのですか?」
「お前こそいいのか? 頭領だろ?」
「貴方もでしょう」
切り返すと、どちらからともなくクツクツと笑みをこぼし始めた。
晁蓋が、徳利の注ぎ口を向けてくる。残り乏しい酒を干した宋江は、碗を差し出した。
酒が、注がれる。
並々と注いだところで、彼はこう言った。
「誕生日おめでとう、悪友」
宋江は僅かに目を見開いた。
晁蓋は、不敵にニヤリと笑っている。
「……覚えていたのですか、晁蓋」
「中々忘れられねぇだろ」
呉用だって覚えてたぜ、と続けて、酒に口をつける晁蓋。宋江もまた一口飲み、
「何で、替天の連中に教えてねぇんだ?」
何気ない口調だった。
何気ない問いかけだった。
しかしその言葉の底の方にこちらを咎める調子があるのを、宋江は聞き取った。
「驚いたぜ、連中がお前の誕生日を知らなかったなんて」
「…………」
「あいつら、今日がお前の誕生日だって知ったら大喜びで祝うんじゃねぇのか?」
「……ええ、そうでしょうね」
「何で、教えてやらねぇ?」
宋江は、押し黙った。
それは答えられないからではない。
何と言えばいいのか、少し、迷った。
「宋江?」
「――簡単に、言えば」
酒の入った碗を、両手で包む。
「願掛け、でしょうか」
「願掛け?」
おうむ返しに問うてくる晁蓋に、ええ、と頷く宋江。
「私は、替天行道を作りました」
「おう」
「私の、志のために」
「おう」
「私の志に賛同してくれる者たちが、同志となってくれました。私の志の――私たちの志のために、命を賭してくれる事を誓ってくれました」
「おう」
「私の志はもう、私だけのものではありません。同時に私は、最早『宋江』という個人ではなく『替天行道の頭領』なのです」
「…………」
「私は、この志が成るまで『宋江』には戻れません。そして」
「――それまでは、自分の誕生日なんかない、ってか?」
その通りだった。宋江は笑みに少しの自嘲の色を混ぜ、無言で一つ頷いた。
隣から、はぁぁぁぁっ、という大袈裟な溜め息が聞こえた。
「よく分かったぜ、宋江。――お前はただの馬鹿野郎だ」
「ええ」
「誕生日くらい、気持ちよく祝わせてやりゃあいいのによ」
晁蓋の睨む視線を感じた。
「それも、お前の志って奴に付き合ってくれてる連中に対する礼儀だろうが」
「…………」
「来年は新年会とは別に、お前の誕生日会もやるぜ。梁山泊の頭領命令だ。いいな、宋江」
来年。
その単語に、宋江は何か胸の奥がゾワリと騒ぐのを感じた。
ひどく静謐な戦慄だった。
来年。
来年など、あるのだろうか。
戦いは日に日に激しくなっていく。これまで幸いにも同志の中で戦死者は出ていない。けれどこれからは? これからも誰も死なず、戦いを全うできる――そんな保障はどこにもない。あるはずがない。
自分に、来年はあるのか。
晁蓋に、来年はあるのか。
同志たちに、来年はあるのか。
宋江は空を見上げる。
厚く垂れ込める鉛色の雲。今日の夜闇は月が出ている時よりもどこかほの明るく、しかし何か白濁していて先が見通せない。
それはまるで、
自分たちとこの国の行く末のようで。
「――で、お前、何でこんなとこで一人で飲んでんだ?」
「……星を」
「は?」
「星を、見たかったのですが」
「曇ってんじゃねぇか」
「ええ」
ゆるゆると、宋江は吐息する。
星は、見えない。
鉛色の雲が、白濁した闇が、どこまでもどこまでも光を遮って隠してしまう。
「――雲が、晴れればいい」
知らず内に呟いていた。
「雲が晴れて、星が見えれば良かったのに」
雲は晴れない。
星は見えない。
光は、どこにも、ない。
宋江の口から重い溜め息が出ようとした、その時だった。
「――何言ってんだ、お前?」
晁蓋の、不思議そうな、呆れた声。
宋江はきょとんと目を見開いて隣の旧友を見る。晁蓋は、何か妙なものを見る目つきを宋江に向けていた。
「雲なんか晴れねぇ方がいいだろ」
「ですが、晁蓋」
「さっき呉用が言ってたぜ? これだけ曇っててこれだけ寒いんだから、きっと雪が降る、ってな」
と。
晁蓋は、笑う。
これから遊びに行く子供のように、キラキラと。
「月見酒ならぬ星見酒もいいだろうけどよ、雪見酒もおつなもんだぜ?」
宋江は、絶句する。
息を止める。
目を見開いたまま、晁蓋のその笑みを呆然と見続け――
……ぷ。
「っておい宋江、お前、何がおかしいんだ?」
「いえ晁蓋、私は別に……」
「なぁにが『私は別に』だ! 今吹いただろ! 吹き出しただろ!」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「おいおい何が『そういうわけでは』なのか言ってもらおうじゃねーか!?」
……ああ、何と言えば伝わるだろう。
晁蓋は気付いていない。彼は今、宋江の感じていた微かな、しかし絶対的な絶望感を、たった一言で打ち砕き、吹き散らしてしまったのだ。
喧騒が聞こえる。花和尚がついに武松を潰したと誰かが歓声を上げている。備蓄を飲み干されて蒋敬が悲鳴を上げている。呉用と楊志が倒れた武松に呼びかけている。そこに孫二娘や朱貴の声も混ざる。安道全が割って入って、薛永が何事か応じて、劉唐が悪態を吐きながら介抱を手伝う。王定六がゲラゲラ笑っている。戴宗と扈三娘はそれを無視して料理を奪い合い、林冲と翠蓮と阮小二と阮小七がそれを止めようとし、阮小五が戴宗を応援している。
何が「星は見えない」だ。
星はここにある。
光はここにある。
目の前に。聚義庁の中に。中華のどこかに。
雲に隠れてしまうようなささやかな光に、確かに存在する彼らを重ねて見る事などない。彼らは、確かに、ここに存在するのだ。
その幸福と、頼もしさ。
彼らとなら、どこへだって行ける。
光が一片も差さない洞窟の奥深くへも、吹雪で真っ白に塗り潰された荒涼たる原野へも、雲よりも尚高い山の頂へも、嵐で荒れ狂う茫漠たる大海原にだって。
嵐の海
騒ぐ二人の遥か頭上から、雪がヒラリ、ヒラリと舞い始める。
それを見つけて宋江は微笑んだ。
来年も、雪が降ればいい。
そしてその雪を見ながら、同志たちと共に、自分の誕生日を祝い騒ぐのだ。
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