竜骨を失った船は、最早船たり得ない。
失われた竜骨に似たものを得、似た船を作り直しても、それはやはり違う船なのだ。
輪廻する竜骨
図体デカい第二頭領は、朱貴の思い描いた通りの場所にいた。
「やっぱりここだったのね、杜遷」
呆れと苦笑が複雑に入り混じった声で呼びかける。
すると尋ね人・杜遷の後ろ姿が大仰に身じろぎした。恐る恐るこちらを振り返り、朱貴っちゃん、と途方に暮れた声を漏らす姿は、つまみ食いが見つかって怒られるのを覚悟した子供のようである。
もちろんこの場所も二人が置かれている状況も、そんな可愛らしいものではない。
「あんたも懲りないのね杜遷。ここに来るのは大概にしろ、って言ったと思ったんだけど?」
「……ごめんよ朱貴っちゃん。僕だって分かってるんだ。でも……つい、来ちゃうんだよねぃ……」
杜遷の顔に笑みはない。あの能天気な笑顔を久しく見ていないなと、朱貴は今更のように思った。薄暗い曇天の中、ひんやり湿った地べたに座り込んで背中を丸める彼の姿は、ここ数日で随分と小さくなってしまった風に見える。
背後の朱貴から視線を正面に戻す杜遷。彼が向かい合っている物、それは彼の体が邪魔して朱貴からは見えない。けれど何があるかは知っている。
子供の頭ほどの石だ。
それを置いただけの、ひどくぞんざいな墓標だ。
王倫の墓だった。
この梁山泊の主だった王倫。
この国に平和を。不正を正してこの国に夜明けを。そんな美辞麗句で人を集め、比喩的な意味でも文字通りの意味でも操っていたかの白衣秀士は、替天行道の道士・公孫勝に敗れ、死んだ。
同志を売ってただ一人栄達を目論んだ裏切り者を、生き残った同志は誰一人として許さなかった。死体を切り刻んで燃やせ、いや湖に撒いて魚の餌にしちまえ、そう気勢を上げる者もいた。
彼らを押し留め、ここに――誰も近寄らない梁山北側の山裾の、陽の光もろくに届かない寂しい所に――埋葬したのは杜遷であり、宋万であり、朱貴だった。
埋葬から、三日。気付くと杜遷はここに来て、王倫の墓の前に座り込んでジッとしている。
「――もう一度だけ言うよ、杜遷」
腕を組み、語気を心持ち鋭くして、朱貴は告げる。
「ここに来るのはもうやめな。あんたがここでウジウジ悩んだところで起こってしまった事は変わらないし、状況は何も良くならない」
「分かってるよ朱貴っちゃん」
杜遷の返答は弱々しい。
「分かってるんだけど、考えちまうんだよねぃ……」
彼に気付かれないよう、朱貴はこっそり吐息する。杜遷が次に言う言葉は予想できた。いや知っていた。
「僕たちは、どこで間違えちまったのか」
哀切を帯びる独白。
「王倫様はどこで間違えちまったのか。僕たちに王倫様を止める、変える術はなかったのか……――どうすれば、良かったのか」
朱貴はほんの少し目をすがめる。
思いついた言葉、言うべき言葉は一つだった。
けれどそれを飲み込んだ。代わりの言葉を見つけ、捕まえ、声に乗せる。
「……もうよしなよ、杜遷」
「でも朱貴っちゃん――」
「あんたが気に病む事じゃあないのよね、それは。
それに杜遷には、今やんなきゃいけない事がある。さっさと立ってほしいのよね」
杜遷が再びこちらを振り返った。やんなきゃいけない事? と繰り返す声は、まだ重く沈んでいる。
そんな彼に、朱貴は肩をひょいと竦めてみせた。
「そ。血の気の多い連中が、替天行道と睨み合ってんの。止めてくれると助かるのよねー」
「そんなの朱貴っちゃんが」
「やー、そういうのは私向きじゃあないのよね」
反論をばっさり切ってニハハと笑う。馬鹿だが誰に対しても親身になれる杜遷と、無口だが重厚な存在感を持つ宋万。この二人に比べ、常にヘラヘラと笑って飄々としている朱貴は、同志たちへの影響力という点では一歩劣る。
「ついでに、ずっと引きこもってる宋万も引きずり出してちょうだい。人手が足りないってのにいつまでも部屋に閉じこもってられちゃ困るんだよね」
あんたたちはまだ、この梁山泊の第二頭領と第三頭領なんだから。
「……そう……だねぃ」
頷いた声の末尾に力が宿り、かげっていた双眸が光を取り戻す。
見慣れた笑みが口元に上っていた。
「ごめんよ朱貴っちゃん。で、どこで睨み合っているんだぃ?」
「聚義庁の前。さっさと宋万を引っ張って行ってちょうだい」
「よし来た!」
快活な声と共に立ち上がった杜遷は、もういつもの彼だった。ニカリと笑ってドスドスと駆け出し、
「ありがとねぃ、朱貴っちゃん!」
「どーいたしまして」
すれ違いざまのそんなやり取り。朱貴は手を適当に振って杜遷の背中を見送る。
走り去る背中が十分小さくなったのを見計らって――朱貴は、寂寥漂う王倫の墓標をチラリと見た。
不意に、感傷めいた感慨が朱貴の胸の内をよぎる。
――あの日。
王倫を埋葬してやろうと主張した杜遷、宋万、そして朱貴。
杜遷は、悼む気持ちを持っていただろうか?
宋万は、惜しむ気持ちを抱えていただろうか?
いいやと朱貴は内心でかぶりを振る。杜遷も宋万も、突き詰めていけばそんな気持ちなど持ってはいるまい。
杜遷が抱く思いは、王倫を止められなかった後悔と、多くの同志が命を落としたこの結末に対する悲嘆だ。
宋万が抱く思いは、王倫の卑劣な言葉に少しでもなびきかけた自分に対する羞恥と呵責だ。
死した王倫への哀悼の思いなどどこにもない。誰の胸にも欠片も存在しない。ではこの墓は何か? 哀悼の意で建てられたわけではないこの墓は何なのか?
これは、戒めだ。
王倫を野放しにした事、野放しにした者に対する、戒めだ。
王倫を野放しにしていた自分に対する、戒めの墓標なのだ。
それを前にして朱貴は表情を消す。
何もかも達観したような、何もかも苦々しく思っているような無表情で、彼は粛々と噛み締める。
自分のした事を。
先程飲み込んだ言葉を。
杜遷の懊悩に対する答えを。
「――貴方は最初からそういう人だった」
唇からこぼれ出た言葉は、淡々と静かだった。
恨みも憎しみもなければ悼みも惜しみもない、達観と諦念が溶け合った声だった。
「貴方は最初から自分の栄華にしか興味がなかった。集めた私たちを使い潰して自分だけいい思いをしようとしていた。最初っからそのつもりだった貴方を止められる道理なんて、あるわけなかった」
王倫の語る言葉はキラキラと輝いていた。
この人についていけばもっと楽しいものが見られる、もっと楽しい未来が待っている、そう信じさせる何かがあった。
朱貴がその裏にある空虚さに気付いたのはいつだったろう? 語られる輝かしさが偽りだと知ったのはいつだったろう?
気付いた時にはもう遅く、同志は何百人と増え、自分も杜遷も宋万も頭領として彼らの上に立つ身になっていた。身動きが取れなくなっていた。
その頃にはもう、王倫の演説が耳障りに聞こえた。この国を変えるために己の志、信念、理想を語るのではなく、同志たちに自分を崇めさせるためだけに聞こえのいい言葉を並べる――そんなものは聞いていられなくて、だから朱貴は梁山泊の外の酒店に常駐してばかりで、梁山の本寨には余り顔を出さなくなっていた。
「私たちは、最初から間違えていた」
何もかも。
「出会った時に、貴方の本性を見抜く眼を持っていなかった――いいえ、最初に戴宗君たち替天行道ではなく貴方と出会ってしまう、その程度の運しか持っていなかった。
それこそが、私たちの間違いだった」
……朱貴は、気付いていた。
誰よりも早く気付き、しかし自分からは決して動かなかった。
むしろ王倫を戴き続ける事で起こる破局を待ち望んでいた。あらゆる退屈を吹き飛ばして塵に還すカタストロフを、今か今かと待ち構えていた。
エンターテイメントを志向する刹那的な虚無主義者。
そんな自分は、王倫と同罪だ。
だからこの墓は戒めなのだ。エンターテイメントとしての破局を待ち望んで、結果として予想できていたこの結末を止められなかった自分への。
――だが朱貴は同時に自覚している。
この性質を戒めようと思う自分を少し離れたところから客観的に見つめる自分がいて、そいつは決して己の性質を厭っていない、という事を。
この性質を戒めようと思っている自分さえも興味深そうに見つめている自分がいる事を。
「やー……救いようがないのよね」
呻いた声はやはり何かを楽しんでいる口調である。
結局のところ、そう、朱貴の性情は何もかもを楽しんでしまうところにある。
争いも、
不和も、
破局も、
崩壊も、
滅亡さえ、
全て、己の人生を彩るエンターテイメントでしかないのだ。
事実、朱貴は今、かつてないほどワクワクしている。
王倫の墓を前に殊勝に粛然としているけれど、それは所詮上辺だけで、心の奥底では今もワクワクしている。
今、梁山泊が置かれているこの状況だ。
表面上は宿星とやらの襲撃で出た様々な被害の復旧でバタバタと忙しないけれど、その忙しなさの薄皮をそっとめくってみれば、その下から不穏な静けさが顔を覗かせる。
数日前まで曲がりなりにも梁山泊は一枚岩だった。それが、王倫の死によって分裂の危機を迎えている。
繁忙の片隅で行われている派閥争い。乗り込んできた義賊・替天行道を排斥しようとする者、受け入れようとする者、静観を決め込む者。この三派を中心に様々な思惑が絡み合って、内部抗争直前の、恐ろしいほどの緊張を孕んだ凪が訪れている。
あんな、口先だけで己の栄達しか考えていなかった男でも、いなくなっただけでこれほどの影響が出た。それを思うと、奴の語る空虚な理想にも人をまとめるだけの力があったのだと思い知らされる。
さて、これから梁山泊はどうなるか。
瓦解するか。
反替天行道と親替天行道に分かれ、泥沼の闘争と洒落込むか。
それとも――生まれ変わるか。
しかし朱貴には予感があった。大勢はあと数日で決まるだろう、という。
替天行道がこの状況を放置しておくとは思えない。彼らは梁山泊を乗っ取りに来たのだから。これまでここにいた者たちを排除するにしても、一緒くたに飲み込んでしまうにしても、彼らはもうすぐに動く。
王倫という頭を失ったこれまでの梁山泊に、それを阻む力はない。嵐のような混乱の中、これまでの梁山泊は死に、新たな梁山泊が生まれるのだろう。
王倫がかつてしたり顔で語った美辞麗句を大真面目に掲げる、新たな頭領を得て。
それを思う朱貴の口元に薄っすらと笑みが浮かぶ。心躍る自分が止められない。
志は、理想は、廻り、生まれ変わるのか。
全てを巻き込み、生まれ変わらせて。
それはこれから始まる。
朱貴の目の前で、余すところなく繰り広げられる。
ああ、それは何と胸が躍るイベントなのだろう!
だから戒めは今日までだ。振り返っている暇など最早ない。今すべき事は、新たなカリスマの到来を待ち、新たな組織の誕生と新たな船出に向けて準備する事なのだから。
朱貴は歩き出す。
躍る胸を抱えて歩き出す。
自分もやはり山上へ行こう。ここまで言い争いの声が聞こえてくるのなら、杜遷と宋万でも同志たちを抑えるのに手こずるかもしれない。手こずっていなくても、一生懸命皆を落ち着かせようとする二人に助け船を出し、替天行道の赤毛のボウヤをからかうのも一興だ。にんまりといつものように笑う朱貴。
後ろを振り返る事は、もう二度となかった。
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