泣いている翠蓮を見た。
泣いている、と言っても子供みたいに泣き声を上げてボロボロと涙をこぼしている姿ではない。ギュっと歯を食い縛り唇を噛み締め、泣くまいとこらえながら、それでもこらえきれずに一粒、二粒と涙を流す姿だ。
朝日の中、小五は、その姿を正面から見つめていた。
形として、小五と翠蓮は向かい合っている。しかし翠蓮を見つめる小五に対し、翠蓮は小五を見てはいない。彼女が涙さえ浮かべて見つめているのは、二人の中間辺りを悠々と歩く一人の少年だ。
戴宗。
いっそ小憎らしいほどにすました面をした幼馴染みは、呆然としているこちらの脛をバシッと軽く蹴ってきた。
「おら、何ボサッとしてんの? 行くぜ」
「――あ、ああ」
応じる言葉にも戴宗のあとに従う動作にも、小五らしいいつもの快活さが欠けている。
視線を、感じる。
背中に突き刺さる、可憐な少女の羨ましげで恨めしげで……しかし、痛々しくなるほどに必死な視線。
「――……気を付けて、ください! 戴宗さん! 小五さん!」
それと同じように痛切で必死で凛とした翠蓮の声が、二人の背中にかけられる。
小五はただ、申し訳なさといたたまれなさを感じるしかない。
そも、事の発端は聚義庁の決定を戴宗が突っぱねた事にある。
これから戴宗が小五を連れて赴くのはいつも通りの探索任務だ。梁山泊から北のとある城郭で、替天行道の幹部の一人が危機に陥っているのだという。
幹部の様子はどうなのか。城郭内部の様子はどうなっているのか。守備状況は。朝廷の宿星軍から誰か派遣されてきているのか。そういった、その城郭を攻めるに当たって必要な事を全て調べてこい――それが、呉用が戴宗に下した命令だ。
そして。
『翠蓮さんも星の力を使うのに大分慣れたようだね。今回の探索には、彼女も同行させてくれるかな』
『――あぁ? 何であいつを連れてかなきゃなんねーわけ?』
『彼女の星の力は、動物の声を聞く事、だろう? 城郭内の犬猫や鼠から有益な情報を引き出せれば、願ってもない事だよ』
『あいつを連れてくかどうかは、俺が決める』
そうして、戴宗は鼻で笑ったのだとか。
『探索に、あいつを連れてけ? 笑えねー。あんな足手まといを連れてくくらいなら、小五のヤローでも連れてった方がマシだ』
『なっ……待った、戴宗君! これは聚義庁の決定だ! 晁蓋と、宋江さんと、軍師のこの僕が決めた事だ! 従ってもらう!』
『従うかどうかは俺が決める!』
『いや戴宗君そこを決めるのは僕らというか組織の規則だからね!?』
……で、結局、呉用はゴリ押しに負けてしまった。
元々件の城郭には既に時遷が潜入して、情報収集に当たっている。まずは彼と接触し、もし事が時遷の手に余る状況になっていたら翠蓮も投入する――そういう結論に落ち着いたらしかった。
それで戴宗と同行するのが、探索には全く向かない小五である。出来る事と言えばせいぜい水路を調べたり鉄火場で大暴れするくらいだ。正直な話、ご指名いただいてもどうしていいものやらである。
ただ、その一方で、
(嬉しいっちゃあ……嬉しい、んだよな)
感じた申し訳なさやいたたまれなさを、その嬉しさで全て振り切った。いや、誤魔化した。
だから小五は鈍感を装う。翠蓮の視線に込められた恨めしさや妬ましさに気付かないふりをする。
金沙灘へと下りる階段に向かいながら、まだ見送られている事に気付いた、という素振りで振り返る。翠蓮が驚いたように僅かに肩をビクつかせた。
「じゃー翠蓮、行ってくる!」
いつもの笑顔と大声で手を振る。翠蓮は少し笑った。ぎこちない、実に彼女らしくない笑顔。小五にペコリと頭を下げて、彼女はそのまま営舎の方に行ってしまった。
逃げるように。
歩きながらその背中を見送る小五の顔から、笑みが徐々に消えていった。翠蓮の姿が建物の陰に入ったところで、顔の向きをそちらから半歩前を行く幼馴染みに向ける。
「なぁ、戴宗」
戴宗は、ずっと黙っている。
その顔がどんな表情をしているのか、角度が悪くてちょっと見えない。
「お前、翠蓮に面と向かって言ったんだって? 『足手まといが俺の後ろに引っついてくんじゃねぇ』って」
「ああ」
聚義庁の決定が変更された事を知った翠蓮は、戴宗に、直に訴えたという。
私も連れていってください、と。
お役に立ちます、と。
けれど戴宗は、そんな風ににべもなく切り捨てた。
「何で、ちゃんと言ってやらねーんだよ」
「あぁん? 何の事?」
返ってくる幼馴染みの声は不機嫌そうでぶっきらぼうで、彼と付き合いの浅い者が聞いたらそれだけでこれ以上言葉を交わすのを躊躇うだろう。
が、残念ながら相手は小五だ。
戴宗との付き合いの長さとその濃さは、替天行道随一である。
だから言ってやった。
これは多分、自分の役目だ。
「守ってやりたいから、連れていかない、ってさ」
戴宗は、押し黙る。
何の応えも寄越してこない。
「俺はさ、戴宗がそうしたいの、いいと思ってんだぜ? そりゃ呉用さんにしてみたら俺より翠蓮連れてった方がいいんだろうけどさ、でも」
小五は戴宗の表情を窺う。
鮮やかな橙色の髪に隠れて、顔色さえ分からない。
「俺も、出来れば翠蓮には戦場に出てほしくねぇ」
この二年で、梁山泊・替天行道を取り巻く情勢は悪化した。
その原因は、戴宗自身にある。彼は二年前、朝廷の宿星軍をたった一人で壊滅状態に追い込んだ。
派閥争いの絶えない朝廷の中の、宿星の軍事利用を目論む過激派が、この一件を以って、それまでただの賊徒と歯牙にもかけていなかった替天行道を危険視し、「国の敵」と認定した。
それはまず暗闘の形で表われた。
替天行道の資金源が、いくつか潰された。
開封府を初めとする主要都市に潜り込ませていた組織の間者が、次々に狩り出された。
朝廷の間者や暗殺者が梁山泊の中にまで入り込み、晁蓋や宋江や呉用の命が狙われた事も一度や二度ではない。
小五は、力の習熟に力を注がなければいけなくなった翠蓮の代わりに戴宗の目付け役になって、そういった暗闘に幾度も関わった。
戴宗と共に、刺客を梁山泊に入れる前に撃退した事もある。
同志の間者を助けるため、真夜中の城郭で敵と壮絶な死闘を繰り広げた事もある。
死にかけた同志から必要な情報・物資を受け取り、とどめを刺してやった事もある。
それは全て、開封府や大名府、応天府のような、梁山泊から離れた大都市で行われた事ではない。
梁山泊のすぐ傍、済州なんかで行われた暗闘である。
梁山泊の外は、既に敵地なのだ。
小五からも明るい笑顔を奪いつつある、血生臭い、血で血を洗う戦場なのだ。
そんな中に、この二年、ほとんど梁山泊から出なかった翠蓮を飛び込ませたらどうなるか。
それを想像してしまうからこそ、小五は、自分が探索に不向きなのを解っていながら戴宗に同行するのだ。
だが、
「けどさ戴宗。きっともうすぐ、翠蓮より俺の方が邪魔で役立たずになるぜ」
それは事実だった。
翠蓮は地獣星の能力を使いこなせるようになってきている。探索・情報収集において、その能力は何より強い武器になるだろう。そしてその能力を更に深化させ、動物たちを使っての暗殺も出来るようになるかもしれない。
そうなった時、もう戴宗がどれだけ何を言っても、探索任務に小五を身代わりに連れていく事は出来なくなる。元々小五は水上で戦うのが主な役割で、探索には向いていないのだ。
「俺は、戴宗と一緒の任務に行けて嬉しいよ。でも、いつまでもこんな風にはやってらんねぇぞ?」
「――……おたく」
戴宗が、やっと口を開いた。
ボソリとした声からは、どんな感情を抱いているのかが分かりづらい。
「何、言いたいの?」
「だからさ」
じれったくなって戴宗の前に回りこむ小五。
覗き込むその顔は、冷ややかで、やはり感情が読み取りづらい。
「もっとちゃんと翠蓮と話せよ、戴宗」
「…………」
「ちゃんと話してさ、覚悟、決めてもらえよ。それで」
俺たちも、覚悟、決めるんだ。
「――笑えねー」
と。
戴宗は、口の端に笑みを浮かべる。
皮肉げで、刺々しい薄笑いを。
「そんな覚悟がいるかどうかは、俺が決める」
ドンッ、と小五を押し退け再び前に出る戴宗は、こちらに視線を寄越さないまま、こう告げた。
「あいつに出る幕なんかねー。敵は全部、俺とおたくで薙ぎ払うんだから」
その瞬間、胸に訪れた感情は。
情けない事に、浅ましい事に、みっともない事に。
紛れもない、喜びだった。
ああそうだ。本当はとっくの昔に知っている。
小五は、とっくの昔に自分の本心に気付いている。
あの清らかな少女を守ってやりたい。戴宗がそうするように、戦塵から遠ざけ、血の臭いのしない所で可憐な花のように笑っていてもらいたい。
その思いは決して嘘ではない。嘘でなどあるものか。
けれど、ああ、けれど。
本当は、戴宗と行動を共にするのが嬉しいのだ。
探索に向いていなくても。
翠蓮を押し退ける形になっても。
戴宗と翠蓮の、想い合っているようで微妙にすれ違っている不器用な恋を応援していても。
この意固地な寂しがり屋が、自分のいない所で苦しむなんて、見過ごせないのだ。
(……ごめん、翠蓮)
営舎の方に走り去った彼女は、今頃自分の部屋で泣いているのだろうか。それともその涙さえこらえ、今日も今日とて地獣星の力の習熟に励むのだろうか。
凜と、美しく。
小五はその姿を思い描く。強くて美しくて清らかな少女の姿を脳裏に思い浮かべる。
(俺、お前の事嫌いじゃないし、もちろん女としてじゃなくて、友達としてすごい好きだけどさ。
お前と戴宗の事、ほんと応援してるし、きっとこういう時はお前の方が俺よりずっとずっと役に立つんだろうけどさ)
もう少しだけ。
もう少しだけ、俺から戴宗を持ってかないでくれ。
俺はもう少しだけ、こいつの隣にいてやりたい。
せめて――そう、せめて、
こいつが、あの酷い悪夢を振り切れるまで。
お前に、自分から好きだって言おうと思うようになるまで。
「じゃ、俺ら、もっと強くなんねーとな!」
「少なくとも、俺の足手まといになんねーくらいにな」
小五は笑って戴宗の隣に並ぶ。
戴宗の口元に、先程とはまた色合いの違う笑みが浮かんでいるのを見る。
「よっし、じゃあ、今日も張り切って行こうぜ、戴宗!」
「張り切りすぎて、この間みたく雑魚呼び寄せんじゃねーぞ、小五」
「おう、任せとけって!」
彼方の稜線を越えて朝日が差し込む中、二人の少年は、声を上げて山を下りる。
戦場へ。
血生臭さと謀略渦巻く戦いの巷へ。
清らかな娘
一人の少女のその清らかさを守るため、少年たちは戦場に征くのだ。
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