晁蓋が宋江の元を訪れたのは、陽がようやく山の端に隠れた頃合いだった。

「一体何の用ですか、晁蓋?」
「何だよ。悪友の面を見に来るのに、大袈裟な理由がいるのか?」

 呆れているような迷惑しているような、それでいて本当に追い返そうとは思っていない微苦笑。そんな表情を浮かべている宋江を半ば押し退けて、晁蓋は彼の家に入った。押司という、県の事務方のトップの座にいる割には、宋江の家は相変わらず良く言えば小ぢんまり、悪く言えば粗末だ。
 訪(おとな)った者の礼儀として持参した酒を渡す。宋江はそれを、奥から出てきた老婆に渡した。この旧友が私的に雇っている使用人は、家事の一切を取り仕切っているこの老婆一人である。
 晁蓋がこの家を訪れるのは、これで三度目だった。それだけ訪れれば勝手はある程度知っている。家の主をさしおいて卓に着き、殺風景な居間をグルリと見回す。
「相変わらず、この家にゃ何にもねえなあ」
 対面に座った宋江は、苦笑を深くする。
「何があると期待していたのですか、貴方は?」
「女とか」
「使用人がいたでしょう」
「あんな婆さんじゃねえ。妾とかいねえのか?」
 晁蓋自身、そんなものいるはずがない、と思いながら言っている。
 宋江という男は、及時雨の字名の通り、困った者に必要な手助けを進んでする。
 けれどそれは良くも悪くも平等で、タイプの女に特に親身になって助けてやって、恩を着せるわけではないけれどその事をだしにして親密に――などという事はまるで考えやしないのだ。
 というわけで、晁蓋はこれまで、宋江の浮いた話など一つとして聞いた事がない。
 問いを発したその時、老婆が晁蓋の持ってきた酒と、肴代わりの豚の角煮を持ってきた。まあ飲めよ、本来なら宋江が言うべき台詞を横取りして、晁蓋は手酌で酒を注いで飲む。
 で、ちょうどそのタイミングで宋江が答えた。

「まあ、いない事もないのですが」

 ブバハッ!

 予想だにしていなかった返答に、晁蓋は口に含んだ酒を一気に吐き出し、そしてむせた。
 咄嗟に顔を横に向けたのは、晁蓋の卓越した反射神経の賜物である。ガハガハゲホゲホ盛大に咳き込んで、ゼエゼエハアハア荒い息を吐いて、そうしてやっと落ち着いて、彼は涙の浮かんだ目を旧友に向ける。
「……マ、マジか?」
「一応、妾、という事になっていますね。手を出したりはしていないのですが」
「……はあ?」
 妾なのに、手を出していない? 意味が解らず首を傾げる晁蓋。
 宋江は、相変わらずの何を考えているのか読ませない微笑で、答えた。
「行き場を失った母娘の面倒を見ているのですが、囲っていたつもりはないのにいつの間にかそういう事になっていて」
「……何だ、そういう事かつまんねえ」
 と、吐いた溜め息が拍子抜けのそれか安堵のそれか、自分でもちょっと分からない。正直、女の事で宋江に先を越されるのは、何かこう、癪だ。色んな意味で。
「貴方の方はどうなんですか、晁蓋? 東渓村の保正なんですから、いい加減結婚の話もあるでしょう?」
「あ? 宋江、お前、この俺が一人の女に縛られるような小せぇ男だと思ってんのか?」
「縛られる、ではなく、ただ一人の女性を愛し抜く、でしょう。貴方はそうする男だと思いますが」
「……興味ねえな」
 つまらなさそうに吐き捨てた。そんな晁蓋に、宋江はまるで聞き分けのない子供を見るような目を向けている。
 そして晁蓋は、まるでふてくされた子供のように宋江から視線を外す。
「――そんな話をする奴ぁ呉用だけで十分だ」
「おや、呉用にはされているのですか」
 ああ、と晁蓋は頷いた。
「この間、いい加減身を固めたらどうだ、って泣きつかれた。無視したけどな」
「余り彼に苦労をかけるのはよしなさい、晁蓋」
「いいんだよ。俺と呉用の仲なんだから」
「元気にしていますか、彼は?」
「ああ。たまには会いに来ればいい。あいつ、お前とは話が合うからな。喜ぶぜ」
「私は早々遠出は出来ませんよ。役所の仕事もありますし」
「だからって、親父さんの顔を見に行かなくていい理由にゃならねえだろう。たまには宋家村に帰ってやれよ」
「――父に、何かあったのですか?」
「何もねえよ。けど、この間宋清の奴にちょっと会ってな」
「……弟は、元気でしたか?」
「知りたきゃ帰れよ。そんな遠くでもねえんだし」


 宋江は、宋家村の保正の息子である。
 父親の宋太公は、晁蓋の死んだ父の友人だった。晁蓋と宋江の縁はそこから始まっていて、宋江が呉用の事を知っているのもこの延長線上にある。
 晁蓋同様、宋江は、跡取り息子だった。
 だから晁蓋は、宋江は自分と同じように保正になるものだと思っていた。
 しかし同時に、いつもニコニコ笑っていて、その胸の内や腹の底を決して読ませないこの男は、保正という取るに足らない地位に納まるような器ではない、とも思っていた。
 こいつはいつか、必ず何かでかい事をやる。
 この国を底の方から揺るがして、丸ごと変えて、救っちまうような、でかい事を。
 いつの頃からか、晁蓋は宋江をそう見ていた。
 だからこそ余計に、宋江が跡取りの立場を弟の宋清に譲って役人になったと知った時、晁蓋は最初何の冗談だと笑い飛ばし、それからあり得ないと愕然としたのだった。


「――だから言ったでしょう」
 宋江の微笑みは崩れない。ひびの入らない仮面、鉄壁の防御。そんな言葉が晁蓋の脳裏によぎって消える。
「役所の仕事があるんです。早々遠出など出来ません」
「へえ、そうかよ」
 晁蓋はニヤリと笑う。
 ええ、と宋江は頷く。
 鉄壁の防御。宋江の微笑には毛の筋ほどの隙も見つけられない。完璧なまでに穏やかでにこやかで暖かな微笑。
 だからこそ、余計に、
(胡散臭え)

 その仮面に、短刀を突き立てる。

 そんな心持ちで、晁蓋は不敵に笑ったまま続く言葉を発した。

「でもお前、孟州にまで行く暇はあるんだな」

 宋江の笑顔は、やはり微動だにしなかった。
 けれど、呼吸がほんの一瞬だけ、止まった。
 長い付き合い。隙はそれだけで十分だ。

「この間、うちの白勝を河南府の方に使いに出したんだがよ、その途中、孟州の十字坡の辺りでお前を見たそうだ。人肉饅頭で有名な酒店に堂々と入っていった、ってよ」
「……いつの間にか変な噂が立っていましたが、あの店はごく普通の酒店ですよ」
 変わらない穏やかな声。晁蓋は、更にもう一押しする。
「そうか。じゃあ、今度俺も行くとするか。白勝と呉用に――ああ、それから安道全医師と薛永も連れてって」
 十字坡の酒店の店主は、客にしびれ薬を盛るという。そうして体の自由を奪われた客は、店主に殺され、饅頭の具にされてしまうのだ。
 そんな噂がどこまで本当かは知らないが、殊薬の事となれば薛永以上の薬師を晁蓋は知らない。それと安道全をセットに連れていけば、どんな薬を盛られても、まあ何とかなるだろう。
 果たして、宋江はこの言葉に何と応えるか――

「――そうですか」

 宋江は、笑っている。
 ひびの入らない仮面、鉄壁の防御。それらを思わせる見事な笑みで、完璧に何かを覆い隠している。
「それならば、酒店の主人に伝えておきましょう。今度、私の友人の保正が来るから、いい酒と肴を用意しておいてください、と」
「――そりゃありがてえ」
 と、酒を一口あおって、しかし内心で晁蓋は舌打ちしていた。
 崩しきれなかった。
 宋江がほんの僅かに見せた隙を、突ききれなかった。

 晁蓋は、今日、わざわざこのために東渓村からいい酒を持って出てきたというのに。

 肴を平らげ、酒を飲み干し、適当な雑談に興じる。
 そうしている内に外はすっかり暗くなり、か細い上弦の月が輝きだす。
 頃合いだった。
「――さて、俺は帰るぜ」
「大丈夫ですか? 最近は梁山泊の山賊が暴れていると――」
「宋江、お前、俺を誰だと思ってる? この托塔天王・晁蓋が、そこらの山賊に負けると?」
「……酒に酔ってフラフラしている貴方に、説得力なんて欠片もありませんよ」
 うるせえ、と吐き捨てて、晁蓋は外に出た。見送りに出てきた宋江を後ろに従えて厩に行き、自分の馬を出す。
「――……宋江」
「何です、晁蓋?」
 晁蓋は馬にまたがる。見下ろす彼と、見上げてくる宋江。上弦の月の弱い光が、旧友の淡い笑みを照らしている。
 全くもって、気に入らない笑みだ。
 だがもう、崩してやろうという気も起きなかった。

 だから次に続けた言葉に、そんな気はなかった。

「俺も混ぜろよ」
「――え?」
「誰かがやり始めた事に後から乗っかる、なんてのは俺の趣味じゃあねえが、それがお前なら話は別だ。
 替天行道。俺も混ぜろよ」

 ――その時。
 宋江が見せた表情は、晁蓋にとって中々痛快なものだった。

 宋江は、目をまん丸に見開いていた。
 口を半開きにしていた。
 信じられない、まさか、何で――そんな台詞がよく当てはまる呆けた顔。

 晁蓋は、笑った。
 気付かれていないと思っていた宋江が、今は少し間抜けだった。
「晁蓋――」
「でもどうせだ、何か俺も一つ面白い事をしてからにするか。
 じゃあまたな、宋江!」
 何か言いたそうだった宋江を残して、馬を駆けさせる。
 愉快だった。
 実に愉快だった。
 愉快すぎたから馬を駆けさせすぎて、東渓村にはおよそ三時間ほどで着いたのだけれど、飲酒乗馬をしたものだからアルコールやら何やらが色々と胃の中でシャッフルされて気持ち悪くなって途中で一回吐いて、せっかくの酒が無駄になっちまったと嘆いたのも束の間、屋敷に帰ってから白勝を相手に甕を二つほど空にしてすっかり泥酔して――

 

 北斗七星が降ってくる夢を晁蓋が見たのは、その翌朝の事だった。

 

 

酒肴夜話

 

 

 

 宋江さんと晁蓋さんが旧知の仲、というのは原典からの流用でした。
 宋江さんが保正の息子なのも、宋清っていう弟がいるのも同様でした。
 でもって妾の存在も原典でちゃんと言及されてます。閻婆惜といいます。宋江さんが江州に行く羽目になった原因ですね。具体的には皆様、原典を当たりましょう。
 でも、宋江さんと晁蓋さんがこんな腹の探りあいのような友情で結ばれている、というのは完全に簾屋の趣味です。捏造大好き。

 

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