梁山泊の外に出ていた戴宗さんが、ズタボロになって帰ってきた――
その報せを受けた私の口から漏れ出たものと言えば、
「……またですか」
という、溜め息混じりの呆れた冷ややかな声だけでした。
あるいはそれも一つの
「また、って……翠蓮ちゃん、それだけ?」
「はい」
鳥小屋の入り口でポカンと立ち尽くす扈三娘さんに、私は淡々と一つ頷きました。
ここは梁山泊の片隅にある鳥小屋で、伝書鳩たちの住処です。梁山泊の外、中華の各地に宿星じゃない替天の同志はたくさんいて、彼らとの連絡のやり取りにこの子たちは働いてくれます。この子たちの餌やりや体調管理は、地獣星の宿主である私の仕事の一つ。
餌箱にザラザラと餌を入れれば、鳩たちはクルッポクルッポと喜びながらつつき始めます。その動きはどの子も機敏で、不自然なところはどこにもありません。毛艶もいいし鳴き声もおかしくない。皆、今日も元気です。
その様子に微笑む私の視界の隅で、扈三娘さんが唖然としたまま唇を動かしました。
「はい、って、流星の奴、大怪我してるのよ?」
「はい」
「一緒だった短命二郎と浪子もズタボロで、今、安道全医師の所に担ぎ込まれて」
「はい」
「心配じゃないの?」
「はい」
「って翠蓮ちゃん――」
「だって」
餌袋を小屋の隅に置き、戸口の扈三娘さんに向き直って、私は苦笑します。
「いつもの事じゃないですか」
「まあそうね」
あっさり頷く扈三娘さん。それまでどこか腑に落ちないって顔をしていたのに、私のたった一言でケロリとした納得顔に早変わりしてしまいました。
私は続けました。
「それに、今行っても安道全医師と薛永さんの邪魔になるだけでしょうし」
「あいつら帰ってくると、診療所、修羅場になるものねー」
戴宗さんと、小五さんと、燕青さん。いつからか任務を共にするようになった同い年トリオ。このトリオがこのトリオだけで任務に赴くと、ほぼ毎回、必要以上にボロボロになって帰ってきます。
安道全医師は命を捨てるかのような三人の血の気の多さに普段なら決して荒らげない声を荒らげるし、薛永さんは血まみれの姿に悲鳴を上げながら手当てをするし、その一方で蔣敬さんは薬が包帯がと異常なまでの備品の減りの速さに日々頭を抱えるし。
そんな、動くと梁山泊のあちこちが泣きを見る傍迷惑なトリオ。それなのに軍師の呉用さんがトリオを解散させないのは、あの人たちが派手に動けば動くほど、役人や官軍の目はトリオに釘づけになって、別の所で動く他の同志たちの危険度が下がるから――と、専らの噂。
要は囮です。攪乱です。陽動です。
だから戴宗さんたちが任務に出たなら、それはもう派手な戦闘が繰り広げられる事が確定したようなもの。
いつもの事なんです。
「……あいつらってば、ホントどうしようもないわね」
と肩を竦める扈三娘さんの表情は、いつしか私と同じような苦笑になっていました。そうですね、と頷く私。
「そういう事なら、分かったわ。仕事の邪魔してごめんね翠蓮ちゃん。じゃあ、またあとで」
「はい。調練、頑張ってくださいね」
踵を返し、手を振って鳥小屋から去っていく扈三娘さんを見送って、さあ次の仕事仕事と私も鳥小屋を出て――この話は、これで、終わり。
昔はただの見習いで戴宗さんのお目付け役だった私ですが、今は結構忙しく過ごしています。
戦いの時に主役を張るのは戴宗さんや林冲さん、楊志さん、花和尚さん、武松さん、劉唐さん、李逵さん、扈三娘さんみたいな戦闘に特化した能力を開花させた宿星の皆さん。星の力を宿す武器を携え己の身一つで敵に立ち向かっていくこの人たちには、騎乗するための馬はむしろ邪魔です。
けど、だからと言って馬の出番がこの梁山泊に全然ないわけじゃありません。戦闘以外の色んな場面で馬たちはたくさん働いてくれます。例えば早馬、例えば私や呉用さんみたいな戦闘向きじゃない能力を持つ宿星の移動手段、例えば荷車引き。
そのためこの梁山泊には馬がたくさんいるし、他にも、私が戦いの場に臨んだ時に手足となってくれる虎や象、猪など、色んな動物がいます。
彼らに声をかけ、声を聞き、不調を見極め、獣医の先生と治療や投薬、餌の相談をする。これが今の私の通常業務で、これだけであっという間に日が暮れます。
今日も、あっという間に日が暮れていました。
西の空は赤く染まり、東の空は夜の紫紺に塗り替えられようとしています。ゆっくりと山の向こうに沈んでいく夕陽を見送りながら、牧の柵の外で私は大きく伸びをします。
ああ、今日もよく働いた。
牧の馬のどの子にも特に問題はありません。この間戦闘に巻き込まれて怪我をした子の傷の経過はいいし、ちょっと前にお婿さんを貰った子のおめでたが今日判明しました。元気な子が生まれるといいね、と首筋を撫でてあげた時の嬉しそうで照れ臭そうな笑顔には、私の方が幸せな気持ちになりました。
今日の仕事はこれで終わり。食堂に行って、朱貴さんに美味しい物を作ってもらおうかな――そう思った時、柵の中の馬が低くいななきました。
私は横手に目を向けます。
少し離れた所にある茂みの手前の道を、獣医の先生が大きな薬箱を抱えた助手の男の子と共に歩いています。
きっと、今日おめでたが発覚した馬の事を話しているのでしょう。光の加減によって少し紫がかっているようにも見える豊かなひげを手で梳きながら、先生は、ニコニコと笑って男の子に何かを言っています。男の子の方も笑顔です。
と、男の子が私の視線に気付きました。こちらに顔を向けた彼と先生に私は笑顔で会釈します。先生は会釈を返してくれて、男の子の方は、翠蓮さんまた明日! と元気な声をくれました。私は寨の方に帰っていく二人に手を振って見送って――
「――それで何かあったんですか、小五さん、燕青さん?」
「あっれ気付かれてた?」
「おかしいな、気配はちゃんと消したはずだったんだけど」
先生たちが通った道の傍の茂み。それをガサリと鳴らせて立ち上がったのは――薛永さんと同じくらいに包帯でグルグル巻きになっている小五さんと燕青さんでした。
不思議そうに顔を見合わせて首を傾げている二人の様子に、私は小さく息を吐きました。いくら魔星を宿し、その力を使えると言っても、人間は人間です。動物の聴覚と嗅覚はごまかしきれません。まして馬は、元々とても臆病な生き物なんですから。
そんな講釈も今更なので割愛して、私は問い直しました。
「それで二人とも、どうしたんですか?」
すると。
顔を見合わせていた二人は、一度私の方を窺って、それからまた顔を見合わせてしまいました。
何か決まり悪そうに、お互いを探るように。
何だか、嫌な予感がするような……。
「……あの?」
「実はさ、翠蓮」
と、言いにくそうに小五さん。
「呼びに来た、って言うか、迎えに来た、って言うか、助けてほしい、って言うか……」
と、モゴモゴ言葉を濁しながら燕青さん。
……そういえば、二人とも、こんな大怪我で安静にしていなくて平気なんでしょうか。安道全医師と薛永さんは、どうして二人が出歩くのを許可したんでしょう。
そんなふとした疑問が、私の胸の内の嫌な予感を黒い雨雲のようにムクムクと太らせていきます。
「――……そろそろ、診療所に顔出してくんねぇ?」
「戴宗ってば、翠蓮さんが来ないもんだから、もう荒れて荒れて……」
「――――――――――――――――――――あ」
と声を上げる私の顔は、きっと間の抜けたものだったでしょう。
だって私と来たら、この時まで、すっかり怪我をした戴宗さんの事を忘れていたんですから。
――もーホントにさ、戴宗の奴うるせぇの何の! 笑えねーとか別に来てほしいわけじゃねーとかけど顔の一つも見せねぇってどーゆう事なのとか!
――翠蓮さんに来てほしいって素直に言えばいいのに、それが出来なくて子供みたいにぶうたれるばっかりで、それが隣の僕らの部屋まで筒抜け。もう寝るどころじゃなくてね。
――で、俺ら、安道全医師に頼み込んで呼びに来させてもらったんだ。なあ翠蓮、もういい加減あいつの顔見に行ってやってくれよ。
――お願い、僕らを助けると思って。確かに僕らの怪我はあいつに比べたら軽いけど、それでも、今日一日くらいは安静にしてたいんだ。
「――で、おたく、今更何の用?」
「戴宗さんの様子を見に来ました」
「何を今更。笑えねー。帰れ帰れ」
「出来立てのメガ豚マン、いらないんですね分かりました」
「笑えねーそいつは置いてけ」
「私のお夕飯の分もありますから、全部は置いてけません」
「どうせおたくにゃ一つで十分だろ」
「一つで十分ですが、置いていきません。ここで私も一緒に食べます」
「…………」
「いいですね?」
「……好きにすれば?」
チッと舌打ちしてそっぽを向く戴宗さん。寝台の上に状態を起こして小五さんや燕青さん以上に包帯グルグル巻きのこの人の、その態度の悪さは出会ったあの頃のままです。
でもあの頃と変わった事もあります。
それは私。
私は戴宗さんのこのぶっきらぼうさが照れ隠しである事を知ってますし、昔みたいに子の態度の悪さに驚き怯えてはわわとオタオタしたりなんかしません。
好きにします、と少し笑って、寝台の傍に置かれた椅子に座る私。食堂の朱貴さんから貰ってきた袋から出来立てのメガ豚マンを一つ取り出し、むっちむっちとかじりだします。戴宗さんも袋から一つ取り出し、こちらはあっという間に平らげてしまいました。
「――で、翠蓮」
「はい」
「俺の様子見に来たのはいいとして、何でこんなに遅くなったわけ?」
扈三娘さんから戴宗さん負傷の報せを受けたのは今朝方。今はもう日も沈んですっかり夜です。
「仕事が忙しくて忘れてました」
「……笑えねー」
気に入らない事があった時のいつもの口癖。二つめのメガ豚マンをかじりながら、戴宗さんは私を睨んできました。
「何なのおたく? いずれは所帯を持とうって男がボロボロになって帰ってきたってのに、仕事? 忙しい? 笑えねぇ」
対する私はジト目で見つめ返します。
「私が全然心配しない事が不満なら、それは、戴宗さんの自業自得です」
「ぁあ?」
「任務に出る度に毎回毎回大怪我して帰ってきて。私だっていい加減呆れます」
そうなんです。
戴宗さんはいつもいつもいっつもいっっっっっっっっっつも大怪我をして帰ってきます。
見習いだった頃――まだ幼かった私は、ボロボロになった戴宗さんを見る度に大泣きしていました。安道全医師の処置中だというのにその体に取りすがって、死なないで、お願い死なないでください、と懇願しました。任務に出る時は死ぬほど心配して、毎朝欠かさず「戴宗さんが無事でいますように。無事に帰ってきますように」とお祈りして――
それでもこの人と来たら、大怪我をして帰ってくるんです!
そんな生活がかれこれ五年。
さすがの私も学習しますし、耐性もつきます。血にも怪我にも人の死にも、慣れます。
自業自得という言葉に反論できないのか、豚マンを食べる手を止めてむくれてそっぽを向く戴宗さん。二十歳を過ぎたというのに、この人は昔と変わらず子供みたいです。
そんな人を好きになってしまったのは私。恋するだけでなく、愛し、結婚して家族になって新たな家庭を築いていくと決めたのは、他ならないこの私自身。
だったら申し訳ないけれど、いつまでのこの人の無鉄砲っぷりと子供っぽさに振り回されてなどいられません。
未だ復讐を誓うこの人と生涯を共にするのなら、この人以上に強くあらねばならないのだから。
――でも、本音では私はいつだって戴宗さんの身を案じています。無事に帰ってくる事を願い、酷い怪我をして帰ってくる事を恐れています。
それでも私が落ち着いて構えていられるのは、
「――――それに」
「……あん?」
「約束したじゃないですか」
……何年か前の事。
戴宗さんが瀕死の状態で帰ってきた事がありました。すごく強い敵に遭遇してしまい、小五さん、燕青さんと三人で死力を尽くして何とか倒したのだ――と、そう聞きました。
安道全医師と薛永さんの懸命の治療のおかげで何とか命を取り留めたけれど昏睡状態が続き、私は戴宗さんが目を覚ますまで一睡もせずに傍に付き添っていました。目を覚ました時、私は恥も外聞も捨てて声を上げて泣きました。
そんな私に困った戴宗さんが約束してくれたのが、
「私の所に必ず帰ってくる、って」
どんなに怪我をしても。
どんなに死にそうになっても。
翠蓮、俺は、必ずお前の所に帰ってくる――と。
その時の事を思い出したのか、耳まで真っ赤にする戴宗さん。
本人曰く、「半分寝惚けてた」時の約束。その約束をいつまでも持ち出されては、照れ屋の戴宗さんとしては恥じ入るしかないでしょう。
でも、それが何でしょう。だってこの人は、
「約束、絶対守ってくれるんですよね?」
「……………………おう」
約束を守ってくれる。
ちゃんと、私の所に帰ってきてくれる。
「だから私、戴宗さんの事、心配しません」
私はにんまり笑うとむっちむっちと豚マンを食べるのを再開します。
顔も耳も首筋辺りまで真っ赤になってしまった戴宗さんは、二つめの豚マンを平らげないまま、顔を伏せ頭を抱え「ぬぅわあああああああ」とよく分からない呻き声を上げていました。
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