何でそんな話になったのか。
酒の席での事だ。経緯は覚えていない。
けれどきっかけは覚えている。何せ言いだしっぺは自分なのだ。
「――お前、惚れた女とかいねえのか?」
月の綺麗な夜だった。
湖に面した四阿で、晁蓋は宋江と共に差し向かいで酒を飲んでいた。呉用も誘ったが仕事が終わってからと言って、まだ来る気配がない。そんなに仕事が立て込んでんのか、と思う晁蓋であるが、その原因の大半が自分のせい――つまり、晁蓋自身が処理すべき書類を面倒だからと呉用に押しつけているせいだとは、全く全然これっぽっちも自覚していない。
そんな折の発言に、宋江は目を丸くした。
「……何ですか晁蓋、藪から棒に」
穏やかながら憮然とした口調に晁蓋は思わず笑みを漏らした。かつて、この旧友の鉄面皮笑顔を崩したくて悪戦苦闘した事があったが、この話題は盲点だった。もっと早く出しておけば良かった。
「いやな」
更に憮然とする宋江に、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべて応じる晁蓋。
「お前、女っ気がねえからよ。どうなんだよ、実際」
実のところ、晁蓋は一度、宋江が囲っていた女というのを見た事がある。
梁山泊にやってくる前、生辰綱を奪う直前の事だ。別に見たかったわけではないのだが、県城に行った時たまたま見かけた。しかも、宋江と一緒にいるところを、だ。
が、それを見て晁蓋は拍子抜けした。
いや、あれは安堵だったか。
二人が一緒にいる姿は、何と言うか……男女の臭いがまるでしなかったのだ。
例えば流星・戴宗にくっついている翠蓮という娘。あの娘が宋江と一緒にいる時の様子に近い。
男と女ではなく、兄と妹――下手すれば父と娘にさえ見えた。
けれど宋江も男である。生身の人間である。
木石ではないのだ。心があるのだ。女の一人や二人、惚れた経験くらいあるだろう。
「……貴方は、どうなのですか?」
と、ようよう返してくる宋江。その声は笑っていた。が、どうにも取り繕った響きがある。
それが聞き取れたから、晁蓋は余裕綽々で応じた。
「俺? 俺ぁフラれてばっかだぜ。ま、別にいいんだけどよ」
「……そうですか」
おうよ、と頷く晁蓋。
それでこちらのターンは終了だった。
そして、宋江のターンだ。
「で、お前は?」
「…………」
宋江は、押し黙っている。
酒の杯を口元に運び、唇につける程度に一口呑み、卓に杯を置いて、
「――……いなかったわけでは、ないですよ」
彼の口元に、ひどく淡い、切なげな笑みが浮かんだ。
晁蓋は目を瞠る。そんなこちらに宋江は笑みを深める。
「昔の話です」
宋家村の隣村に住む娘だった。
押司になる前に出会った。どうという事のない出会いだったが、宋江は雷に打たれたかのような鮮烈な印象を受けた。
結婚を、意識しなかったわけではない。
だが、しなかった。
「……何でだ?」
宋江は笑っている。
晁蓋の訝しげな視線を受け、静かに、僅かに切なげに笑っている。
「まさか、親父さんが反対したから、とかつまらねえ事言うんじゃあるめえ?」
「もちろん。父は関係ありません」
「じゃあ、何でだ」
不意に、宋江は視線を外した。
向いた先は、月の浮かぶ夜空だ。
そこに散らばる無数の星だ。
「――私は、天命を知りました」
ゾッとするほど静かな声だった。
何かを決意し、そして何かを諦めた人間の声だった。
「だから、彼女と添い遂げる事は望みませんでした」
この瞬間。
晁蓋は、この話題を軽々しく口にした己を恥じた。
宋江は、笑っていた。
ただ、笑っていた。
その笑みで分かった。
宋江は、今でもその娘を――
晁蓋は溜め息を吐いた。溜め息は嫌いだ。辛気臭くなる。だが今の情けない心情を現わすのにこれほど相応しい行動はない。
「……悪かった」
「いえ、いいんですよ」
宋江は笑う。笑って、晁蓋の空になった杯に酒を注ぐ。
恋しなかったわけじゃない
「――さて、貴方のフラれた話というのを聞かせてくれますか?」
「ああ!? 何でだよ!」
「おや、托塔天王と呼ばれる男が、人に話させるだけ話させておいて自分が女性にフラれた話も出来ないのですか」
「っ――上等だ! 耳の穴かっぽじってよぉく聞きやがれ、宋江! あれは――」
呉用が四阿にやってきた時、晁蓋が何故かむせび泣いていて宋江がそれを困った顔で宥めていた。
巻き込まれたくなかったので逃げ出した。逃げ切れなかった。晁蓋の自棄酒に付き合わされた。思わず宋江を見たら、彼は頭領らしからぬ情けない顔をしていた。そんな顔しちゃ責められないじゃないか、と呉用は苦情を言うのを諦めた。
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