――それは、洗ったばかりのシーツを洗濯紐にかけるため、青空に向かってバサァッと投げ放つように広げる様に似ている。
 ただ、そのシーツはその時々によって様々な色に変わるのだ。喜びの色、悲しみの色、郷愁の色、そして、恋の色。ある時は懐かしい故郷の山の青さを、ある時は天女が舞い降りてきそうなほどに見事な満月の白さを、翠蓮はそれは見事に染め上げる。

 シーツの糸は、翠蓮の声。

 シーツは、歌。

 翠蓮は、歌う。


 パチパチパチと、翠蓮の周りで拍手が鳴り広がった。
「翠蓮姉ちゃん、お歌が上手いんだね!」
「うちの父ちゃんなんかよりずっと上手いよ!」
「ね、ね、お姉ちゃん、もっと歌って?」
「あのね、あたしね、月の女神様のお歌が聞きたい!」
 拍手の主は、翠蓮が今見ている近所の子供たちだ。
 隣人の洗濯を請け負ったり、野良仕事の間の子守をしたり、その子たちに簡単な字を教えたり。そうして受け取る銭や食べ物が、翠蓮の日々の糧だった。
 崩れた村外れの石垣に腰かける翠蓮は、今しがた受けたリクエストに微笑む。
「またあの歌? しょうがないなぁ」
「えーっ! 俺、違う歌がいい!」
「僕も、あの歌飽きたぁ」
 口々に不満を言い募る男の子たち。反感の声を上げる女の子たち。それらを前にして、翠蓮の苦笑はただ深くなる。
「はいはい、皆のリクエストはちゃんと聞くから。いつも言ってるでしょ、順番だよ、って」
「……はぁ〜い」
「怒られたぁ〜」
「うっせぇなぁ!」
「ほら静かに! 歌うよ!」
 少し声を張り上げれば、それだけで皆ピタリと口を閉ざす。歌に不満があろうとなかろうと、その目には期待の色が輝いている。笑みを深めて、翠蓮は息を吸った。
 声を、高く、高く紡いで。

 ――歌う。

 月の女神が地上に降りて人間の狩人に恋をした。二人は結婚したけれど女神は月を恋しがり、ついに夫を置いて月へと昇っていってしまった。残された夫は、月を見上げて嘆くだけ。
 そんな、切なく物悲しい歌を、翠蓮は歌い上げ――


「――知県だぁっ! 知県が……知県が、来たぞ――――っ!」


 ――ようとしたその矢先、村人の声が焦燥に彩られて村中に響き渡る!

「――皆、こっちに!」
 地響きが微かに耳に届いたのと同時に、翠蓮は立ち上がった。石垣――先月知県に破壊され、未だ修理されていない村の防壁――から離れ、子供たちを連れて村へと駆け戻る。

「保正はどこに!?」
「向こうの畑に――」
「女子供は家の中へ!」
「急げ! どこでもいいから!」
 だんだんと大きくなる地響き。村の男たちは切羽詰った怒号をかわし、家を出ていた女子供は血相を変えて走り回る。自宅がすぐ傍の者は自宅へ、遠い者は近くの家に断りもなく飛び込んでいる。翠蓮の家も少し遠い。考えている暇はなかった。走る先には、翠蓮に何かと世話を焼いてくれる張さんの家。
「――翠蓮ちゃん!」
「ごめんなさいおばさんっ!」
「いいんだよそんなの! さあ皆、奥に隠れておいで」
 張さんのおかみさんに促されるまま、翠蓮は子供たちと共に家の奥で息を潜める。ガタガタと伝わってくる子供たちの震え。翠蓮は彼らの肩をそっと抱き寄せた。大丈夫、そう慰めながらも、彼女の注意は外の様子に向けられる。

 ドドドドドドドドドドッ!
 知県の巨大な輿車が村の通りに駆け込んでくる轟音。
 それが――止まる。

「――やぁやぁ、可愛い羊たちぃ。知県様が見に来たよぉ〜」
「――……知県、今日は一体どのような御用で?」
「んー? いや、特に用事はないんだが……」

 じゃあ、一体何をしに来た?

 心の中で刺々しい問いをこだまさせた翠蓮は――続く知県の言葉に絶句し、恐ろしいほどの寒気と震えを感じた。

「見事な歌が聞こえてきたからなぁ〜」

「一体どんな美女が歌っているのか、と見に来たんだが……」

「――……どこにおる?」

 ――歌。

 ――私だ。

 ――私の歌が、知県を呼んでしまった!

「そ……そのような娘、この村にはおりません」
「そ、そうです知県! こんな田舎の村にそんな美女など……」
「そうだそうだ!」
 保正の硬い声をきっかけとして上がる村人たちの声。彼らが吐く――嘘。
 それは全て――翠蓮を、守るための。


 ――知県はあちこちに女を囲っている。望んで妾になった女は、まだいい。しかし無理強い荒れた女は泣き叫びながら連れていかれ、数ヶ月後、ボロ雑巾みたいになって帰ってくる。
 隣村のある娘は、そうやって無理に妾にされて捨てられて、帰ってきてからしばらくして、首を吊って死んだという。


「そうかぁ〜……それは悲しいなぁ。とてもとても悲しいなぁ〜……」
 ねっとりとした、いやらしい知県の声。恐怖が怖気となって翠蓮の背筋を這い登り、粟立たせる。
 怖い。
 怖い怖い怖い。
 お願い。
 早く帰って。
 お願いだから。
「よし、この悲しみを紛らわすため――この村の娘を五人、貰っていってやる事にしよう」

 息が、止まった。

 五人。
 五人が、知県に連れていかれる。
 翠蓮の隣人が。
 友達が。
 姉のような人たちが。

「――お、お待ちを知県!」
「ん〜、何だ保正ぃ? 何か……文句でもあるのかぁ?」
「ひっ……――い、いえ、まさかそんな滅相もない!
 し、しかし、この村の娘たちは知県がお気に召すような器量良しではありません! そんな娘たちをご紹介するなど、いかにも失礼! ですので……よろしければ、こちらを我らの『誠意』としてお納めください……」
「ほ? ほぉ? おぉ〜……いやいや、催促したつもりはなかったのだが……保正よ、中々良い心がけではないか。ん〜?
 よしよし、では今日のところは帰ろうかの。――出せ」

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!
 来た時と同じ地響きを上げて、知県の巨大な輿車が帰っていく。
 たまらず翠蓮は飛び出した。翠蓮ちゃん! 翠蓮姉ちゃん! おかみさんや子供たちの声を振り切って、走る、走る、走る。角を曲がり、家の陰から飛び出して、翠蓮は息を切らせて躍り出る。砂埃が未だ舞う村の通りの、そこで脱力したように座り込んでいる保正と、男たちの元へ。
 翠蓮を、守ってくれた人たちのところへ。
「み、皆っ……皆、ごめんなさい!」
「翠蓮」「翠蓮ちゃん……」
「わたっ、私っ、私の、せいで……あんな、あんな奴に、村の……大切な、お金っ……!」
 ボロボロ、ボロボロ。涙がこぼれて止まらない。
 申し訳なかった。
 自分の歌でこんな事になった。それがただ、消え入りたくなるくらいに申し訳ない。
 この村は弱くて、貧しかった。知県や県尉や都頭にこういう形でなけなしの村の蓄えを搾り取られる事が、少なくなかった。
「――気にするんじゃあない、翠蓮」
 置いた保正の優しい声。
「銀二百貫くらいでお前や他の娘たちを守れるなら、安いもんじゃ」
「――そうだぞ、翠蓮」
「お前のせいじゃあないぜ!」
「俺たちの歌姫をあんなスケベジジイに渡してたまるか、ってんだ!」
 ボロボロ、ボロボロ。
 吹いても拭いても涙は次から次にこぼれて落ちる。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ほとんど消え入りそうな声でいつまでも呟き続ける翠蓮の頭に、ポン、と張さんの手が乗せられた。
「さあ、もう戻りなさい。もう大丈夫だから」

 優しい声。

 優しい人たち。

 どうしてこの人たちが、こんなに苦しめられなきゃいけないの?

「――だが、これからどうすれば」
「あの知県の事だ、どうせまた来るに決まってる」
「あいつを何とか出来ればなぁ……」
「――替天行道さえ、来てくれりゃあ……」

 トボトボと、家に向かって歩いていた翠蓮は、足を止めた。

「替天行道?」
「……ああ、噂の義賊か」
「メンバー全員、すげぇ強いっていう」
「そういやぁ、真っ赤な火の玉になって走る奴がいる、って聞いたな……」
「シャボン玉に乗って空を飛ぶ、仙人みてぇな奴もいるとか」
「――よさんか、そんな与太話」
「張さん、でも」
「いるわけがないんだ。だからわしらは、自分たちで何とかせにゃならんのだ」
「でもよ――」

 翠蓮は――

 走り出していた。

(替天……行道)

 家へと駆ける。

(替天、行道)

 駆け込む。

(替天……行道……!)

 両親の形見の品を、あさる。

 ――私に何が出来る?

 ――村の皆は、私を守ってくれた。

 ――旅芸人の娘の私を、この村に受け入れてくれた。

 ――皆、私の大切な人たち。

 ――私の家族。

 ――私に、出来る事は。

 見つけた。
 それは、芝居の衣装と小道具。古めかしい兜と鎧、色あせてところどころほつれた軍袍に、――パンダのお面。

「――……せめて、皆の光に」
 決然と呟いて、翠蓮は再び少ない家財をあさる。そして引っ張り出した麻布に、筆でデカデカとこう記した。


『替天行道』


 ――正義の味方みたいな義賊はいない。

 ――少なくとも、今すぐに翠蓮たちを助けてくれる、分かりやすくて都合のいいヒーローは、今ここにいない。

 ――自分たちで、何とかしなきゃならない。

「それなら、私がなる」

 本当に小さな光でも、翠蓮が灯す。灯してみせる。
 偽物の光。けれどその偽物の光は暗闇の中で点々と皆の足元を照らし、本当の光へと導く道標になるのだ。


 義賊出没、という報が知県の元に届いたのは、それから数日後の事だった。



光の道標

 

 

 

 明星開始三ヶ月くらい前?
 かくして翠蓮ちゃんは光を目指し始めましたよー、という話。そうして戴宗さんを連れ出せばいいよ、翠蓮ちゃん。

 

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