――敵に封じ込められた南の戦線の同志三人を救え。
それが、呉用から林冲に与えられた指令であった。
南側から梁山泊に押し寄せていた官軍、その兵力はおよそ一万。これ見よがしの進軍だったため、呉用はこれを囮と判断した。だから三人の同志に抑えさせた。呉用の判断は正解だった。本隊は大きく迂回する形で北からやってきた。林冲を初めとする替天行道の主力はそちらの戦線に当たった。北の戦線は林冲たち替天行道側が明らかに優勢だった。つまりこの戦いは、替天行道の勝利で終わるはずだった。同志を誰一人、欠く事なく。
そこにもたらされた報。囮だったはずの一万が、南の同志三人を包囲し、小さな木立ちに封じ込めた。補給路も断たれて彼らは兵糧攻めに遭っている。そして、北の戦線で蹴散らしたはずの本隊が、南に結集した。
ここでようやく聚義庁は思い違いに気付いた――敵の本当の狙いは、囮と思って油断した南の戦線の同志を兵糧攻めで疲弊させ、殺す事だ、と。
この状況を打開すべく、呉用は林冲に白羽の矢を立てた。
だから林冲は、北から南へと駆ける。
聞いたからだ。
――三人の中に……扈三娘が、いる。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
南の戦線、その包囲陣を形成する官兵たちの姿が、乾いた砂塵の向こうにおぼろげに見えてくる。
乾燥した中原にはいつでも黄色がかった砂塵が舞っている。よく晴れた日でも、黄砂のせいで先がよく見通せない。だから敵の接近を見逃す事がままあった。
そう――今の、官兵たちのように。
砂塵に突っ込み、飛び出した林冲は、どこか緊張感の欠いた表情を見せる後方警戒の官兵たちに踊りかかった。
蛇矛を振るう。
銀の軌跡が弧を描く。それに触れた兵は片っ端から吹っ飛んでいった。僅かに黄色がかった青空に、八十万禁軍の惰弱な兵士がポーンと舞う。
彼らから見れば、林冲は湧いて現われたようにしか見えなかっただろう。敵襲、と叫ぶ声は、喊声一つない突撃から三十秒以上経ってから上がった。ようやく包囲陣の後方に警戒が走るが、しかし林冲はこの時点で既に百、二百と敵兵を蹴散らしていた。穴は、穿たれた。
その穴に飛び込み、突き進む。官兵は密集しているから、こちらの接近に気付きながらも身動き一つ取れないまま蛇矛で斬られ、突かれ、弾き飛ばされる者が多い。彼らは仲間にぶつかり、その仲間は倒れる戦友を支えきれずに倒れ、そうして包囲陣の片隅で将棋倒しが起きる。
身動きが取れなくなる官兵が続出する一方で、林冲が穿った穴を埋めようとする者たちもいる。林冲の背後に回り、包囲して戟で突き刺そうとする官兵たちだ。襲いくる殺気、その数は――五。
愚直なまでに前へ前へと突き進む林冲の背中が、無防備だとでも思ったか。
「――愚かな」
林冲は小さく吐き捨てると、蛇矛の先を地面に軽くえぐり込ませ、表面とガリガリと削りながらその場で高速の一回転。終えて蛇矛を地面に勢いよく突き立てる。
夢幻百花・蓮華。
送り込んだ空気は地面を砕き、蜜にたかる蜂のごとく林冲に殺到しつつあった百近い官兵の足元で炸裂した。圧縮された空気は弾けて衝撃波となって彼らの体勢を崩し、中空へと吹き飛ばす。
包囲陣への突撃から、三分足らず。突然の襲撃に泡を食いながらかろうじて応戦の体勢を整えていた後方の官兵らは、蛇矛を地面に刺した姿勢のまま次なる獲物を探す林冲の姿に、息を飲む。
そしてさざなみのように湧き起こるのは、
「――おい、まさか」
「何で、ここに」
「北にいたんじゃなかったのか」
「――豹子頭」
「豹子頭!」
「豹子頭林冲が、来たぞ!」
林冲の正体を察した悲鳴。そこに含まれた怯えと慄きは、白い布に落とした一滴の墨のようにジワジワと、しかし確実に他の官兵に伝染していった。林冲の鋭い眼差しを受ける、それだけで尻込みし、戟を取り落としかける兵士までいる。
――見つけた。
分厚すぎる包囲陣の付け入る隙。
固い岩盤に見つけた僅かな亀裂。
林冲は容赦なく襲いかかる。その綽名のままに、獲物を見つけた獣のごとく獰猛に。包囲陣のひび、己の入れた亀裂をえぐって押し広げるように、蛇矛を振るって、駆け、突き進む。
しかし包囲陣の中ほどまで強引に突き進んだ時、亀裂をえぐる手応えがフッと軽くなった。林冲の警戒心が働く軽さであった。
前方。林冲がここまで広げてきたはずの亀裂が、こじ開けるまでもなく勝手に、しかも速やかに広がっていく。兵士たちが左右に退いているのだ。統率された動きで。
そして、道を空けた向こうから姿を現わしたのは、
「豹ぉぉぉぉぉ子頭ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
林冲の綽名を叫びながら長柄の斧を横薙ぎに振るってくる官兵。その体躯は周囲の兵たちより一回りほど大きく、身にまとった戦袍や具足は見るからに上等な物。将校クラスか。
こちらの頭を砕かんと、見るからに重厚な斧の刃が、鈍くきらめきながら驚くほどの速度で左から滑るようにやってくる。
かわせない、と見るや、林冲は即座に身を低くした。物騒な風切り音と共に頭の上を通り過ぎる斧。斧が左から右へと完全に流れきったのを見て、林冲は伸び上がるように敵将校へと肉薄し――
眼前に、斧の長柄があった。
「――――っ!」
とっさに蛇矛の柄を立てる。斧の長柄を持つ手を瞬時に入れ替える事によって、斧としての攻撃から棒としての攻撃に切り替えたのか。林冲の顔を薙ぎ払おうとした長柄はギリギリのところで蛇矛の柄に阻まれ、しかしその力は凄まじくて林冲の体が右へ流された。
体勢が崩れる。右足を大きく踏ん張らせて持ちこたえる林冲の、その視界に入ってきたのは、再び長柄に添えた手を入れ替えて斧による大上段からの斬撃に移行した敵将校の動きだ。
飛び退る林冲。斬撃は鼻先をかすめ、地面近くでピタリと止まる。そして敵将校は再び柄を持つ手を入れ替え、クルリと回転させるようにして柄の方で打ちかかってくる。林冲はまたも後ろに飛んで距離を取る。
その時、敵将校がニヤリと笑った。
得意げで、林冲をどこか小馬鹿にした笑みだった。
豹子頭林冲など、何ほどのものか。そう言っているように見えた。
林冲は激高しなかった。
ただ冷めた目で敵将校の動きを見つめた。
柄の一撃を回避した林冲へ、敵将校は長柄を持ち替え斧で斬りかかる。それを蛇矛で弾くと、やはりクルリと長柄を回転させて、手を入れ替え、持ち替えて――
ここだ、と。
林冲は容赦なく蛇矛を繰り出した。
岩すら貫かんばかりの鋭さで繰り出された蛇矛の一撃は、正確に、持ち替える寸前だった斧の長柄を直撃し、
――――敵将校の手から、得物がすっぽ抜けた。
やや後方へ飛んでいく斧。彼は一瞬呆け、それから、空になった自分の手を見下ろして顔色を変える。赤くなったり青くなったりしながら、わなわなと震えだす。
愚かな。林冲は憤懣とも憐憫とも取れない鼻息を吐いた。
武器を回転させ、クルクルと持ち替え、斧と柄の両方で攻撃する――そんな小手先の武技が通用すると思ったのか。
斧の部分だけでなく柄の方まで使えれば、確かに技のバリエーションも増えるし、そのトリッキーな動きで敵を怯ませる事も出来るだろう。だがその一方で、どうやったって克服できない弱点が生まれる。
武器を持ち替えるその一瞬だ。
持ち替えようと、片方の手を柄から離したその瞬間。どうしたって武器を持つ力が弱くなってしまう。
そこを狙いすまして鋭い一撃を加えればどうなるか。
答えが、今眼前にいるこの男の醜態だ。
さてこの男はこれからどうするか。素手で打ちかかってくるか、傍にいる兵士の戟を取り上げるか。調練の場ならこの場合の対応を教授するところだが、生憎ここは戦場で、林冲はこの男の師でも何でもない。無慈悲なまでに淡々と蛇矛を引き戻し、男の胸めがけて繰り出して、
蛇矛は敵将校の胸ではなく、
敵将校の横合いに伸ばした腕が捕らえて引き寄せた歳若い兵士の胸に、突き刺さった。
瞠目する林冲。
自分の胸に突き立った蛇矛を信じられないとばかりに見下ろし、血を吐いて、痙攣して事切れる若い兵士。
一瞬硬直したこちらの隙を突き、敵将校は盾にした兵士の体を放り捨てて包囲陣の中へ逃げ込んだ。お前ら、俺を守れ! そんな怒号のような命令を吐き捨てて列を搔き分け、潜り込んでいく上官を、兵士たちは唖然と、呆然と、愕然と見送る。それから思い出したように林冲を見やってきて、表情を戦慄に凍りつかせた。
ひ、と呻く兵士がいた。
震えて動けなくなる兵士がいた。
このまま何もしなければ殺される、そう思ったのだろう、決死の覚悟で戟を繰り出してくる勇敢な兵士たちがいた。
(――これが)
林冲の胸に沸々と込み上げてくる激情。
その名を、怒りという。
(これが、禁軍か)
かつて、師とも父とも仰ぐ王進が師範を務めていた軍。
かつて、林冲自身が王進と共に兵士たちの調練に当たっていた軍。
これほどまでに腐敗したか。
これほどまでに堕落したか。
小手先の武技を見せびらかし、部下を使い捨ての盾くらいにしか考えていない卑劣漢が将校になる――それほどまでに、落ちぶれたか。
林冲の表情が険しさを増す。それは獣の険しさだ。豹子頭の綽名に相応しい剣呑さだ。
その剣呑さをたたえたまま、林冲は蛇矛を構え直し、切っ先を地に触れさせる。
回った。
舞のように、その場で一回転した。
豹の尾のような黒髪の先が、美しい真円を描く。
戦袍の裾が扇のように広がる。
蛇矛の先が地面をこすり、えぐって――
巻き起こる、風。
地表を微かに削り、めくり、今まさに林冲を突き殺さんと殺到する兵士らの足元を揺るがせる、その武技の名こそ夢幻百花・蓮華。
「うわあああああああっ!?」
「おおおおおおおおっ――――!」
威力は弱く、範囲は広く。地を砕いて舞い上がる風に百を優に超す官兵が吹き飛ばされる。足元を砕いて体を浮かせる風は林冲を中心に同心円状に広がっていって、包囲陣をめくれ上がらせていき――
林冲は中空に視線を転じた。
舞い上がる兵士の中に、部下を盾にして逃げ出したあの将校を見つける。
駆けた。
跳んだ。
こちらの跳躍に、接近に、敵将校が気付く。あたふたと無様に手足をばたつかせ、唇が「待ってくれ」という形を作る。
待つものか。
敵将校と自分、双方の体が自由落下を始めるや、林冲は獲物に牙を突き立てる獣のごとき非情さで蛇矛を繰り出した。矛先は狙いを寸分過たず敵将校の胸に吸い込まれる。
「――がぁっ!」
濁声の絶叫が耳朶を打つ。だがそれも落下の風音であっという間に洗い流される。
林冲は蛇矛を振るった。
空中という不安定な場での突きだ。そんなに深く刺さってはいない。振るうだけで男の体は蛇矛から離れ、振るった勢いのままに地へと落下する。
包囲陣の、最前線近くに。
ドンッ! 落着の音。仲間の落下にいち早く気付いた官兵たちが逃げ惑い、結果として、将校の落下地点の周囲はクレーターでも出来たかのように丸い官兵の空白地帯と化している。
逃げ惑った兵士たち、今林冲を囲んでいる彼らは、こちらの静かだが鋭い視線に一様にびくりと震えた。豹子頭だ、豹子頭林冲だ――恐れを含んだ囁きがさざなみのように官兵たちの間を走り抜ける。
そして林冲は、駆ける。
包囲陣の内、木立ちに封じ込められた同志の元へと、駆ける。
蛇矛で居並ぶ官兵たちを蹴散らしながら、前へ、前へ、仲間の元へ。
包囲陣の最前線を形成する盾兵と弓兵が、林冲の蛇矛を恐れて持ち場を離れる。指揮官の怒声。亀裂を押し広げて突き進む林冲へと放たれる追撃の矢。しかしそれは僚友たちを捉え、同士討ちの危険に弓兵たちは二矢目を放つのを躊躇する。そのためらいに助けられて更に駆け、最後の障害たる盾兵たちを薙ぎ払い――
包囲陣を、ついに突破した。
走る速度を上げる林冲。放て! 官軍の指揮官の鋭い声と、弓弦の鳴る音。風切り音と共に飛来する矢。駆け抜けたあとに、あるいは横手に、バラバラと疎らな雨のように降り注ぐそれらを一顧だにせず、林冲はひた走る。
包囲の中心へ。
仲間の元へ。
それはもう目の前だ。思っていたよりもずっと小さい木立ち。木々は疎らで、そこにひそむ人影が目をこらさずとも確認できる。
その一つが突然木立ちから飛び出し、長大な武器をガララララッと振り回して、
「私です!」
叫んだ途端、動きが止まる。そして相手は目を見開き、
「――……豹子頭……?」
呆然とした声。
純粋な驚きの声。
こちらの到来を恐れるではなく、慄くでもなく、ただただ何故ここにいるのかと問う声。
林冲は少しだけ口の端に笑みを浮かべた。だが気は抜けない。立ち直った包囲陣の方から矢が雨あられとばかりに降ってきている。
「杜遷殿、戻ってください!」
「――お、おぅっ!」
雷電金剛杵を肩に担ぎ直し、林冲の声に従って慌てて木立ちの中に戻る巨漢の人影――杜遷。林冲は彼を追うようにして潅木を蹴散らし、くすんだ緑の木立ちに飛び込んだ。
そこは、酷い有様だった。
手負いの獣が上げる低い唸り声のような音が微かにする。それが一体何なのか、正体を見極めようと見回す林冲の目は、幹に突き立つ矢を捉えた。大して多くない木のどの幹にも突き立っている無数の矢。これだけの数が射込まれたのか。これでは、いつ矢が飛んでくるか気が気でなかったろう。
無数の矢に彩られた木立ちの中、林冲たちが飛び込んだすぐ目の前の草むらで、宋万が冥利拳金剛杵を両の手にはめて腰を浮かせていた。また敵か、そんな重苦しい色を浮かべていた双眸は、林冲の姿を認めた途端、
「……林冲、か」
明らかな安堵の色に染まって揺れた。いつも通りの重々しい声にもどこかホッとした調子があった。血と泥と埃に汚れた顔には疲労の色が濃いが、しかし生気は損なわれていない。
林冲は彼に頷きやった。
「はい、助けに来ました」
それから周囲を見回す。ホッとした様子の宋万。林冲の到来を喜んで、いつもよりやや弱々しく、しかし確かに笑う杜遷。その二人だけ。
眉をひそめて林冲は問うた。
「扈三娘は――?」
「――――……豹、子……頭……?」
声、が、
声が、聞こえた。
宋万の背後。
林冲の正面。
木立ちのほぼ中心にある、木の裏から。
「扈三娘!」
包囲陣の弓兵を刺激しないように実を低くしながら、林冲はその木に駆け寄った。裏側に回り込み、覗き込んで――息を飲む。
それは、常ならば決して見る事のない扈三娘の姿だった。
木の根方に座り込み、背中を幹に預け、両足を投げ出していた。
杜遷、宋万と同じく血と泥にまみれた顔には疲労の色が濃く、青ざめていて、生気の色が乏しい。それは両目をほとんど閉じ、荒れた唇を僅かに開いて浅い呼吸をしているからなのかもしれなかった。
双子の妹との絆で、戦場にあっては常に体から離さないようにしているはずの日月双刀はすぐ傍に放置され、その柄を常に握っているはずの両手は、腹部を押さえていた。その部分に林冲は瞠目する。
汚れた包帯が巻かれていた。
押さえる両腕の隙間から見える包帯の色が、赤黒い。
「扈、三娘――」
息を飲み、かすれ気味の声で呼びかけた。彼女はゾッとするほどの緩慢さでこちらを見上げる。
「豹子頭……来て、くれたの……?」
僅かに笑んだ扈三娘の応じる声は小さい。林冲は聞き逃さないよう傍らにしゃがみ込む。
「はい、来ました。遅くなってすみません」
「本当……遅い、のよ……でも、ま……いっかぁ……」
弱々しい声。
か細い声。
扈三娘らしくない。ちっとも扈三娘らしくない。
一丈青扈三娘は、元気で、溌剌としていて、こちらを怒鳴りつけるどころか蹴りつけてくるようなとんでもない女だ。そうであって然るべきだ。
そういう女こそが、扈三娘なのだ。
こんな弱々しい扈三娘は、扈三娘ではない。扈三娘と認めたくない。腹の底から湧き上がる焦燥ともつかない感情に駆られて、彼は息せき切って言葉を連ねた。
「しっかりしなさい扈三娘、これからこの包囲を突破するのですよ」
「……分かってる……。でも、ね、豹子頭……」
浮かぶ笑みは儚くて。
それこそ海棠の花のようにか弱くて。
「もう……指、一本も、動かせそうに……ないの……」
目尻に、涙、が。
「来て、くれて、ありがとう……でも、私……もう……駄目、かも……」
「っ――しっかりしなさい、扈三娘!」
腹の底から激しく突き上げてくる感情を懸命に抑え、林冲は努めて静かに、しかし鋭く囁いた。
「こんな所で弱気になってはいけません! 弱気になってどうするんですか!」
「でも、豹子頭……」
「そんな事では困ります。君にはまだ、聞いておきたい事があるんです!」
林冲の言葉に、何? と不思議そうに首を傾げる扈三娘。その弾みに、目尻に溜まった涙がこぼれる。頬から顎へと伝い落ちる雫に彼は束の間言葉を失って、しかし、問うた。
「扈三娘――」
「……うん」
「――朱貴殿が持たせてくれた糧食、君が全て一人で食べてしまったんですね?」
次の瞬間。
扈三娘は疲弊しきっているとは思えないほどの俊敏さで林冲からパッと顔を背けた。
背後の杜遷と宋万を振り返れば、二人も気まずそうに視線を逸らした。
やはりか。林冲は扈三娘に目を戻す。先程から聞こえる低い獣の唸り声のような音。何かと思っていたのだが、これは――……腹の虫の鳴き声だ。扈三娘の。
思わず溜め息を吐いていた。
「……扈三娘――」
「だってしょうがないじゃないっ!」
先程までの疲れきって息も絶え絶えな様子はどこへやら。改めてこちらを見ると同時に噛みついてくる姿はいつも通りの扈三娘だ。
「星の力使うとお腹空くし、朱貴さんの持たせてくれたご飯美味しいし! でもってあいつらったら人の事取り囲んでチクチクチクチク鬱陶しく攻めてくるんだもん、星の力使いすぎるのも仕方ないじゃないっ!」
「だからと言って杜遷殿と宋万殿の糧食まで平らげていいという事にはなりません! しかも補給路が寸断されて兵糧攻めの真っ最中に! 君はそれでも替天の同志ですか!」
「うっさい豹子頭! それじゃまるで私がか弱くないみたいじゃない!」
「君がか弱ければ私など脆弱すぎて生きるのも辛くなります!」
怪我をしているとは思えないほどの勢いで上体を起こし、いつもの調子で喚いてくる彼女へ怒鳴り返す。どうやら腹の傷は大した事なさそうなので、遠慮はなしだ。
反論が思いつかずにうーと唸るだけになった扈三娘に、林冲は大袈裟に、ややわざとらしく吐息した。
――替天行道は、最終的に百八人の宿星だけで国と戦う事を目標としている。
一人で万の兵に匹敵する宿星。そこだけを見れば百八人で宋軍八十万を下す事など楽勝のようだが、事は戦である。そんなに単純ではない。
簡単に言えば、補給の問題だ。
扈三娘のように、宿星としての力を使う度に腹が減る同志は多い。林冲も星の力を使いすぎれば恐ろしいほどの飢餓感を覚えるし、そうでない者だって普通に腹は減る。食事を取る。食が足りなければ、どれほどの志を持っていようと心は折れる。
しかし、百八人で宋軍と戦うのだ。単純計算の結果ほど余裕があるわけではない。最悪、百八人全員が最前線で戦う事もあり得る。
つまり、後方に留めておける宿星は限りなく少ない。補給路の確保と維持を任せられる宿星は、その中でも更に少ない。それは、宿星たちの命綱になる補給路を、最悪、宿星でない同志に任せる可能性も含む事を意味する。
……百八人で戦わなければいけない替天行道。その弱点は、決して長期戦に向いていないという点に尽きる。常に最前線に出ずっぱりになる恐れをもつ百八人に対し、敵である宋軍はその圧倒的な兵力で以っていくらでも人海戦術を仕掛けてくる。こちらの疲弊を誘う。その敵を如何に早く削り潰せるかが、替天行道の戦術の要になるのだ。
使いすぎるとしばらく使えなくなる星の力。
決して強固とは言えない補給路。
この弱点と、扈三娘の大食いとが、今回は大いに利用された。扈三娘の大食いによって弱点が強化され、結果として、替天の弱点が宋軍に露呈し、兵力を惜しみなく投入すれば宿星であっても作戦次第で倒せる――その実績を、与えてしまったのだ。
だがこの対処を考えるのはそれこそ呉用の仕事である。林冲は、林冲の仕事をしなければならない。
「とにかく、包囲陣を突破します。立ちなさい扈三娘」
「……無理。お腹空いて戦えない」
扈三娘の口調は投げやりだ。テンションと戦闘力が腹具合によって左右されるのは知っていたが、まさかここまでやる気を失くすとは。同じく腹ペコの杜遷と宋万は決してそんな素振りを見せず、意気揚々と武器を携えて敵の出方を窺っているというのに。
だが、林冲も彼女を動かす切り札を一つ持っている。
「君たちが戦う必要はありません。敵は全て私が引き受けます。君たちは、私の後ろを走ってついてくればいい」
「豹子頭、そいつぁ」
その杜遷がハッと肩越しにこちらを振り返る。自分一人で敵を引き受けるのか、僕たちの盾になるのか、そんなの駄目だ。そう言いたげな彼へ、林冲は小さくかぶりを振った。
「元々私はそのために来ました。貴方方を無事に梁山泊まで連れ帰るために。戦う準備も覚悟も整えてきています」
「――……でも、駄目」
それでも扈三娘は頷かない。立ち上がらない。さっきまでの元気は、まさか最後の力だったのか。らしくなくうつむいて虚ろに呟く。
「お腹空いて、動けない。ホントに。いくらあんたが代わりに戦ってくれるから、って……走れないわ」
――切り札、オープン。
「包囲陣の向こうで、朱貴殿が君のために新メニューのテラ豚マンを試作していますよ」
「そういう事はもっと早く言いなさいよ豹子頭! ――ほら何ボケッとしてんの! さっさと行くわよ!」
効果覿面だった。
動けないと言っていた扈三娘は嘘みたいに立ち上がり、日月双刀もしっかり携え、今にも駆け出していきそうな勢いで林冲に立ち上がれと手振りで促す。
いざとなったらこう言えばいいよ。三人の窮乏を予測していた林冲に朱貴が授けた切り札は、さすがの効き目であった。元気を取り戻した扈三娘の姿に、杜遷と宋万も嬉しそうに、あるいは微かに笑う。そして改めて武器を構え、包囲陣の様子に視線を飛ばした。
臨戦態勢が整ったのを見て――扈三娘が、不意にクスリと笑った。
「――やっぱあんたって凄いわ、豹子頭」
「はい?」
「あんたが来ただけで、敵は隙だらけになって、杜遷も宋万も私も、また戦う気になった」
「――あんたみたいなのをきっと、『英雄』って言うんでしょーね」
「……私はそんな大層なものではありませんよ」
と、肩を竦める林冲。そーかしら、と嘯く扈三娘は、もういつもの彼女だ。少しフラついてはいるけれど、彼女も、杜遷も宋万も、気力は十分。
ならば――大丈夫だ。
「お喋りはここまでです。さぁ、行きましょう」
「ええ!」
「おぅ!」
「んん!」
そうして同志三人を背後に従え――
英雄が、戦場を駆ける。
英雄
「――あ、そうだ、豹子頭」
「何です扈三娘」
「こっちの戦線にも、敵の宿星がいるみたい。一人だけで、どんな力持ってるかまではよく分からないんだけど」
「一人くらいならば何とかなります」
「でもそいつさー……猫、連れてんの」
次の瞬間、猫好き林冲が凍りついた。
これ以上ないというほどの驚愕と戦慄の表情を見せた。
あーこれは私がやらないと駄目かも。替天行道が誇る英雄の体たらくに、扈三娘はそう諦めと共に決意したのだった。
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