……あ?
戴宗は、一つ瞬きをした。
……何でこんな事になってんだ?
戴宗の目線の先には、何故か押し倒した形で寝台に組み敷いた、翠蓮の真っ赤な顔。
……あー、そうだ。
今日も今日とて任務の旅。戴宗は、翠蓮、林冲、扈三娘の三人と共に南に向かっている。
で、今日はちょっと早めに宿を取った。ちなみに部屋割りは、戴宗と林冲、翠蓮と扈三娘という組み合わせである。戴宗のこれからのプランとしては、林冲を追い出して部屋を独り占めするつもりだ――と、そうではなくて。
部屋に引っ込み、林冲が任務絡みの所用で宿を離れ、さて食堂にでも行くかぁと腰を上げた時、戴宗は気付いた。
路銀は全て、翠蓮が管理している。
戴宗や扈三娘に任せたら最後、あっという間に食費に消えてしまう。そう危惧した蒋敬がこっそりと翠蓮に全て渡していたのだった。それを奪い取るか、それとも無銭飲食するか、思案してとりあえず前者を選んだ。翠蓮から奪って豪遊する事にしよう。出来なければ――タダ飯を食って逃げるだけだ。
それで翠蓮たちの部屋を訪れた。扈三娘は何か用事で部屋にいなかった。おたく、ちょっと金くんない? 軽く全額。な、何言ってんですか戴宗さんっ、これは蒋敬さんから預かった大切な路銀――ちょっ、駄目ですっ、駄目ですってば――きゃあっ!
――こんな感じで揉み合って、奪おうとして、そして戴宗がバランスを崩して翠蓮ごと倒れて。
で、この体勢である。
それにしても翠蓮は顔が真っ赤だった。耳まで真っ赤になって、目を見開いて、戴宗の顔と彼の右手の行方に視線を送って、あううと呻いたきり絶句する。あん? と首を傾げて、戴宗もまた自分の右手がどこにあるのか、改めて見下ろした。
見た。
信じられなかった。
笑えねー、と本気で思った。
例えば、孫二娘。あのウシ乳女ならこんな事にはなっていない。
例えば、扈三娘。戴宗の好みから言えばボリュームが足りないが、それでも触れればそうだと判る。
笑えねー。もう一度、思う。
戴宗の右手は、翠蓮の左胸に思いきり乗っていた。
まさかこんな事になっているとは。
感触からして、てっきり寝台に手を突いているものと思っていたのだ。
いや、寝台ともまた違う。この感触は、まさしく、
「――まな板……!?」
「っ――怒りの鉄鍋ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
呻いた直後、一瞬にして目を逆三角形に吊り上げて鬼のごとき形相になった翠蓮の、どこからか出した鉄鍋の縁が、戴宗のあばら骨にクリーンヒットして軋んだ嫌な音を立てた。
§
ゴワァァンッ!
扈三娘は瞠目した。
宿全体を揺るがすほどの重く低い金属音。それは紛れもなく、自分たちの部屋から聞こえてきた。
ちょっと小腹が空いたから、翠蓮に頼んで銀を貰い、食堂で軽く豚マンを二十人前平らげてきたところである。それでもまだ足りなくて、夕飯までもつかしら、と呟いていた時に聞こえてきたのが、その音だった。
それが翠蓮の鉄鍋の音だと、すぐに気付いた。
翠蓮に何かあったのだと、すぐに思い至った。
「――翠蓮ちゃんっ! 大丈夫!?」
扈三娘は部屋に駆け込んだ。翠蓮は二つある寝台の側の床にしゃがみ込んで、
「こ……扈三娘さぁぁぁぁんっ!」
こちらを見るや否や、涙と鼻水を流して抱きついてきた。うわーんっ、と泣く彼女は切れ切れに、
「戴宗さんがっ……戴宗さんがぁっ……!」
扈三娘は、気付いた。
乱れた寝台。
その近くに転がっている、翠蓮の鉄鍋。
そして――寝台際の土壁に肩の辺りまでめり込んでいる、流星・戴宗の姿。
その彼の両腕が、壁に突き、
「ちっ……笑えねー」
ドスの利いた声と共に、ボコリ、彼は砂埃を上げて壁から抜け出て、
「――笑えないのはこっちよ」
顔を汚した戴宗の胡乱げな視線と、翠蓮を庇う扈三娘の冷ややかで鋭い視線が、交錯した。
「流星……あんた、翠蓮ちゃんに何したの?」
扈三娘の声は、いつもより数オクターブ低く流れて――
§
この近辺で活動している同志の間者から情報を受け取り、林冲は宿に戻ってきた。
官軍の動きが活発化している。しかもその動きは南に集中しているのだ。だが、動き始めた時期から考えて、林冲たちの行動に反応してのものではない。
南に何かあるのか。このまままっすぐに行って良いものか――考えながら宿の戸をくぐろうとした林冲は、何か気配のようなものを感じ、客室に面した庭の方へと回った。
そして見た。
縄でグルグル巻きにされて、庭の木に逆さ吊りにされている、戴宗の姿を。
……何だろう、これは。
私はもしかして、宿を間違ったのだろうか。
いや、だがあれは紛れもなく義賊。あの橙頭は間違いない。だが、何故逆さ吊り? 何故グルグル巻き? そして何故、ノビている?
一〇八魔星の力にも目覚めた替天行道の流星が、気絶させられるなんて。まさかこれは……官軍の刺客の仕業か!? そうなれば、扈三娘……はまず無事だろうが、翠蓮が危ない!
「ちょっと、豹子頭!」
駆け出そうとした林冲に、声がかかる。
怒りに満ちた女の声。
客室の窓から身を乗り出した扈三娘が、目を逆三角形にして声を荒らげていた。
「そんな奴ほっときなさい!」
元々放っておいている。
いや、そうではない。林冲は彼女へ問うた。
「これは一体何事です!? 何故、義賊が逆さ吊りに――」
「そいつが悪いのよ! 翠蓮ちゃんに酷い事したんだから! もう最っ低ー!」
そうか、ではこれは扈三娘の仕業か。刺客ではない事に安堵し、それからようやく肝心の事に目を向けた。
……翠蓮に、酷い事?
林冲はゆっくりと、木の枝に吊り下げられた橙頭の少年を見下ろす。う……と呻き、不機嫌そうな顔でうっすらと目を開ける戴宗を、ただ見つめる。
林冲の、光の加減では琥珀色にも見える明るい茶色の双眸と、戴宗の不敵な色を湛えた黒っぽい眼が、かち合った。
「……何見つめてくれちゃってんの、気持ち悪ぃ」
「義賊……――」
嫌そうにぼやく彼へ。
林冲は、スィと目を細めてこれでもかとばかりに冷気を滲ませる。
「貴様は一体何をしているかああああああああっ!」
が、続けて放たれた怒声はどこまでもどこまでも熱く宿を震わせ――
「…………………………うぜ」
「少しは懲りなさい!」
無理な話だった。
§
「あんな奴ほっとけばいいのよ翠蓮ちゃん!」
「そうです、翠蓮殿。いたいけな女子に乱暴を働くなど、男子にあるまじき事。逆さ吊りのまま反省させなさい」
とは言われたが――
さすがに可哀相になったので、翠蓮は夜にこっそりと宿を抜け出し、庭に回った。
半月のほのかな明かりが降る闇の中、塀や木や植え込みの影をぼんやりと目が捉える。そして、木から釣り下がる蓑虫にも似た影を見つけ、
「……戴宗さん?」
小声で、静かに、ソッと声をかければ、
「……何だ、おたくか」
だらけていながらもどこか刺々しくて人を寄せつけない声が、返ってきた。
「何の用だ?」
「あの……戴宗さん、大丈夫ですか?」
「おたくのせいでアバラが二、三本イったんじゃねぇかな」
「ご、ごめんなさい」
頭を下げる翠蓮。戴宗がチッと舌打ちする。
「それで? 何しに来たんだ?」
「あ、あの……」
後ろ手に持っていた皿を前に回した。
「お腹、空いてるんじゃないかな、って思って……豚マン、貰ってきました」
乗せられた豚マンは、まだホカホカと湯気を立てている。闇の中、戴宗の腹の虫が盛大に響き渡った。
やっぱり。翠蓮はホッと息を吐く。
――が、
「で?」
「はい?」
「おたく、それをどうやって食えと?」
……………………そうでした!
言われて気付き、肝心な事を失念した自分の迂闊さに翠蓮は言葉を失った。
グルグル巻きの逆さ吊り。
――一人で物を食べられるわけがない!
「え、えーと……――じゃあ……」
「縄ぁ外せ」
「駄目です!」
「駄目かどうかは俺が決める。外せ」
「そしたら戴宗さん、地面に落ちちゃいますよ!?」
「おたく、俺がそんな鈍くさく見えんの?」
確かに戴宗の身軽さならば、支えないまま縄を切ったとしても手を突くなり体勢を入れ替えるなりして、地面との激突を防ぐだろう。
だが、
「それに、私、今刃物持ってませんし――」
そこまで言ってようやく、彼は諦めたらしかった。闇の中からチッ、と再び舌打ちが聞こえる。
「だ、だから……私が、食べさせてあげます」
戴宗が文句を言う前に、翠蓮は豚マンを手に取ると戴宗の顔の辺りに差し出した。
闇に慣れた目が、彼が口を大きく開けたのを捉える。
そして、
バクッ。
「……………………え?」
呆けた声が、翠蓮の口から漏れていく。
手に持った豚マンは、食べられていた。
翠蓮の、手ごと。
モシャ。
モグモグ。モグモグ。
モッチャモッチャモッチャモッチャ。
……ゴクン。
ペッ。
咀嚼。
更に細かく咀嚼。
嚥下。
そして、最後に、翠蓮の手が唾液まみれ食べカスまみれで吐き出される。
「――な……?」
今、何が起こったの?
私の手、どうなってたの?
戴宗さんに、食べられて。
豚マンと一緒に、食べられて。
噛まれて。
舐められて。
……唾液でベッタベタ。
「チッ……豚マン一つなんて笑えねー。おたくも気ぃ利かねぇな」
「たっ……たっ……戴っ、戴っ……」
「あぁん?」
口から漏れ出る声は頼りなく上ずって、言葉らしい言葉になってくれない。すぐ傍で聞こえる戴宗の不機嫌な声よりも、噛まれた感触が、舐められた感覚が、そして一瞬前まで残っていた彼の口腔の熱がやけに生々しくて、けれどそこに唾液とか食べカスとかがくっついてきてだから余計に今の出来事をどう受け止めていいのか判らなくて。
そんな風にいっぱいいっぱいな翠蓮に更にトドメを刺す言葉が、戴宗の口から、サラッとこぼれた。
「何おたく、感じたの?」
全身が沸騰した。
頬が、顔が、今までにないほど熱くなった。
頭が真っ白になった。
そうなれば後はもう衝動のままに動くだけで、
「戴宗さんの馬鹿ああああああああああああああっ!」
ゴワァァァァァァンッ!
鉄鍋をフルスイング、その縁が再び戴宗の体に命中する!
「もう知りませんっ!」
ゴキョッ、という危険な手応えと「おぶっ!」というおかしな戴宗の悲鳴をほとんど意に介する事なく、翠蓮は涙目で庭を駆け去った。
§
さて、この一連の騒動の中で彼がどうしていたか、と言えば――
「ブー」
「し……師匠さん?」
翠蓮が駆け去った後の庭に、彼はようやく出てきた。
不肖の弟子が不祥事をやらかす前から、彼は弟子と別行動をしていた。具体的には宿の猫好き女将に「あら、可愛い猫ちゃん!」ともてはやされ、首尾よくチャーシューをいただいていたのである。その後は弟子に代わって翠蓮を慰め、彼女らと共にいた。
その彼が部屋から出てきたのは、翠蓮が抜け出した気配を察知したからである。こっそりと後をつけてきてみれば、翠蓮は不肖の弟子に餌を与えていて、弟子はまた何かやらかして、翠蓮に鉄鍋でぶん殴られていた。ブー、と吐息を吐くのも無理からぬ話というものだ。
そして駆け去り、宿の入り口に入ろうとした彼女を、彼は呼び止めた。
「師匠さん……どうして、ここに? 寝ていたんじゃ」
「ブー」
「あ……もしかして、戴宗さんが心配ですか?」
翠蓮の声に自責が僅かに滲んだ。ブー、と彼は否定の声を上げる。だが生憎彼女はまだこちらの言葉を完全に理解できない。
「そう、ですよね。私、二回も戴宗さんを鉄鍋で殴っちゃって……」
彼女は、こちらの傍にしゃがみ込んで膝を抱えた。
「――……私、何やってんだろ……」
途方に暮れた声は、少しだけ、本当に少しだけ、濡れている。
ブー、と彼は呟いた。彼女は悪くない。悪いのはあの馬鹿弟子だ。そう伝えたかったが、伝わらない。弟子以外の者に意思を伝えられない事がこれほどまでにもどかしかったかと、彼は初めてそう感じた。
「――ごめんなさい、師匠さん。私の話なんて、どうでもいいですよね」
パッと立ち上がり、わざとらしい明るい声を出す翠蓮。それが余計に彼女の落ち込みようを浮き彫りにする。
「私、もう寝ますね」
「ブー」
「――あ、そうだ」
と。
去りかけた翠蓮は、足を止め、こちらを肩越しに振り返る。
「あの、戴宗さん……後で、下ろしてあげてください。さすがにあのまま一晩過ごすの、可哀相だし」
お願いしますね。
そう頭を下げて、翠蓮は宿の中に戻っていった。
見届けた彼は、庭に赴く。
夜目は利く。闇の中でもどこに物があって誰がいるか、彼には十分見通せる。
その視界の中――木に吊るされた弟子は、
「――ふんっ!」
掛け声一つと共に、腹筋運動の要領で頭を持ち上げて自分を吊るす縄にかじりついていた。そうして朝までやり過ごすつもりか。思わず、
「……ブー」
呆れた声が漏れる。すると、背を向けた形の弟子が、
「ひひょお(師匠)」
「ブー」
「――みうるひいほほろをおみへひへまふ(見苦しいところをお見せしてます)」
「ブー」
ピョンッ。
彼は弟子を吊るす木によじ登る。そして弟子が世迷言を言うより早く縄がくくられた枝に辿り着き、
シュパッ!
枝から落ちながら、爪で縄を斬りほどく。
落下する馬鹿弟子。しかし為す術なく地面に激突するほど鈍くさくはない。手を突き、逆立ちの形を取り、そのまま危なげなく地面に足を着け、
「助かりました、師しょ――」
ビャッ!
皆まで言わせずその腑抜けた面を引っ掻いてやった。
着地。よろめきつつも何とか踏ん張った馬鹿弟子は、さすがに驚いたか目を見開いて、
「し、師匠――」
「……ブー」
しばらくそこで反省していろ、馬鹿者め。
そしてお前に色々されながらも下ろしてあげてくれと言った彼女に感謝しろ。
それだけ言い残し、彼は宿の温かい寝床に戻った。
弟子は地面に座り込み、ポカンと呆けた表情でいたが、
「……痛ぇ」
思い出したように呟いた声は、珍しい事に、少し神妙だった。
「さあ、出発しましょう――の前に貴様は何故下りているのですか義賊!」
「あぁん? 何でいちいち坊ちゃんに説明しなきゃならねぇの?」
「……まさか下ろしたの、翠蓮ちゃん?」
「え、あ、いやその……ま、まあいいじゃないですか! どうせ朝になったら下ろしてあげる事になってたんですし! さ、さあ、急ぎましょう!」
宿の前で繰り広げられるやり取りの中、彼は翠蓮の頭から弟子の頭へと飛び移った。肩へと下りて豹子頭を睨むと、豹子頭は少し顔を赤くして、まあいいだの何だのとゴニョゴニョ呻く。話はそれで全て流れてしまった。出発の運びになる。
「あ、たこ焼き! ちょーだ――」
「まだ食べる気なんですか扈三娘さん! やめてくださいぃぃぃっ!」
翠蓮に止められた一丈青は渋々といった様子で戻ってきて、街道を行く豹子頭の隣に並んで歩き出す。そして翠蓮は溜め息を吐きながら不肖の弟子の隣を通り過ぎようとして、
「――……翠蓮」
「はい?」
振り返る。
きょとんとした彼女の顔。対する弟子はひどく決まり悪そうに視線を逸らして、ひどく不本意そうに口をひん曲げ、一歩、踏み出した。
「……………………悪かったな」
すれ違いざまに、ポン、と頭に手を置く。
撫でるとも叩くとも違う軽さとぶっきらぼうさ。翠蓮は更に表情を呆けさせて、え? と頭に手をやる。弟子の手の感触を確かめるかのように。
そして、ほんのり頬を紅潮させて――
「ボケッとしてるぞ置いてくぞ、翠蓮」
「あ――ま、待ってください戴宗さんっ!」
ぶっきらぼうで不器用な弟子の有様に、彼はブー、と吐息した。
鉄鍋ノクターン
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