何か、聞こえた気がした。


 たくさんの人に歓迎されて揉みくちゃにされて、その興奮がまだ続いているらしい。疲れているのに中々寝つけず何度も寝返りを繰り返し、やっとうとうとしてきたしてきたところに聞こえた「何か」の音に、翠蓮の意識は覚醒した。
「…………?」
 起き上がる翠蓮。視線が向いたのは、部屋の戸、その向こうだ。
 孟州十字坡は孫二娘の酒店。その奥にある小さな一室を翠蓮は寝室としてあてがわれていた。そして、廊下を挟んで向かいの部屋にいるのは、
(……戴宗さん?)
 と、林冲だ。
 特に忍ばせていない足音が、表の方へと向かう。その主を彼女は戴宗だと直感する。もう真夜中だ、林冲なら眠っている者を起こさないようにともっと気を遣う。
(どうしたんだろう)
 トイレは反対側。だから用足しとは思えない。
 それほど悩まず、翠蓮は行動に出た。温くなった寝台を出て、裾長の上着を羽織ると、足音を忍ばせて部屋を出た。
 暗い。
 廊下には灯り一つなく、突き当たりの格子窓から微かに漏れさす月光だけが道しるべだ。頼りないそれを目指して慎重に歩を進ませ、突き当たりを右に折れる。
 そしていくらも歩かない内に酒店の厨房の脇に出る。漂ってくる食欲を誘う香は、寝室に下がる前に見た孫二娘と張清の「明日の仕込み」の成果だろう。
 店内に出る。
 まず耳に飛び込んでくるのは、店のど真ん中で大の字になって寝ている花和尚の豪快ないびき。その投げ出された足の下敷きになった蒋敬が「帳簿が……帳簿が……」とうなされていて、更に隅の方では劉唐が王定六に顔を足蹴にされながらも眠っている。青筋を立てて。
 戴宗は……――店の、外?
 店の出入り口の方へと意識を向けた途端、その音を耳が捉えた。
 風切り音。
 それは幾重にも幾重にも連なり重なり、切れ間のない高速の音の連打となる。
 翠蓮は確信と予感を得る。
 この風切り音の主――外にいるのは戴宗だ、という確信と。
 行かない方がいい、という根拠のない予感。
 しかし、
(――何やってるんだろ、戴宗さん)
 そんな好奇心の方が強くて、翠蓮は、花和尚らを踏まないよう気を付けながら、店の出入り口の陰から外をそっと窺った。

 戴宗が、いた。

 予感は的中した。行かない方がいい。いや――
 見ない方が、良かった。
 戴宗は一心不乱に剣を振るっている。突き、払い、斬り下ろし、逆袈裟――翠蓮の目では追いつかない技のオンパレードに息を飲む。
 だが、そこではない。
 翠蓮が愕然とし、足を竦ませ、呼吸さえ止めたのは、そこじゃない。
 戴宗の、表情。
 あんな顔を翠蓮は初めて見る。
 飢え渇いた獣の表情をしていた。
 それも、血に飢えた、だ。獲物に牙を突き立て、引き裂き、その血をすすらないと満たされない――そう言わんばかりの、凄絶で獰猛な獣。戴宗は、そんな顔をしている。
 そして……苦しそうなのだ。
 彼が剣を振るう姿は、憎い敵を執拗に斬り刻む姿にも、己を包む見えない「何か」を必死に振り払おうとする姿にも見える。
(戴宗、さん?)
 声にならない呼びかけ。
 あそこにいるのは翠蓮の知る戴宗ではない。あんな風に、必死になって何かに抗う姿は――翠蓮の知る、戴宗ではない。
 一体、あれは、
(――誰?)

「――――戴宗、ですか」

 翠蓮は身を大きく震わせた。
 心臓が口から飛び出すかと思った。身の内でバクバクと跳ね回っているそれを上から押さえるように胸に手を当て、身を竦ませて首だけで振り返った先、
「――……宋江、さん?」
「眠れないのですか、翠蓮殿?」
 替天行道の頭領(ボス)・宋江は、いつの間にか翠蓮の背後に立っていた。そして穏やかな笑みを向けてくる。
「いえ、あの……」
 何を言えばいいのか、口ごもる翠蓮に、
「――戴宗ですか」
 彼は、視線をこちらから外の戴宗に移して、同じ言葉を繰り返す。
 その笑みに不意に痛ましげな色が差したのを、翠蓮は見た。目を瞠った彼女の視線の先、宋江は嘆息するように呟く。
「……また、夢を見たのですね、戴宗」
「――夢?」
「ええ」
 頷く顔も声も穏やかで優しげなのに、それはどんな夢かと問う事を押し留める圧力のようなものがある。翠蓮は開きかけた口を閉じて言葉を飲み、
「――そっとしてあげなさい」
 宋江の暖かな、何もかも包み込むような笑みを見る。
「今は、戴宗の好きなようにさせてあげなさい。
 ですが」
「……?」
「翠蓮殿、貴女はこれから戴宗の目付け役になる。きっとこれから彼のああいう姿を何度も何度も見るでしょう。もしかしたら、何が彼をああさせるのかを貴女は知るかもしれない。それを知った貴女は、彼とどう接していいか分からなくなるかもしれない」
 でも、と。
 宋江は、笑みを深めた。
 穏やかで、痛ましげで、しかし慈愛に満ちた微笑だった。


「――それでもどうか、あの子の傍にいてあげてください」


 それがきっと、あの子を引き留めるものになる。


 宋江の言葉の意味は全然解らないのに、そこに秘められた戴宗を心配する心だけは痛いほどに伝わった。

 

 そして宋江は誰にも気付かれないよう裏口からそっと酒店を出た。これから夜通しで済州に戻るのだという。
 お気を付けて、と見送った翠蓮は未だ剣を振るい続ける戴宗に目を戻す。

 あれは、誰だろう。

 そんな思いがまた浮かぶ。あれは戴宗さんだ、と自分で自分に言い聞かせても、それがにわかに信じられない。
 怖い。
 血に飢え、いきり立つ顔が。
 そこに滲む確かな憎悪が。

『――傍にいてあげてください』

 出来るだろうか?
 何が彼をああさせるのか、それを知ってしまっても尚。
 翠蓮は立ち竦む。
 それはまるで、足元に深い深い穴が開いているのに傍に行くまでまるで気付かなかった、そんな心地にとてもよく似ていた。





奈落の淵にて

 

 

 

 時系列は朱貴っちゃんの店に行く前。
 すんなり戴翠に行かない――ザッツ簾屋クオリティ。

 戴翠派の皆様に怒られるかもしれないけれど、簾屋は翠蓮ちゃんにそうそう「私が戴宗さんを支える」とか「癒してあげる」とか思ってほしくない。
 だって、戴宗さんの過去はアレである。半端ない壮絶さである。北方水滸ならゴー・トゥ子午山確定ルートである。正直な話、師匠から戴宗さんの過去を聞いただけでそんな覚悟を決めてほしくない。もっと段階を踏むべきだ。
 というわけで、段階を一つ踏ませてみせました。
 普段はダラダラやる気ない戴宗さんだけど、不意にすごく怖い顔を見せる――それを翠蓮ちゃんはまず恐れてほしい。その上で、それがどうしてなのかを知ってほしい。覚悟を決めるのはそれからだ翠蓮ちゃん。だって貴女はまだ十三、人生経験がその程度の娘っこにそんな決意をそうそうしてほしくはない。
 だから翠蓮ちゃんにいくつか試練を降りかからせてみたいなぁと思う簾屋(ドS属性)でした。

 

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