林冲はよく覚えている。
もう十年くらい前の事だ。その日林冲は、初めて瓦子(盛り場)に連れていってもらった。見た事もないほどの人出と、見た事もない様々な演芸。特に林冲が夢中になったのは説三分(三国志の講談)だった。劉備、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮、曹操、孫策、孫権、周瑜、呂布。そこに登場し、縦横無尽に活躍する英雄たちにどれほど心躍らされた事か。その日の講釈が終わり、王進と共に歩く帰り道で、林冲は自分こそがその時代に生きた英雄であるかのように延々と喋っていた。王進はただ笑って聞いてくれていた。
そんな時だった。
瓦子に出ている屋台の売り子の声がかけられた。何を売っていた屋台だったか。おそらく子供でも出来る簡単な手妻(手品)の道具を売っていたのだと思う。林冲はその誘い文句に惹かれて足を止め、王進は苦笑気味に、少し見ていくか、と言った。
店先に歩み寄った二人に、売り子の男はすわ商売とばかりに声を張り上げた。
『いやあ、賢そうな坊ちゃんだ! そんな坊ちゃんにはこれがお勧め! ――どうです旦那、息子さんにお一つ買われては!』
林冲は息を止めた。
息子、という言葉に心のどこかが叫んだ。
その叫びが何なのか、今もって林冲には分からない。ただ、その叫びがもたらした衝動に突き動かされるまま、幼い林冲は口走っていた。
『息子では、ありません』
売り子の男が目を丸くする。
『私と王進様は、親子では、ありません』
――林冲はよく覚えている。
その言葉を聞いた、王進の表情を。
笑みにひびが入り、虚を衝かれた無表情をした。
林冲は、よく覚えている。
胸が痛いほど切実な
くたびれた犬を、思い起こさせた。
書生の風体をした男である。歳の頃なら四十かそこら、おそらく王進と同年代だろう。私塾の教師をしながら科挙の合格を目指している、そんなように林冲の目には映った。難関の官吏登用試験・科挙は、難関であるが故に四十代の受験生などザラ、むしろ若い部類に入ってしまう――毎年落第している五十代、六十代の受験生も多いのだ。
そんな男が、居間で、王進の母に何やら熱心に説いていた。一方の母君はと言えばひどく困った顔をしている。しかしそれは、男に何か無体な事を要求されている、という感じではない。
こういう時に困るのが、使用人がいない事だった。
禁軍武術師範でありながら、王進は家に執事や女中の類を一人も置いていない。母君が、そういった者を置くのを嫌がるのだという。曰く、家の事は私一人で十分出来るのに、他の方の手を煩わせるなんて申し訳ない。
その優しい心は尊いが、こういう時、状況を把握した使用人の一人でもいればと思う。そうすれば、帰宅してすぐにどこの誰が何の用向きでやってきたか、分かると言うものだ。
王進は構わずいつもの堂々たる足取りで居間へと踏み込んだ。林冲はそれに無言で続く。二人の入る気配に母君が顔をパッと明るくさせた。
「ああ進、林冲、お帰りなさい」
「ただいま戻りました、母上。――こちらは?」
「これは失礼しました」
と、男は椅子から立ち上がる。王進に礼をし、
「私は曹文亮と申します。主・張謙様の使いで参りました」
「張謙の――」
その名に林冲はもちろん聞き覚えがある。
王進は禁軍の武術師範だが、彼一人で八十万禁軍全ての調練をつけているわけではない。王進の役割は禁軍全体の調練の統括で、林冲はその補佐である。禁軍にあるいくつかの部隊の個々の調練を執り行なうのは、それぞれについている師範だ。張謙というのはその中の一人、つまりは王進の部下の一人だ。
「張謙が使いまで寄越して、何の用だと言うのだ? 用があれば軍営で聞くのだが」
この疑問に答えたのは、曹文亮ではなく、
「進、それが……」
母君だった。彼女は王進の戦袍の袖を引くと、一瞬だけこちらに視線を寄越す。
それは何か、林冲に気兼ねしているような視線だった。
彼が首を傾げるより早く、母君は視線を外した。王進を少し屈ませ、耳打ちをする。一体どんな言葉を受け取ったのか、王進が僅かに眉をひそめた。
何を話しているのか。耳をすまそうとした林冲は、不意に視線を感じた。曹文亮だ。彼はこちらを値踏みするような、それでいて好意的な視線を注ぐと、やたらと上機嫌な笑みを浮かべて、
「おめでとうございます、林冲殿」
「……何を?」
「これほど良いお話は滅多にありませんぞ。どうぞお受けなされ」
良い話。
お受けなされ。
(まさか)
悪寒がした。
錯覚だ。本当に寒気を感じたのではない。感じたのは寒気ではなく、嫌な予感だ。曹文亮の上機嫌な、悪意の曇りなど一点もない笑みに反比例するほどの、寒々しい不安。それが心から漏れ出して林冲の背筋を凍らせる。
(まさか)
こういう事もある、と前から思ってはいた。
しかし、自分にそんな話が舞い込むとは、林冲はついぞ思った事はなかった。禁軍の武術師範補佐をしているとは言え、林冲の出自はどこまでも得体が知れない。そんな自分にそういう話を持ちかける者がいるとは思っていなかった。
「――曹分亮殿」
王進の呼びかけで、林冲の戦慄は止まった。
笑みのまま曹文亮は王進に向き直る。
「申し訳ないが、話が話だ。母ともよく相談したいので、今日のところはひとまずお引き取りいただけるだろうか。返事は後日に」
「もちろんです、王進殿。主も返事を急いではおりません。どうぞよくお考えください。良い返事を、お待ちしております」
と、深々と礼をし、退出する彼を王進自らが門まで送る。母君もそれに付き添った。林冲は一人居間に残される。追っても良かった、と遅れて気付いた。だが追う気力が起きなかった。嫌な予感が、戦慄が、再び林冲を襲う。
そして少しして、二人が居間に戻ってきた。
「――母上、茶を淹れてくれますか」
「ええ」
母君が台所に向かうのと、王進が卓に着いたのはほぼ同時だった。その鋭い視線が林冲を射る。
「座りなさい、林冲」
「……はい」
言われるままに、林冲は王進の向かいの席に座った。
しかし、王進は何も言い出さない。
その沈黙は、まるで迷っているようだった。何を迷っているのか。得た疑問が戦慄を助長する。林冲は、王進の言葉を恐れている自分に気付いた。
「――林冲」
「……はい」
「先月、お前はある娘を不届き者から助けたそうだな」
「……?」
林冲は眉をひそめた。それは一体何の話だ?
内心で首を傾げ、考える事しばし、彼の記憶に呼び起こされるものがあった。
――先月の事だ。
母君から頼まれた用事で出かけた林冲は、その途中で身なりの良い娘二人とその二人に絡むゴロツキ数名を見かけた。
二人の娘は、良家の令嬢とそのお付きの女中、という風情だった。
ゴロツキの方はこの開封府に掃いて捨てるほどいる、育ちだけはそこそこ良いけれど素行はとても褒められたものではない、男の風上にも置けないような連中だった。
道を行く人々は誰も彼も見て見ぬふりをするが、そこで見て見ぬふりをして素通りするのは王進の教えに反する。林冲は娘二人をかばい、そのゴロツキどもを一蹴した。
二人は涙を浮かべ、何かお礼をと金を取り出そうとしたが、林冲はそれを断った。それよりも母君から頼まれた用事である。どうかお気になさらずに、武人として当然の事をしたまでです――そう言い残し、林冲は二人の前から去った。
「――その娘というのが、張謙のご息女と傍仕えの女中だそうだ」
嫌な予感が、膨らむ。
「張謙はご息女から話を聞き、お前の行為に感動したという。そして、かねてから探していたご息女の婿に」
予感が、弾ける。
「お前を迎えたい――そうだ」
婿に、迎えたい。
その言葉の意味を履き違えるほど林冲は物事を知らないわけではない。婿に、迎える。それはつまり、
「私に、張家に入れと……そういう事ですか?」
確認する声は震えていなかった。それが良い事なのかどうか、判断する暇もなく王進は頷く。
「そうだ」
「何故です? 普通は嫁が婿の家に入るものでしょう」
「張謙には、男子はいない」
張謙の子はその娘だけだった。聞くところによると男子がいなかったわけではないのだが、不幸にも幼くして病で亡くなったという。張謙夫妻の間には娘の誕生以来子が生まれず、妾もいない彼に跡取りはなかった。婿養子を取らなければ張家は絶えてしまう。
そして、張謙は娘を可愛がっていた。
何せたった一人の娘である。目に入れても痛くないほどの可愛がりっぷりは、張謙との関わりを余り持っていない林冲にも聞こえてくるほどだ。
そんな可愛い娘の婿に、そこらの軟弱な腐れ官僚の子弟など迎えたくない。
迎えるならば、容姿、頭脳、武術、全てにおいて優れた男がいい。
娘自身が気に入った男なら、尚の事良い。
「ご息女は今年で十六歳、近所でも評判の器量良しで料理も裁縫も上手いという」
確かに、助けた娘は美しかった……と、思う。自信がない。助けなければと思って間に入ったから、林冲は実のところ娘の顔をよく見ていないのだ。
だから、王進様がそうおっしゃるならそうなのだろう、と無条件に、そして無防備かつ反射的に納得する。
そのため、続く王進の言葉に虚を衝かれた。
「どうだ、林冲?」
「――……は?」
「お前もまだ若いが、妻を娶るのに若すぎるというほどではない。張謙は信頼でき、舅として敬うに足る男だ。お前にとって、決して悪い話ではない」
林冲は、王進を見つめる。
王進は表情を余り動かさない。いつも厳しくも落ち着いた顔を見せている。感情の読めない顔だ。だが、十年近く王進の傍にいる林冲は表情の僅かな動きで内に秘められた感情を読めるようになっていた。
しかし、今は、――読めない。
王進の表情から、何の感情も、読み取れない。
――林冲の心に嵐が吹き荒れる。不安、焦燥、恐怖、戦慄、それらが一緒くたになった、言葉にするのも困難なグチャグチャの感情だ。
その嵐の中で叫びがこだまする。心の一部が上げる悲鳴だ。しかし林冲には何と叫んでいるのか分からない。
分かりたくない。
ガタリッ。
林冲は、立ち上がっていた。
「林冲――」
「王進様に、お任せします」
うつむきがちの視線は王進を捉えず、口からこぼれた声は無感動に乾いていた。
「王進様の良いようにお決めください。私は、それに従います」
「――待て林冲! 話はまだ――」
林冲は、王進の制止の声を聞かなかった。
何もかも振り切るように、居間を、屋敷を出た。
林冲は街を彷徨い出た。
宵闇訪れつつある開封府の通りには酒楼や飯店が軒を連ね、灯りを点し灯籠を飾り、料理の香や芸妓で客を捕まえようとする。しかし彷徨う林冲にかけられる声はない。傍目には、脇目も振らずにどこかへ急いでいるように見えるからだった。
が、林冲は彷徨っていた。行き先など考えていない。行くあてもない。頼れる者はもっといない。だからただ漠然と、それでいてきびきびと歩く。
(――私は)
夜の帳が完全に落ちきるというのに減る気配のない人ごみを掻き分け、思う。
(私は……王進様の、部下です)
言い聞かせる。
(私は、王進様の部下。それ以上でも以下でもない)
だから、王進が結婚しろと言えば、する。
王進が言うのだから、本当に悪い話ではないのだろう。張謙は敬うに足る男で、その娘は妻とするのに相応しい女なのだろう。婿養子として張家に入り、張家で暮らす。朝は張家から出仕し、練兵場で王進に付き従い、勤めを終えて帰る。
張家へ。
母君の待つ、あの屋敷ではなくて。
舅と共に、姑と妻が待つ――よく知らない男とよく知らない女とよく知らない娘と暮らす、よく知らない家へ。
(…………っ!)
心が、悲鳴を上げる。
いつか聞いたよりもずっと哀切で切実な。
その叫びが、胸を軋ませる。
胸を押さえ、林冲は立ち止まった。と、その拍子に後ろから来た人とぶつかる。恋人らしい娘を連れた若い男だ。失礼、と頭を下げて道の脇に退いて、彼はそこでやっと気付く。
講釈の声。
曲芸。
猿回し。
小唄。
喝采。感嘆。野次の声。
月の光と吊り灯籠の火に照らされて皓々と明るい瓦子へ、いつの間にかやってきていたのだ。
一体いつ以来だろうか。子供の頃は説三分目当てでよく出入りしていたが、王進の推挙で禁軍武術師範補佐の職に就いてからは、それどころではなくなった。懐かしい喧騒に、林冲はフラリ、と足を踏み出す。今度こそ彷徨うような足取りで。
しかし、彷徨ってはいなかった。今度は求めるものが、行くあてがあった。辺りを見回し、講釈の声が聞こえる方へ聞こえる方へと歩を進める。人だかりがあれば僅かに立ち止まり、何の芸が供されているのかを見て、違えば再び歩き出す。芝居小屋に流れる人を避け、人形劇に夢中になる人をかわし、揺れる吊り灯籠を横目に酔客をいなして、
「――さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 瓦子においでの紳士淑女の皆様方、李大姐の説三分が始まるよ!」
求める声が、聞こえた。
林冲は視線を巡らせる。彼の左手、設けられた演壇の上に道服姿の若い娘が立つ。女の講談師とは珍しい。
足を向けた。
演壇の手前に立つ客寄せの若い男が、ニコニコと笑って声を更に張り上げた。
「本日今宵の講釈は、天下分け目の赤壁だ! 呉の地を踏み荒らさんとする曹操に、果たして劉備・孫権は如何にして立ち向かうか!? 諸葛亮・周瑜の計略、お馴染み関羽・張飛・趙雲の活躍は如何に! 聞きたい方は寄っといで! そして講釈のお供に李二姐特製饅頭を是非どうぞ!」
饅頭は一つ三十文だった。少し割高だが、瓦子では良心的な方だ。この手の饅頭を五十文や六十文と吹っかける講談師はたくさんいる。
小屋がけして入場料を取るのとは違い、こういった辻講釈はこの饅頭のような「講釈のお供」が実質的な聴講料になる。買わなくても聞けない事はないが、その場合、売り子や呼び込みがしつこく勧めてきて、とても講釈を聞くどころではなくなるのだ。
李大姐の講釈が、始まる。
声は美しく、だというのにその語り口には勢いと迫力があった。客はあっという間に彼女の語りに引き込まれ、この宋の徽宗皇帝の御世から後漢の末、三国動乱の時代へと連れていかれる。
けれど林冲は共に行かなかった。行けなかった。
脳裏に思い浮かぶのは、長江を埋め尽くすおびただしい数の船ではなかった。林冲自身の過去だ。今この時と同じように講談師の話を饅頭片手に熱心に聞いていたあの頃だ。講釈が終わって人々が散り始め、林冲は覚めない興奮に目を輝かせて振り返って――
そこに、王進と、母君が待っていてくれた。
この瞬間、
全く不意に、唐突に、
林冲は、ずっと聞こえていた心の叫びを理解した。ああ、と嘆息する。
(どうして――)
(どうして、私は)
王進様の子に、生まれてこなかったのだろう。
王進には昔、妻があった。
直接は知らない。しかし母君が少しだけ教えてくれた。仲睦まじい夫婦だった。子供の誕生は待ち望まれていた。しかし子供は生まれなかった。奥方は病を得て亡くなり、王進は再婚を頑なに拒んでいる。
二人の間に、生まれてくれば良かったのだ。
あんな母の元ではなくて。
そうしていれば。
そうしていれば、きっと――
「――最近の説三分は、このような講釈なのか」
突然右手から聞こえてきた声に、林冲は、見るともなしに見ていた講談師から視線をそちらに移した。
「――……王進、様……」
何故。
いつの間に。
買った饅頭を食べもせず、講釈に熱狂する事もせず、王進は観察の目で演壇上の講談師を見ている。
「どうして、ここに……」
今まさに場面は最高潮、諸葛亮の計略が成功して曹操の船団が燃え上がる。聴衆の喝采が上がる中、それらに決して紛れる事のない王進の静かだが強い声が、林冲に返ってきた。
「お前は昔から、ここが好きだったからな」
と、饅頭を無造作に一口食べる王進。
「……ふむ、中々の味。これで三十文なら安い方か――食べぬのか、林冲?」
「あ、いえ……」
言われ、林冲は手の中の饅頭を見下ろした。今の心境と、王進の突然の登場による混乱で、「食べぬのか」と言われてもやはり食べる気が起きない。
そう、饅頭の事などどうでもいい。それよりも自分と、王進の事だ。
「王進様、あの――」
――王進に拾われた命だった。
王進に救われた人生だった。
王進に導かれてここまで来た。実の母に、父と仰いだ男に裏切られた林冲に、信頼と、家族の温かさを教えてくれた。
それが、どれほどの幸いであったか。
だから林冲は王進の部下でいるのだ。
王進の下にいて、王進のために働く。王進に拾われた命なのだから、そうするのは林冲にとって当然の帰結だった。
それ故に、王進の言葉に従う。
王進に導かれるままその道を進む。それこそが林冲の生きる道だ。
けれど……けれど今回だけは、この話だけは。
「――私の、縁談」
「お前の縁談だが、林冲」
林冲の言葉にかぶって放たれた王進の声。
とっさの言葉を飲み込んで窺えば、未だ講談師を見つめたままの王進の横顔は、いつもの、あの感情が読みにくいそれだった。
唇が動き、続く言葉が紡がれる。
「母上とも相談したのだが」
次の言葉に、林冲は瞠目した。
「私は断ろうと思っている」
「――……何故、でしょうか?」
愕然としながらも、林冲は何とか言葉を発した。おかげでどこかたどたどしい口調である。
それほど驚いたのだ。
お前にとって、決して悪い話ではない。王進はそう言った。だから林冲は、王進がそのまま縁談を進めると思ったのだ。
「お前に嫁を迎えるならともかく、婿として張家に入るならば我が家から送り出さざるを得ない。しかし……母上が、お前を手放すのを嫌がっている」
けれど林冲は王進の表情を読み解く。――王進もまた、自分を惜しんでくれている。
では。
では――
「張謙には、私から断りを入れる。良いな、林冲?」
王進がこちらを見た。
いつもの表情。けれどその視線は、分かりにくいけれど優しさを含んでいる。
唐突に喉の奥からせり上がってきた衝動を、林冲は奥歯をきつく噛んでやり過ごす。それは鼻の奥まで及んでツンとした痛みをもたらした。浮かびそうになる涙をこらえ、
「――はい、王進様」
「では帰るぞ。母上が夕餉を作って待っている」
「はい!」
帰る家がある。
待っていてくれる人がいる。
そして血は繋がらず、口には出せず、これからも部下としてあり続けるけれど――父と思い定められた人がいる。
その幸せを、林冲はただ無心に噛み締めた。
「――しかし、張謙のご息女を振ってしまったとなれば、いざお前が嫁を迎えようとしてもなり手が見つからないかもしれんな」
「それでしたら一生妻帯しなければ済む事です」
「そういうわけにもいかんだろう。お前も男だ、今はそういう気にはならないだろうが、いずれは妻を娶りたいと思うようになる。そうした時に『張氏の娘で駄目ならどんな娘なら満足するのか』と思われたら困るぞ」
「……別に、高望みはいたしません」
「ほう」
「容姿は良し悪しは問いません。料理や裁縫も、人並みに出来れば良しとします。ただ、夫に代わって家と子を守れる気概と、夫の三歩後ろをついてくる控えめさを持った――」
「母君のような方ならば、文句はありません」
と、林冲が笑顔と共に快活に答えた瞬間。
王進は愕然とした表情でガクリと膝を突き四つん這いになって、血を吐くような口調で「育て方を間違えたか……!」と絶望的に呻いた。
武芸はともかくそれ以外の人生経験が色々足りていない林冲は、祖母に当たる人を「理想の女性像」に上げてしまったしょっぱさに気付きもせず、「王進様? 王進様!?」とオロオロしたのだった。
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