何故だ、と責める声に呉用は心の耳を塞いだ。
 本当なら普通に両手で両耳を押さえてしまいたかった。だが、相手の眼前でそれをやれば苛立ちに油を注ぐだけ。だから呉用は心を塞ぐ。いつも通りに。
 なぜだどうしてだようなぜきゅうしをうけなかった塞いだ心の耳を通り過ぎる言葉は言葉として意味を成さずわかっているのかおまえだけなのだぞおまえだけがわがいちぞくをえいたつのみちにみちびけるのだおまえだけがわがいちぞくをすくえるのだ並べ立てられる音の羅列は抑揚を失いそれなのにおまえはきょうしもうけずべんきょうさえせずこんなちっぽけなむらのこどもたちにがくもんをおしえているだけだとふざけるなおまえならばしんしきゅうだいになれるはずだ無味乾燥の音の嵐を呉用はただ通りすぎるのを待ついやじょうげんだってねらえるそれなのにようおまえはいつまでもこどもみたいに待っていたのに、

「邪魔ぁするぜ、呉用!」

 突然響き渡った晁蓋の上機嫌で快活な声に、塞いでいたはずの心はあっさりとこじ開けられた。それまでただの音としてしか認識できなかった声が、豊かな抑揚を伴って耳に飛び込んでくる。言葉として意味を持ち直す。
 私塾の奥にある、呉用の小さな小さな書斎。そこはたくさんの書に埋もれた部屋だった。出入り口と、窓際の机以外の壁は書棚で隠され、書棚に入りきらなかった書が床を侵食し、いくつもの山をなして雑然としている。
 出入り口に堂々たる立ち姿をさらす晁蓋は、窓際の椅子で縮こまっていた呉用と、そこへと至る危ういほどに細い道の途上で闖入者に驚く初老の男とにそれぞれ一瞥をくれ、眉をひそめた。
「……何だ、客か?」
 晁蓋には独特の雰囲気がある。
 何と言うのだろう、ただそこにいるだけで場の中心となり、何をするわけでもないのに自然と集団を率いて、そしてそれを誰もが当たり前のものと認めてしまう。そんな独特で稀有な雰囲気だ。それはおそらく、カリスマと呼ばれるものである。
 呉用の客は明らかに気圧されていた。呉用と同じく、それほど貧弱でもない体格の持ち主なのだが、晁蓋と比べると明らかに見劣りする。彼を見上げて少し狼狽を見せたその姿は、虎と遭遇してしまった鼠のようだった。
「だ……誰だね、君は」
「ん? 俺ぁこの村の保正だが」
「な……? 君――いや、貴方が保正殿、か。なら話は早い。貴方からも用に言ってやってくれませんか。こいつと来たら――」
「晁蓋、用事は何だい?」
 呉用は立ち上がった。大仰に身を逸らし、男の体越しに晁蓋を見やる。言葉を遮られた男は呉用を睨んだ。突き刺すような視線。それを呉用はすまなさそうな笑みで迎え撃つ。
「すみません伯父さん、用事が出来たのでその話はまた明日にでも」
「――……お前が頷くまで、何度でも来るぞ、用」
 そう吐き捨てて、男は書斎から出ていく。
 その際、大袈裟なくらいに晁蓋を避けていったのに、呉用は――作り笑いではなく――笑った。



「――何度か見た顔だな」
「済州に住んでる伯父だよ。この時季になると毎年来るんだ」
 苦笑気味にこぼして、呉用は改めて椅子に座る。意識もしない内に溜め息が漏れた。
 そんな呉用の頭上から、晁蓋の無造作で無遠慮な声が降り注ぐ。
「科挙か」
「よく分かったね」
「馬鹿にすんじゃねぇよ。俺だって郷試だの進士及第だの状元だの知ってるぜ」
「……君、いつから聞いてたんだ」
「あれだけでかい声で騒いでりゃ、外からでも聞こえるさ」
 筒抜けになっていたのか。呉用は思わず額に手を当てた。
 科挙とは、言わずと知れた朝廷主催の官吏登用試験の通称である。
 試験は三段階。地方の府州で行なわれる一次試験の郷試、開封府で行なわれる二次試験の省試、そして皇帝自らが試験官となる最終試験の殿試。殿試に合格すれば「進士」という称号を貰え、成績上位者は進士及第という区分に入れられる。その中で最も優秀な者、つまり首席を取った者が、状元と呼ばれるのだ。
 状元になれれば、栄耀栄華が約束される。
 進士及第には入れれば、後の出世に相当有利になる。
 そのどちらも叶わずとも、進士にさえなれれば、出世の道が開ける。
「僕の祖父も、父も、伯父たちも、皆科挙に落第していてさ。そのせいで、昔はそこそこ富んでいた僕の家は一気に没落。だから伯父たちは、その頃の富を少しでも取り返したいんだ」
「お前を使って?」
「うん」
 ふぅん、と晁蓋は興味なさそうに相槌を打った。
「そんなにいいもんかね、進士ってのは」
「そりゃね。受かって官職にありつければ、一族の暮らしと名誉は安泰だ。知らない? 宰相の蔡京も科挙出身だよ」
 科挙に受かってからの立身出世の才能を、蔡京が持っていた、というのもあるだろう。宰相にまで上り詰めた蔡京はその栄華を思う存分近親者に分け与えた。北京大名府で留守をやっている梁中書は、蔡京の娘婿だ。
 科挙は、庶民出の者でも栄耀栄華の糸口が掴める制度だった。だが合格するにはたくさんのものを犠牲にしなければならない。自由な時間、金、心の平安。何もかも捨てて四六時中儒教の経典と向き合って、その暗記にひたすら勤しんで、そんな生活を何年も繰り返して楽しい少年時代も輝かしい青年時代も棒に振って、それでも受かる見込みは悲しいほどに少ない。

 ――幼い頃から「神童だ」ともてはやされてきた。
 お前なら、そう何度も言われ続けてきた。
 書を与えられたのは嬉しかった。
 勉学をさせてもらえるのは楽しかった。
 だが、それに縛りつけられ、目の色を変えた両親に強制されるのは嫌だった。書を読み、学ぶのと同じくらい、
 ……晁蓋と遊ぶのが、好きだった。

 その時、呉用は不意に腹を押さえた。
 顔をしかめて背を丸めた彼へ、呉用? 晁蓋の気遣わしげな声。大雑把でいい加減なくせに変なところで勘の良いこの幼馴染みは、待ってろ、と一言ぶっきらぼうに言い捨てると、戸棚を乱暴にあさり始めた。ほどなくして取り出されたのは薬箱。それを机に置くと、晁蓋は書斎から出ていった。一方の呉用は箱を開け、目当ての薬を取り出し、
「――ほらよ」
 戻ってきた晁蓋が、ズイ、と茶碗を眼前に差し出した。水が入っている。胃を、内側から針で刺すような痛みをこらえてありがとうと微笑と共に囁くと、呉用はそれで安道全処方の胃薬を飲んだ。
 キャベキャベ喚く錠剤を飲み下し、一息。そこから先、奇妙な沈黙が書斎に下りた。
 暖かくも冷たくもなく、居心地が良くも悪くもない、何とも言えない中途半端な沈黙だ。

「――……笑ってくれて、構わないよ」

 呉用はそれを破る。耐えきれなかった、わけではない。ただ何となく喋りたかった。聞いてもらいたかった。言葉は堰を切ったように溢れ出す。
 茶碗を両手で包み、背中を丸めてうなだれたまま、彼は滔々と語る。

「毎年の事なんだ。伯父は、毎年わざわざ済州からこの村までやってくる。それで毎年、『次こそは郷試を受けろ』って迫る。僕が根負けするまでね。
 だからこの時季になると、来るって連絡が来る前からもう胃が痛くて痛くて……いつも、あらかじめ安道全医師と薛永さんから胃薬を貰っておくんだ。胃薬でも飲んでおかないと、乗り切れないんだよ」

 情けないだろう?
 だから、笑ってくれ。
 僕を笑い飛ばしてくれ、晁蓋。


  毅然とした態度も取れず、こんな時にしかやってこない薄情な伯父に振り回される、この僕を。


 はぁぁっ、とわざとらしい溜め息が聞こえた。
「――おい、呉用」
 呼ばれ、傍らの晁蓋を振り仰ぎ、

 ペタ。

 冷たくて湿っていてヌルッとする何かを、顔に投げつけられた。
 その冷たさ。
 その柔らかさ。
 その感触。
 呉用の記憶に喚起されるものがある。そうだ、これは――そこまで考えた、その時、

 ――ゲコゲコ。

「ぎっ……ぎゃああああああああああああああああああああっ!」
 呉用の絶叫が書斎に轟いた。
 のけぞる。引っ繰り返りかける。立ち上がり、勢いよく後退りする。バタンッ! 椅子の倒れる音。床に積んだ書の山を崩し、足を取られて仰向けになって倒れていき、ガツンッ! 呉用は後頭部から入り口側の書棚に突っ込んだ。バサバサバサッ、と大量に落ちてくる書。もうもうと上がる埃。その向こうから、ゲコゲコという鳴き声と、晁蓋の腹が立つほどに豪快で上機嫌な笑い声が響いてきた。
「相っ変わらずなっさけねぇな呉用! たかが蛙だぜ?」
「ち、ち、ちょう、晁蓋、き、君、君って、君って奴は……!」
 晴れてきた埃の幕の向こう、床から蛙を摘み上げる晁蓋へ、呉用は半分泣きの入った怒声を叩きつける。
「誰のせいだと思ってるんだ! 僕が蛙・蛇嫌いになったのは、晁蓋、君のせいじゃないか!」
「あぁ? そうだったっけ?」
「そうだよ! そりゃ苦手なのは元からだったさ! だけど君と来たらそれを面白がって、池に飛び込んでは蛙を掴んで僕に投げ、草むらに分け入っては蛇を持って僕の首にかけて! あのペタッ、ヌルッ、ヒヤッとした感触! 僕が嫌がってるのに君はゲラゲラ笑ってもっと蛙や蛇を投げてきて、ああそうだ後ろ襟から服の中に入れられた事もあったっけ思い出すだけで鳥肌が立って吐き気とめまいに襲われるよどうしてくれるんだ晁蓋責任取ってってうわあああああああっ!」
 最後の絶叫は、晁蓋が床のこちらに向かって蛙を再び投げ寄越したからだ。蛙は呉用の膝近くに着地して、ゲコゲコゲコゲコ呑気に歌っている。
「まぁ落ち着けよ、呉用」
「これが落ち着いてられる!?」
「たかが蛙だろうが」
「僕にとっては『たかが』じゃないんだよ!
 大体君がいつまでも僕に蛙や蛇を投げて遊ぶから、子供たちも皆面白がって投げてくるようになったんだ! おかげで夏頃なんて授業になりゃしない! 皆蛙を捕まえて僕に投げて授業を滅茶苦茶にするし、たまに外で授業をすれば『はい、呉用先生!』なんてキラキラした笑顔で捕まえた蛇を僕に差し出すんだよ!? 僕にどうしろってのさ! 子供たちの泣き顔なんて見たくないから無下にも出来ないし、これは全部晁蓋のせいだ君のせいだ責任取れ!」
「じゃあ」
 と。
 しゃがむ晁蓋。こちらの目線の高さに合わせたのだろう、覗き込んでくる顔は悪ガキの笑みを浮かべている。蛙を再びつまみ上げ、

「今からお前の伯父貴んとこ、行くか」

 え、と。

 呻いて呉用は咄嗟に腹を抑えた。宿にいる伯父。あの、神経質で不機嫌な顔を思い出すだけで、チクリ、と痛みが収まったはずの胃に再び針が突き刺さる。
 だが、

「そんで、俺が言ってやるよ。うちの村の呉用先生は」

 ――その時呉用は、不思議な感覚に包まれた。

「ストレスに弱くて」

 晁蓋の言葉、

「神経質で」

 その一つ一つは、

「大の大人のくせして蛙と蛇が苦手で」

 呉用をけなすものだというのに、

「しかも子供好きで、自分の勉学より子供たちの勉学を優先させるお人と来た」

 それらは暖かくて、優しくて、大きくて、呉用をいたわり慰めるのだ。
 胃痛が、どんどんと消えていく。
 嫌な気持ちが、どんどんと消えていく。

「だから、弱ぁーい百姓をいじめてなけなしの金をゆすりとって、それを賄賂に強くて腐った役人どもに取り入って自分だけじゃなくあんたらの食い扶持まで稼ぐような、そんなお偉い進士様にゃあなれません、お引き取りを――ってな」

 晁蓋はニヤリと笑う。
 呉用もつられて笑う。

「行くぜ呉用。この托塔天王・晁蓋様が、お前のストレスの原因をきっちり追い払ってやらぁ」

 こちらの承諾も得ないまま、晁蓋は呉用の手を引いて立たせる。呉用は逆らわない。手を引かれるまま書斎を出、外に出、宿への道を歩き出す。
 まるで子供の頃のようだ、と思った。
 子供の頃、よく晁蓋に手を引かれて無理矢理遊びに連れ回された。行く先は大概崖だとか谷川だとか危険な所で、呉用の両親は晁蓋と遊ぶ事にいい顔をしなかった。
 だが、呉用は楽しかった。
 勉学よりも、もっと楽しかった。
 そうだ、楽しいのだ。今も昔も、晁蓋といるのは楽しいのだ。
 無理難題を吹っかけられる事がある。
 泣かされる事もある。
 それでも呉用が晁蓋の友でいるのは、何の事はない、この男といるのが楽しいからだ。
 大人のなった今も、
(――いや)
 不意に呉用は内心でかぶりを振る。大人になった? それは違うかもしれない。
 図体は大きくなっても、少年の頃のままなのかもしれない。
 晁蓋も――自分も、また。

『それなのに、用、お前はいつまでも子供みたいに』

 不意に耳に蘇る伯父の声。ただの音として聞き流したそれが、抑揚を伴った言葉として再生される。呉用は笑みを深めた。

(そうだ。僕は少年のままだ。
 だから――楽しい事は、終わらせない)

 自分の好きなように勉学をするのも。
 私塾の教師をして、子供たちに教えるのも。


 晁蓋の傍にいるのも。


「――晁蓋、手を離して」
 あ? と振り返った親友へ、呉用は笑う。
「大丈夫、君に手を引いてもらわなくたって僕は歩ける」
 だから晁蓋に言ってもらうのではなく、自分の口で言うのだ。
 東渓村を離れるつもりはない。
 科挙は受けない。
 だから諦めてくれ、と。
 そうか、と手を離した晁蓋は、頼もしそうに笑っていた。



少年時代は終わらない

 

 

 

 本編の数年前、晁蓋さんが保正になって少しした頃のお話。何で親友の毎年の悩みを長年気付かなかったんですか晁保正、という突っ込みはなしの方向で。

 宋代の資料を読んでいたら科挙の話を見つけて、それで突発的に書きたくなったネタ。科挙を受けずにいたら親戚中から突き上げを喰らった呉用先生、って北方水滸だったっけ?
 ところで呉用先生を書くのはこれが初めてなんですが、口調のサンプルが少なくて困ります。



○参考文献
 宮崎市定『水滸伝 虚構のなかの史実』、中央公論社、1993
 松丸道雄・池田温・斯波義信・神田信夫・濱下武志編『世界歴史大系 中国史3―五代〜元―』、山川出版社、1997

 

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