戴宗のお嫁さんになる子は、どんなだろうね。
不味い草粥の椀から顔を上げれば、眼前、卓の向こう側の洪信は穏やかな微笑でこちらを見つめていた。
「……何だよ、急に」
注がれる眼差しの暖かさがやけに居心地悪くて、戴宗は再び椀に視線を落とす。最早粥と言うのもおこがましい草粥は、今日も今日とて重湯より薄く、青臭く、ザラっぽくて、苦い。
とても食欲がそそられるものではない。だが食べ物など他にない。匙で一口すくい、あの何とも言えない青臭い苦味を思い出しながら、戴宗は深呼吸を一つ、二つとして――意を決し、目を瞑って、勢いよく口の中に放り込んだ。そしてろくに咀嚼もせずに飲み下す。しかしどうしても口中に嫌な青臭さが残り、思わずゲェッと舌を出していた。
アハハと声を立てて笑った洪信は、既に朝食の草粥を食べ終えていた。私はそんなにお腹が空いてないから、と自分の分を半分近く戴宗に譲ったからだった。まだ幼い戴宗にたくさん食べさせてやろう、という気遣いが解ったからこそ、戴宗はこの時逆に反発心を覚えて、グズグズと匙で椀の中を掻き回すばかりで中々食べ終えなくて――――
(――「この時」?)
自分の発想に訝しさを得る戴宗へ、
「だってさ、戴宗」
頬杖を突く洪信は、やけに朗らかな声を紡ぐ。嬉しそうで、楽しそうで、何だかやたらとはしゃいで弾んでいる声。これから起こるであろう楽しい事をワクワクと待ち構える子供のような声だ。
「戴宗のお嫁さんは、きっとすごく大変だと思うんだよね」
「……はぁ?」
一体何を言い出したこいつは。訝しさと呆れが当分に入り混じった声と表情を作ると、洪信は更に深く笑う。それから不意に空いている方の手を軽く開いたまま甲の側をこちらに見せるように掲げ、
「すごい偏食だし」
親指が折れる。
「すぐ怪我するし」
人差し指が折れる。
「素直じゃないし、乱暴だし、未だに父ちゃんに笑ってくれないし」
中指、薬指、小指と折っていき、親指を折り込んだ拳と化した自分の手を見て、浮かべた笑顔を仕方なさそうな微苦笑へと変える洪信。
「こんな戴宗でもいい、って言ってくれる女の子がどんな子か、父ちゃん見てみたいよ」
「……知らねーよ」
挙げられた短所は確かに短所で、反論の言葉が見つからない戴宗としては、むくれて尖った声を出すより他にない。というか、六歳かそこらの子供に「お前の結婚相手が見てみたい」って何だそれ。まったく、何て話題を出しやがったんだか、この養父は――――
(あれ?)
両手で椀を包んで粥をすすって、戴宗は改めて首を傾げる。
「何て話題を出しやがった」? 過去形? 今まさに繰り広げられている会話なのに、何で、
(――――――――……………………ああ、そうか)
この瞬間。
まったく唐突に、
(こいつは、夢だ)
戴宗は、過去を夢見ている事に気付いた。
養父が殺される少し前、交わした問答である。
草粥を不味いだの嫌だだのと文句ばかりを言う幼い戴宗に向かって、淡く苦笑する洪信が呟いた独り言、「戴宗のお嫁さんになる子は、どんなだろうね」。そのままの笑顔で短所を挙げ連ねる養父に戴宗は反論の言葉が見つからずに不機嫌丸出しの渋面で、「……変な奴じゃねーの?」とむくれた声で適当に答えた。
この夢は、そうだ、その時の記憶をなぞっている。だとすれば戴宗が次に言うべき言葉は、「変な奴なんじゃねーの?」だ。すると洪信は「お嫁さんになってくれる子にそれはないんじゃない?」と言い、戴宗は呆れた声で「まだ貰ってねー。ってかおたくが先に嫁貰えよ」と返し、話題を無理矢理変えるのだ。
そうすれば洪信は、そうだね戴宗、と笑ってくれる。
口が裂けても言えなかったし、認めるなんて以ての外だったけれど、実は大好きだった笑顔を、見せてくれる。
だから戴宗は、定まりきった言葉を告げようと口を開き、
「――――どんな子なんだい?」
放とうとした言葉と共に息を飲む。
ハッと顔を上げて洪信を見た。卓に頬杖を突いている養父は、見た事もないほど穏やかな、慈愛に満ち溢れた微笑みを向けてくれている。
戴宗はその笑みを見開いた目で呆然と見つめ――詰めていた息を、緩々と吐いた。
どんな子なんだい? その問いの意味は、問いただすまでもない。
だからこう答えた。
「……変な奴だよ」
「うん」
しみじみと、感慨深げに頷く洪信。
「よく泣いて、よく怒って、よく笑って、やかましくて、騒がしくて」
「うん」
「八方美人で、色んな奴に愛想振りまきやがって」
「うん」
「俺の話を聞いて、泣いて」
「うん」
「俺より先に死なない、って言ってくれて」
「うん」
「俺なんかがいい、って言ってくれて」
「うん」
「俺の事を……好きだ、って、言ってくれたんだ」
語る内、戴宗の声は子供の甲高いそれではなく、変声期を迎え、低く落ち着いた大人の声へと変じていく。
草粥の椀を包むように持っていた手も、いつの間にか変わっていた。細くて丸くて弱々しい子供の手から、節くれ立って無骨で傷だらけで剣を握り慣れた今の戴宗の手に変わる。
床に届かずブラブラさせていた足は、気が付けば床をしっかりと踏みしめていて。
洪信を少し見上げなければいけなかったはずの低い目線は、今では見上げなくてもいいほどに高くなっていた。
――これは、夢だ。
――かつての記憶を、夢の中でなぞっているだけだ。
――目の前の洪信は、きっと、自分の願望が反映され、それを無意識が動かしているだけだ。
――死んだ養父が夢の中に出てきてくれた、なんて、都合のいい事が起こるわけがない。
それでも、
「――その子が好きなんだね、戴宗」
「……うん」
こうして語らえる事が、嬉しい。
「そっか、戴宗」
そうして見せてくれる、本当に嬉しそうな笑顔が、泣きたくなるくらいに嬉しい。
父ちゃん。
今ならそう呼べそうな気がして、口を開いて、
――その時、唐突に洪信が立ち上がった。
戴宗を慈しむ笑顔のまま、こちらにスッと手を伸ばして、
「――――――――――――――――幸せに、おなり」
トンッ。
胸を押され、
「とっ――――」
何故か力が入らず、戴宗は椅子ごと為す術もなく後ろ向きに倒れていき――――――――
夜明け前の夢
――――――――ガタンッ!
椅子が倒れた音と体を襲った衝撃で、戴宗は覚醒した。
見慣れた天井を真正面に捉えた視界は、淡い群青色に満ちている。そのまま視線を横に移動させて窓の外を見やれば、まだ日も昇らない夜明け前の薄青の闇が目に飛び込んできた。
椅子に座ったまま仰向けに倒れている、という奇妙な姿勢を直しもせずに周囲を見回せば、見慣れた空間は惨憺たる様相を呈している。
死屍累々。
そんな言葉が寝起きの頭にポカンと浮かんだ。
床に転がっている者。ついさっきまでの自分と同じく椅子に座ったまま卓に突っ伏している者。壁にもたれて傾いでいる者。床ではなく卓の上で大の字になっている者。
この絵だけを切り取れば文字通り死屍累々たる有様だが、もちろん誰も死んでいない。戴宗の耳にはしっかりと、寝息といびきと寝言の三重奏が届いている。
そして空気は、酒臭く、反吐の酸っぱい臭いまで混じっている。朱貴の店で吐くとは、誰だそんな勇気のある奴は。
そこまで思い至ってようやく、戴宗はげんなりと状況を把握した。
独身最後の夜だった。
明日からはもう俺らとばっかりつるんでらんねぇんだぜ! 独身最後の夜なんだから、一つハメ外しとこうよ。はしゃいだ声の小五と燕青に引っ張られて朱貴の店に放り込まれてみれば、中には替天行道の主立った野郎連中(結婚式の準備に特に関係ない、武張った暇人ども)が勢揃い。花婿はとっとと寝やがれゴルァと追い返そうとする劉唐の眉をとりあえず全剃りし、わーん兄貴結婚しちゃ嫌っスーと抱きついてくる王定六を投げ飛ばし、小二と小七の持ってきた魚にケチをつけながらも平らげつつ、いつの間にか小五と燕青が酔わせた林冲に戴宗ここに座りなさいいいですか君という奴はと絡まれ、戴宗の結婚とはまるで関係なしにただ酒の匂いに惹かれてやってきた花和尚、武松、楊志に叩かれたり戦いを挑まれたり無視したり、気が付けば誰かが笛を吹くわ歌うわ脱ぐわ踊るわ戦うわで――
酔い潰れて寝ていたわけである。卓に突っ伏して。
ふと自分が枕にしていた卓を見れば、直上、戴宗が寝ていたはずの位置からにょっきり生えている誰かの足。特に確認しなくても、それが林冲の足である事は容易に分かった。あとで覚えてやがれ前髪の坊ちゃん。戴宗は心に誓って、溜め息を一つ。
本日、結婚式。
何でそんな晴れの日に二日酔いになった挙句、自分より飲みまくってはしゃいで暴れて前後不覚になって雑魚寝している阿呆どもより先に起きてしまうのだ。
これでは先に起きた者の使命として、こいつらの介抱をしなければいけなくなってしまうではないか。今日という日の主役なのに。
(……よし、もう一度寝るか)
こういう時こそ現実逃避である。戴宗は目を閉じた。まだ去っていなかった睡魔を流星のごとき速さでとっ捕まえ、拘束し、取りついてもらう。
死屍累々たるグロッキーな酔っ払いどもの事など忘れて、もう一度養父の夢でも見るとしよう。
そうしたら今度は、ちゃんと「父ちゃん」と呼べるかもしれない。
戴宗は、また眠りに就いた。
|