「おい、坊ちゃん」

 誰が坊ちゃんですか――

 そう尖った声を放とうとした豹子頭林冲は、振り返ると同時に視界に飛び込んできたパンダ面の橙頭に、言うべき言葉を全て見失った。
 ……何だろう、この面は。
 どこかで見たような気もするが、どうにも思い出せない。ならば大した記憶ではないのだろう。が、
「どうした坊ちゃん、間抜けな面ぁさらして」
 と、橙頭こと戴宗はげっげっげと不気味な笑い声を立てる。怒鳴る気力を吸い取られていくような不気味さである。溜め息を吐きたくなる衝動をこらえ、
「黙りなさい義賊。と言うか何をやっているのですか君は」
 と声を尖らせる林冲。小馬鹿にした声で戴宗は応戦してくる。
「あぁん? 別にぃ」
「君は人を馬鹿にしているのですか」
「殺気出すなよ坊ちゃん、カリカリしてっと禿げるの早くなるぜ?」
「私は毎日わかめをちゃんと食べている! 第一、私は禿げるではなく白髪になる家系だ!」
 替天行道の隠れ家があるという孟州の十字坡。現在位置はあと一両日中にそこへ着ける距離。そして禁軍の追っ手も大体撒いて、道中はようやく穏やかなものになりつつある。
 走りっぱなしの道行きがゆっくり歩けるようになって、いきなりこれか。イライラした林冲の怒号が開けた山道に盛大に響き渡った。
「大体何ですかそのふざけた面は! パンダであるならばもっとパンダらしい写実的な面を持ってきなさい!」
「写実的だろーが抽象的だろーがパンダと判りゃそれでいい、それが全てだ!」
 やはり義賊、美的感覚も野蛮か。林冲は更に怒声を放とうとして、

「ああああああああああっ! 戴宗さんーっ!?」

 戴宗を挟んで林冲の視線の先、つまりやってきた道の方から甲高い少女の声が上がった。
 緩い上り勾配の坂道をちょこちょことやってくるお団子頭の正体は小柄な少女。戴宗の連れである翠蓮はあわわと驚き焦った様子で悲鳴じみた言葉を続ける。
「なっ、何で、何で私のお面を戴宗さんがー!? ちょっ、返してください!」
 そう言って戴宗から面を取り上げようとピョンッと跳ねる。しかし、上背が足りない――何せ戴宗と彼女は頭一つ分くらい差がある――上に彼が大人気なくも外した面をたかだかと掲げて手の届かない所にやってしまい、かつヒラリヒラリと少女の手から逃れて動き回るものだから、彼女もまたあわあわ言いながら律儀にそれを追い回す。
 林冲の周りで、だ。
「っ……いい加減にしなさい、義賊!」
 鬱陶しいし、何よりこんな少女がいつまでも振り回されるのは、武人としてとても放っておけるものではない。林冲は戴宗の右手に向かって手を素早く鋭く突き出した。こちらの方が背は高い。ならばこれで――

 が。

 ヒラリッ。

 林冲の手は空を切る。
 それはまるで戦いの時の彼の身のこなし。戴宗は風に舞う木の葉のごとく林冲の手を紙一重で逃れると、一瞬何が起こったか判らなくなった彼に向かってニィヤリと得意げで皮肉げで人を食ったような薄笑いを見せた。おたくなんかにゃあ捕まってやらねーよ――そう言いたげに。
 しかし、回避の動作の分だけ時間をロスした。つまり、

「戴宗さんっ」

 翠蓮が戴宗に追いついた。
 林冲を小馬鹿にして笑っていた少年は、服の袖を掴む少女の必死な表情に明らかに興が削がれたようだった。笑えねぇ、つまらなさそうに低く呟くと、

「――ほらよ」

 ポコン。

 戴宗は。
 大人気ない少年は。
 林冲が拍子抜けするほどの呆気なさで、翠蓮にパンダ面を返した。
 掲げられていた右手はちょうど彼の肩の高さにある少女の頭へと下ろされ、面が軽く小気味良くすらある音を立てて彼女の頭を叩く。衝撃、と言うよりもその軽い感触にきょとんと目を見開いた翠蓮は、放り出されたパンダ面を空中で慌ててキャッチ、両手でしっかりと保持する。
「そんなに大事なら、もう落とさねぇようにどっかにくくりつけとくんだな」
 と、それだけを言って。
 返答も待たずに戴宗はさっさと歩き出す。
 悪ふざけはそれで終わりだった。
(何と一方的な……)
 憤るよりも、唖然として感心さえしてしまう。悪ふざけに付き合っていたこちらの方が馬鹿を見たような、そんな気分だった。
 そして同じようにポカンとしていた翠蓮は、はたと何か気付いて表情に力を取り戻すと、戴宗の背中へと何か言葉を掛けようと口を開いた。
 しかし、すぐに閉ざしてしまった。
 つまるところ彼女の大事な面を拾ってくれた彼へ、掛ける上手い言葉が見つからなかったのか。両手で持った面と戴宗の後ろ姿とを言葉なく交互に見つめ、少女はついに押し黙る。
 仕方がなく林冲が声を上げた。
「少しは待ちなさい! 先行してバラバラになる気ですか!」
 まだそれほど離されていない。聞こえていないという事はないだろう。だが彼は歩みを緩めない。立ち止まっていたきゃあ勝手にやれよ、とばかりに先へ先へと行ってしまう。
 知らず内に、林冲の口から舌打ちの音が漏れていた。
「行きましょう、翠蓮殿。奴に置いてかれて――」
 しまう。
 放ったはずの語尾が、明確な声にならずに掻き消えた。
 林冲は見た。
 見てしまった。


 パンダ面で口元を隠し、
 目を伏せがちにして、切なげに少しばかり潤ませて、
 顔をほんのり赤くさせている、



 少女の、その可憐な横顔を。



 ――ああ、そういう事なのか。
 納得とも呆れともつかない溜め息のような言葉が、胸に満ちた。
 色事とは余り縁のない生き方をしてきた林冲だが、少女のそんな表情を見て何も感じないほど、鈍感であるつもりはない。
 だから改めて声を掛けるのには、少しばかり罪悪感を感じた。
「――……翠蓮殿」
「あ――は、はいっ」
 今度こそ届いた呼び掛けは、少女の顔から恋する乙女の美しさを消し去ってしまう。パッとこちらに上がった顔は、しかしまだ少しだけ赤い。
「行きましょう。彼を見失ってしまう」
「え……――あ、戴宗さん!? 置いてかないでくださいっ!」
 我に返って走り始めた翠蓮の、あの美しい横顔は見なかった事にして、林冲もまた走り出す。
 けれど「あんな男はやめておきなさい」、そう忠告する義理くらいはあるだろうと、気付かれないようにこっそり吐息した。



美しい人

 

 

 

 ところでこの話、何が一番困ったかと言えば林冲さんの喋り方と翠蓮ちゃんの呼び方でした。手元にある原作では判明しなかったので「翠蓮殿」で見切り発車オーライ。
 林冲さんは戴宗さんに振り回され翠蓮ちゃんに慰められる苦労性お兄ちゃんのイメージ。頑張れお兄ちゃん。

 

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